栖鳳は最初「棲鳳」と名乗った。明治末期、30代半ばでヨーロッパに行き、帰国後に「棲」のつくりを西洋の「西」に改めた。栖鳳は円山四条派の流れを汲み、明治以降の画家として応挙に匹敵するほどの評価を得ていると言ってよい。
![●『下絵を読み解く-竹内栖鳳の下絵と素描』_d0053294_0532840.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201312/16/94/d0053294_0532840.jpg)
今年の秋は京都市立美術館開館80周年記念展として、京都市美術館では栖鳳展と、彼の下絵展が同時に開催された。前者はTVで盛んに宣伝されたこともあって、大いに賑わったようだが、筆者は昔に見ているし、図録も持っているので行かなかった。その代わりと言っては何だが、今日取り上げる下絵展には行った。チケットを入手していたが、会場に着くと、「関西文化の日」のために入場無料であった。それが原因でもないだろう、とても盛況で、栖鳳人気の高さを実感させた。本画展を見たついでに下絵展も見ようとした人が多かったと思うが、双方を見ると栖鳳の魅力を堪能出来たろう。だが、欲を言えば、下絵の隣りに本画を並べた展示は出来なかったのだろうか。というのは、この下絵展では最後の部屋で栖鳳の弟子の下絵と本画が隣り合わせに展示されたからだ。同じことを栖鳳で行なわなかったのは、入場料を倍稼ぐ意味合いがあったのかもしれない。ともかく、下絵展は「関西文化の日」に無料にしたのに、本画展は有料を通したのは、それだけ下絵は値打ちがないと言っているようなもので、TVでも下絵展については宣伝がなかった。さて、昨日書いたように筆者は立派だとは思うが、応挙の作品にさほど関心がなく、手に入れたいと思わない。栖鳳もそうだ。幸野楳嶺の四天王と呼ばれた弟子のうちでは段トツに有名で、そのためにも10年か20年に一度は大きな展覧会が開かれる。四天王のうち、都路華香は数年前にやっと大規模な回顧展が開催されたが、それでも作品の市場価値が高騰したとは言い難い。華香はアメリカ人に注目され、どんどん買われている。そのうち若冲と同じことになるかもしれないが、そうなるまでに100年ほどかかるかもしれない。筆者は友禅作家であるから、昔から華香は気になっていた。それでなるべく出物があれば作品を買おうと思っていて、2,3点は持っているが、まだまだ驚くほど安い価格で買える。一方、栖鳳はとんでもなく高く、まためったに市場に出ないのではないか。出たとしても色紙サイズの小品が多いように思う。また、そうした作品を見ても、どこか印刷っぽい。超人気作家であるから、生前から木版に起こされたり、コロタイプで精巧な複製画がたくさん作られたことであろう。それが本物と見分けがつきにくいことが多い。
今回の下絵展は大作のそればかりと言ってよく、いったい栖鳳はいわゆる売れ筋の小品をどれだけ描いたのかが気になる。売り絵を量産する一方、大きな寺などに納まる大作をせっせと描いたはずだが、売り絵となったものが意外に見る機会がないように思う。仮にあまり売り絵を描かなかったとすれば、大作の納入で充分生活が出来たことになるが、それらの大作で名声を得たとは考えにくい。やはり個人が所有し、床の間に飾れるような小さな作品が必要だ。そうそう、栖鳳は雀を描くことを得意とし、その一羽でいくらと絵の値段がついたとされるから、売り絵はよく描いたに違いない。そうした絵が大作とどう違うのかということを今回検証してほしかったが、前述のように大作の下絵が中心となった。これは下絵が同美術館に寄贈などされ、まとまって所蔵されているからであって、小品のほとんど下絵はないと考えてよい。栖鳳は縦横数メートルといった巨大な作品ばかりではなく、いわゆる小品に近い寸法で代表作と呼ばれるものも描いているので、ここで言う小品は展覧会に出品するような力作ではなく、売り絵の意味だ。栖鳳の売り絵はだいたい想像出来る。それは力作とあまり変わらない味を出しているだろう。