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●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪前期≫』
の一字は中国の画家銭舜挙に由来するとされる応挙の絵を相国寺はどれほど所蔵しているのだろう。新しくなった承天閣美術館には滝を描いた巨大な掛軸の「大瀑布図」がよく展示されているが、今回も同じ場所にそれがあった。



●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪前期≫』_d0053294_2334364.jpg応挙は若冲より20歳ほど若く、その分新しい画風を完成させ得たと言えるが、実際「円山・四条派」という流派の祖となって、その流れは今も続いているとひとまずは言える。ところが、昭和40年代になって「奇想」や「異端」という言葉で若冲、蕭白、蘆雪の3人がまとめて取り上げられ、また広く注目されるに及んで、今では若い世代では特に応挙は若冲より人気がないのではあるまいか。そう言う筆者も昔から応挙には今ひとつピンと来るものがない。応挙の人柄のよさは毒舌家であった上田秋成も絶賛で、そのことは伝わる応挙の肖像画からもわかる。亀岡の田舎出と言えばそれも当然かといった気もするが、それは偏見というものだろう。筆者が最初に知った応挙の絵は、小学6年生の頃に見た年賀切手で、昭和25年のものだ。その図案に川の水を飲みながらこちらを真正面で睨む虎が描かれている。当時の年賀切手は赤一色で印刷されるのが習わしで、それがとても正月らしく見えたもので、筆者は今でも年賀状の図案をそれと同じく赤で印刷している。ついでに書いておくと、応挙の虎の年賀切手の小型シートは、十字型に5枚配したもので、しかも目打ちは印刷のみで、穴が開いてない。そして切手が浮かび上がって見えるように目打ちの際に影をつけてある。筆者が小学生の頃に切手収集のブームがあり、当時からその小型シートは子どもにはとても手が出ない価格で売られていたが、大通りを越えたところに住んでいた級友がそれを持っていた。彼は切手収集にあまり関心がなく、その小型シートを親が持っていたもので、手放してもいいと思っていた。だが、筆者は小遣いがなかったも同然で、買うことは出来ず、また物々交換するといっても級友がほしがるようなものを持っていなかった。それで目の当たりにしながら、入手を諦めた。当時から切手の図版入りの目録が販売されていて、値打ちのある切手は誰でもよく知っていた。今ではネット・オークションでいつも数点は出品されているが、状態のいいものでは1万円以上することもあって、半世紀経っても手に入れていない。それはともかく、年賀切手に採用された応挙の虎図を筆者は見たことがあるのだろうか。どうも思い出せない。応挙展には今まで4,5回は行った。その中には年賀切手のもとになった虎図の展示もあったと思うが、応挙にあまり関心がないので記憶に留まらない。
 関心がないのはいつまで経ってもそうである場合とそうでない場合がある。応挙の展覧会があれば行くのであるから、関心がないといっても全くというわけではない。それは、ひょっとすればまだ知らない応挙の側面があるのではないかという思いによる。各地の応挙展をいくら見たところで、応挙の全作品を目にすることは無理だ。どの応挙展も応挙のごくわずかな部分しか見せてくれないだろう。一方でそのわずかを見るだけで全体がわかるという意見があるし、どちらかと言えば筆者はその考えに賛成だが、応挙の場合は画題の範囲が広く、どこかつかみどころのなさがある。何でも描けたというところが応挙の絶大な人気の理由であったはずで、若冲のように鶏専門で、画風もすぐにわかるというのとはかなり違う。わかりやすそうでそうではないところがあり、そこが一種の近づき難さになっている。その思いは今後も変わらないと思うが、今回の展覧会は予想外に興味深いものを感じた。行く気はなかったのだが、自治会住民の大志万さんに用事があって会いに行くと、チケットを2枚もらったので1枚どうかと言われた。会期が15日までで、1週間ほど残っている。それで10日に訪れた。かなり盛況であった。また、帰りがけに知ったが、次回の企画展も応挙で、21日から来年3月23日まで障壁画が中心に飾られる。本邦初公開、京都初公開の作があり、やはり筆者は応挙の絵に関しては広く見ていないようだ。それはそれとして、たくさん見ていなければもっと見たいという気を起こさせる画家とそうでない画家がある。応挙はやはり後者で、今ひとつ魅力を感じない。こんなことを書けば、今日の投稿は否定的な内容で、無意味になってしまうかもしれないが、書いておこうと思ったのは前述のようにそれなりにおやっと思ったことがあったからだ。チケットに印刷されているのは重文の「牡丹孔雀図」だ。似た絵を弟子の蘆雪が若い頃に描いている。こういうようなきっちりと華麗に描かれた絵は一般的な人気が高い。今で言えば大金持ち向きだが、応挙時代でも同じだ。この巨大な掛軸をかけるための床の間はお城のような家でなければ無理だ。応挙はそういうところから注文を得る人脈があった。それは、才能と人柄を理解してくれる人があったからで、出自はひとまず関係ない。応挙は文盲ではなかったが、無学を言えば大雅や蕪村に比べればはるかにそう言えるだろう。そのため、筆者にはどこか町絵師が頂上に上り詰めた存在に思えるが、その見方は案外外れてはいないのではないか。