売り絵であるので、量産する必要があるが、それは素早く描くことを意味している。ところが、栖鳳の絵は大作でもそのように見える。空間を広く取り、さっと描いたようなところがあって、粘着性がない。それは呉春の絵にも見られ、京都の先輩画家が培って来た京都風ということだろう。栖鳳はおそらく江戸で流行した南蘋派に見られる油絵っぽいしつこさは嫌ったであろう。だが、西洋画を学んでそれに負けないことを課したのは応挙譲りで、しかも実際にヨーロッパの地を踏み、自分の目でたくさんの油彩画を見ることが出来たから、応挙が出来なかったことを推し進める義務を感じたに違いない。そして、それが成功したかどうかだが、応挙が描かなかった絵を作り上げたことにおいて、役割は果たしたと言える。ただし、ヨーロッパの風景を描いた作品は筆者はあまり好きではない。また、栖鳳の代表作としてそういった作品はあまり数えられていないのではあるまいか。TVで紹介されていたのは、昔と同じで、「斑猫」や「アレ夕立に」、「絵になる最初」で、どれも日本的ないし京都的で、少しヨーロッパを感じさせるものは「大獅子図」だが、これは本物のライオンを見ることが出来る時代になって、応挙とは違って本物の写生を尽くすことが出来た成果だ。
となれば栖鳳はわざわざ「栖」の文字を使う必要はなかったのかということになるが、それは違う。西洋を直に見て来て、そのいいところもわるいところも咀嚼し、自分の絵を作り上げたのが栖鳳で、彼なりの新しい写実は表現されている。それは応挙と違って、やはり斬新な感じが絵から漂う点だが、円山四条派の筆さばきの熟練さを手にしつつ、描く対象を速度感や質感で捉えた。速度感はカメラの一瞬の光景を切り取る能力に比べてもよい。栖鳳は動くものを的確に描く才能に長けていた。画家はたいていその能力はあるが、動物を描くことを得意とした栖鳳は、同時代の画家では他に比べられないほどの抜群の、一瞬の動きを記憶する能力があったように思える。それは生まれながらにしてのことも多少あろうが、やはり努力だ。つまり、写生を重ねることで、そのことが今回の展覧会で示された。下絵を描くにはまず素描を重ねる。たくさんの形をスケッチしておき、その中から面白い形を選び、さらにそれを複数同居させる。個々の面白い形をいくつか並べるとして、そこにはまた難しい問題がある。ひとつずつの形は面白いのに、絵としてのまとめが悪ければ、全体の形は面白くならない。今回栖鳳の言葉が紹介されていて、名画と呼ばれるものは、ひとつずつの形も、それがまとまった形も面白いと言っている。これは誰でも少し考えてわかるが、群像をまとめ上げるのは、その個々の形を選び抜くことの難しさ以上だ。鴨や兔を数羽描くとして、その一羽の形や配置がまずければ全体は台なしになる。そのため、栖鳳の大作はたくさんの素描をまず基礎にあって、そこから形を選び抜き、群れとしてまとめ上げる努力を通したもので、大画面になればなるほど製作時間を要したことだろう。また、床の間に飾るような小品は大作のような群像を縮小して描くのではなく、せいぜい対象を実物大程度に描くから、画面構成のための思考はさほど時間を要さず、そのため下絵もなしにさっと描いたことが多かったと思える。では大作にもそのような速度感があるのは、写真のように動物を一瞬の動作で捉えているからで、粘着質が表われることは古い絵と思っていたのであろう。古いことは格好悪いことであり、栖鳳はダンディであることを欲し続けたのだろう。絵からそのことが伝わる。そしてそのダンディズムが京都人には歓迎された。さらりとした様子は京都人の人間関係でも見られる。表向きは親しげで、それ以上にお互い中に入り込んで行かない。栖鳳の絵もそのように感じさせる。これはいいとかわるいとかの問題ではなく、京都では応挙の時代から絵とはそのようなもので充分という思いがあった。
栖鳳が描く質感は鯖の絵によく表われている。魚のぬめりが油彩画以上に感じられ、東洋の筆と絵具でどこまで写実が可能かをよく示す代表作であろう。「斑猫」では毛並や目の質感が見事で、しかも全体はさらりと描いた印象が強い。それは実際に迷いなく描いたからでもあるが、それには素描を数多くこなし、また原寸大の下絵で推敲を重ねたからだ。そのため、栖鳳は本当は下絵を見せたくはなかったであろう。これだけ努力したという痕跡を誇示せず、淡々とした本画のみ見せる。それがダンディズムだ。であるから、今回の展覧会は、ダンディであるためにはどれほど苦心しているかを露わにするもので、ま、そのこともダンディであるための欠かせない条件でもあろうから、鑑賞者はやはりと納得するに違いない。結局のところ、何事も努力の積み重ねで、そのためには才能と時間が必要ということだ。ところで、栖鳳が応挙につながっているほどには、現在の京都の日本画家は栖鳳につながっていないように見える。それは栖鳳ほどに筆を自在に操る努力を怠って来たからで、「付け立て」の技法を自信を持って教えられる人物がいない。それもあって、日本画は栖鳳のようにしっかりと下絵段階で構成するということを放棄し、いきなり大画面に描く人が多い。写生もろくにせず、下絵も作らないでは、どれほど完成度の高い作品が出来るかと思うが、いつの時代でも絵の売り手からは現存の巨匠や人気画家が必要であるから、それなりに一世を風靡する画家はいる。そして、そういう画家の作品は、栖鳳の絵を古臭いものに感じさせることもままあるが、一方でどれも泥臭いと言おうか、格好よさを感じさせるものが少ない。そうした絵でもそれなりの技術はあると見るべきだが、栖鳳のようにとにかく筆を自在に使える意味での技術ではない。もはや日本にはそういう文化はない。今から復活させようと思っても無理だ。また、個人が復活させてもほとんど意味がない。やはりそれは横尾忠則が若冲の絵に対して言う、とっくの昔に終わっている仕事であって、今は今の流行に乗って新しいことを開拓して行くしか道はない。だが、栖鳳から新たに学ぶべきものがないのかどうか。どう頑張ってもかなわない技術と諦めるとして、栖鳳の絵は筆さばきの賜物とばかりは言えないだろう。そうであるとして、ではどのような道が残されているかと言えば、栖鳳が悩んだように各人が呻吟するしかない。そのためにも、10年や20年に一度は栖鳳の大きな展覧会を開く必要がある。そして、ぎこちなくはあっても、栖鳳のように自由闊達に筆を使えるような技術を少しでも身につけようとする人は出て来るかもしれないし、そうあってもそれを時代錯誤とは言えないだろう。
ここで話が少し変わる。昨夜投稿した後、布団の中に潜ってなかなか寒くて寝つけなかった。そして思い出したことは、応挙が臙脂綿を使い切った後の小さな綿の塊を大切に保存したという話だ。当時は今と比べものにならないほど寒かったはずで、しかも綿は貴重品であった。貧しい応挙は寒さを身に染みて知っており、少しの綿でも捨てるに忍びなかった。高齢の売茶翁がある高名な門跡の尼僧から布団を贈ってもらったことが確かある。高齢になると、冬の寒さはこたえる。現代の日本はどうか。床暖房はあたりまえと考える人は多いし、綿どころか羽根布団が容易に買える。また、画家は栖鳳が卒業したように、絵を専門に教える学校があり、その有名どころを卒業すると、その肩書きを箔づけにして、運よければ教授だ。そうなればまず食うに困らないし、尊敬もされる。そのような生ぬるい環境を手に入れられるようになって、画家は必死になる必要があまりなくなった。恵まれ過ぎると誰しも熱心に働かない。そうなると、絵も面白くなくなる。現代の日本の絵画界はそのような状況にあるのではないか。栖鳳はまだよかった。師の楳嶺のおともをしながら苦労した時期があった。それに楳嶺は長生きしなかったし、あまり恵まれなかった。その無念を思うと栖鳳はなおさら頑張ったであろう。大家になるためには貧しい生活をせねばならないと言いたいのではない。絵を描くには金がかかるのは確かだが、本末転倒になっては駄目だ。とにかく名作をものにする。その一心以外はみなどうでもよい。そのあたりまえのことが忘れられがちになる。