●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪前期≫』_d0053294_2353052.jpg

 今回最初に展示されたのは「堀川夜景図」だ。これは提灯や星の部分の紙を切り抜き、薄い紙を裏から貼ったもので、裏から灯りを点すと同じ絵が昼に見えたり夜に見えたりする。応挙は最初玩具屋で働いてそのような絵を描いていた。そのままでは有名になっても知れている町絵師だ。だが、当時のそうした小さな画面の絵は、眼鏡絵と言って西洋の透視遠近法を用いた版画に学んだもので、立体的に見える効果を求めている。今で言えば仮想空間で、「騙し絵」とも接している。絵でどこまで現実らしさを表現出来るかということと、現実らしい絵はどのように描けばよいかということを、この玩具屋で働いていた当時に学んだ。眼鏡は庶民が喜ぶものだが、パトロンのお抱えとなると、屋敷を飾る大きな絵をどんどん描かねばならない。だが、そうした大画面は小下絵が元になるもので、その小下絵は眼鏡絵と寸法がほとんど変わらない。つまり、細密な眼鏡絵をたくさん描いたことは、後年の障壁画を描く際に役立ったし、眼鏡絵における現実感はそのまま障壁画にも表われている。前述の「大瀑布図」は、三井寺円満院の門跡から注文を受けたものと思うが、それは庭に滝がないので、ひとつ本物らしい滝を描いてほしいという注文だ。出来上がった絵は床の間に入り切らず、下端を床に平らになるように飾ったという。また、そのように設置しておかしくない構図を応挙は考えた。これは巨大な騙し絵で、眼鏡絵の根幹にある面白さの遊び心につながっている。元来絵とはそういうものだという意見がある。だが、絵とはそれだけに留まらない。そこに応挙の絵の限界を感じる。本物らしさは写実という考えと親しい。応挙は写実の祖と言われ、当時それが大ブームになったから、たくさんの弟子が集まり、蕪村亡き後の呉春も加わった。それほどに応挙らしい写実画が歓迎されたが、それは眼鏡絵の延長拡大で、さして絵がわからぬ庶民に歓迎されたということだ。それはそれで意味があるが、絵は大勢の人から愛されることにのみ意味があるとは言えない。その大勢の人の質が問題だ。応挙の絵を歓迎した庶民は、すぐに別の流行や対象に引き寄せられる。俗受けする作品はいつの時代にもある。そうしたわかりやすい絵のすべてが時代が変わると受け入れられないとは言わないが、絵に限らず何事も謎めいている方が魅力があり、それは写実をきわめようとする思いが増すほどに減じるように思う。それを言えば「モナ=リザ」の謎めいた微笑はどうかと言われるが、油彩の写実と応挙のそれは同列には置けない。応挙の写実は現在の写真そっくりに描く写実とは全く違うもので、「本物らしい」の受け取り方が当時は違った。「モナ=リザ」を当時の日本の庶民に見せても大歓迎されなかったはずで、長年培って来た日本の絵における線を主体とした表現に支配されていた。そのため、応挙の写実と聞いても、それが具体的にどこにどのように表現されているのかわからない人は多いだろう。話を戻すと、巧みな線描によって風景でも人物でも現実がそこに見えるように描いてしまう応挙の絵は、そのいかにも易々とした態度が庶民の感嘆の理由で、またそうあればあるほどに、絵に謎めきがこもらない。手と目だけの仕事に見えるからだ。
 今回の展示でもうひとつ重文指定されている作品「七難七福図巻」があった。さすが圧巻で、応挙の人物の動きを描く腕前を知るには持って来いだ。その原寸大の下絵も並べられ、本画と比較出来るのがよかった。「七難七福図巻」は三巻から成る。「福寿」「人災」「天災」で、「福寿」は平安時代の公家の生活を見るようで、牛車を引く人物が屋敷に向かう様子、また台所で調理する人や、庭を眺めながら奥の間に控えている主など、平和で幸福な恵まれた生活を描く。身分制度があった時代、そういう生活が出来るのはごく限られた人たちで、この絵巻を描かせた円満院の門跡はその中に含まれる。この絵巻は元は同門跡が自分で描こうとした。それなりに描いたその下絵も今回は展示されていて、応挙がそれを見ながら、また門跡が頭の中に思い浮かべている光景を想像しながら、門跡が満足する形で完成させたことがわかる。門跡は絵巻を人々を教化するために作ったが、キリスト教で言えば教会の壁画を思えばよい。教訓的と言ってよく、無学文盲の人でもまじまじと絵に見入るはずで、また気持ちを引き締めたことだろう。ところが、「福寿巻」に描かれるのは大多数の人とは関係のないいわば天上の生活で、またそれはとても退屈に見える。応挙もそれを感じていたのか、台所で働く人たちに羽目を外させ、人間臭い表情を盛る。誰もが驚くのは「人災巻」だろう。そこでは刀を持って屋敷に侵入し、人を殺して宝物を奪う男たちが描かれている。そのような悪漢は町中だけではなく、山にも潜んでいて、旅行く人たちを丸裸にし、あるいは凌辱した。前半はそうした悪人の所業が描かれ、後半になると彼らが酷い刑に服する様子だ。その刑罰の部分は平安時代の地獄絵や六道絵、餓鬼草紙にはない恐さがある。よほど注意していても大きな屋敷ではどこから泥棒に入られるかわからない。単に物を奪って行くだけならいいが、命乞いする者を殺す悪党はいたはずで、そう思うと最初に見た「福寿巻」のいかにも平和で退屈そうな暮らしがとても貴重で、また常に保障されず、めったにないことであると思えて来る。つまり、「人災巻」に描かれることこそが現実で、しかもどの場面も恐怖と悲しみに満ちているので、一度見ただけで忘れ難い。それこそが門跡の狙いであったのだろう。また、人を殺した者の最期は、晒し首になったり鋸で身体を切り裂かれたり、走ろうとする牛によって身体が引きちぎられたり、どの場面も凄惨で血がほとばしっている。この血みどろさは明治に近くになるにつれ、描く画家が増えて行く。その点でこの「人災巻」は時代を先んじていた。それはともかく、残酷な刑罰を受ける様子に、絵巻を見る人々は恐いもの見たさで見入り、悪いことはしてはならないという戒めを描いてあるのだと気づく。この教訓さは門跡が僧であったからだ。その門跡に大いに気に入られたことで応挙の出世と名声があった。それは門跡から見ても応挙が素直で正直な人柄に違いない。その意味で、応挙はこの絵巻を手を抜くことなく、準備を重ね続けて描いたことは想像に難くない。3年の歳月を要したそうで、この仕事によって学んだことは大きいだろう。
 「福寿巻」と「人災巻」が対になっているかと思えば、次にこれでもかという調子で「天災巻」が用意されている。これは説明するまでもないだろう。地震や津波、火事、台風、雷と、今でもこれらによって被害が大きい。ましてや江戸時代では簡単な作りの家や堤防であったから、もっとひどい災害になった。この天災の前に人はなす術がない。そのため、この巻だけ見ると、現実の、自然の恐怖を思うだけで、救いがない。人災の前では人は用心を重ねるが、天災に対しては限度がある。そのため、門跡はなぜ「天災巻」を描かせたのかと思うが、昔の地獄絵ではもう戒めにはあまり役立たず、もっと現実らしい様子を見せる必要があった。つまり、恐怖の迫真性だ。そういうことにも応挙の写生は役立った。だが、さまざまな刑罰の場面は実際の様子を見たのではなく、タネ本的なものがあったのではないか。また応挙にすれば、災難に遭遇して慌てて逃げ惑う人たちの様子を描くことは、画家としての腕を誇示するにはいい機会で、参照出来る絵巻から人物の動きを学び、実際の光景と想像を混ぜつつ画面を構成したのだろう。下絵も巻物状になっていて、完成作と上下に並べられなかったので、逐一比較することは無理であったが、下絵にはあっても本画で描かれないものもあった。それは当然だろう。原寸大の下絵を描く段階で本画の細部は見えていたはずで、描き進めながら、修正した方がより迫真性を帯びると思えた箇所は手を加えた。それはどの細部も精密に描くというのではなく、絵巻が訴えたいもの、あるいは自分が訴えたいものに鑑賞者の意識を寄せるためで、そこにも応挙が考える写実の意味がある。言い代えれば合理的な考えで、よけいなものを描かない。そのために絵に謎めきが入りにくい。上下に並べる絵巻で思い出した。今回は「人物正写惣本」という絵巻も展示された。これは裸の人物をほぼ実物大で描いたもので、せいぜい30センチまでの幅しかない絵巻では体の半分しか描けないので、上下に二巻を併置すると全体像が見えるように二分割で描いてある。「正写」と名づけられているが、人体解剖図のような科学的なものではない。また筋肉や骨格の様子を描こうとしたものでもなく、絵巻に描かれる小さな人物を拡大したものとあまり大差ないように思える。応挙は裸にした人物を前に描いたはずだが、科学的精確という意味をまだ理解していなかった。そのため、描かれる女性はどこか恥ずかしげで、いかにも女らしい。そのことが応挙の考える迫真性で、写真を見慣れた目からはほとんど漫画に近く見えるほど単純で少ない線で描かれている。
 同じ部屋には六十有余歳の男女から40代、10代といったように、さまざまな年齢の男女の顔を描いたものがあった。それらの顔は、描かれた個人が特定出来るほどに特徴を捉えているものには見えず、それぞれの世代の筋肉のたるみや張りといった点を注視するにとどまっている。それはそういうことを目的に描いたものであるからだろうか。無名の人を前にして、その人の性格といったことには関心がなく、同世代に共通する典型を描きたかったに違いない。また筆者の遠い昔の話になるが、中学生に入った時の美術の教科書に、渡辺崋山の「鷹見泉石像」を見て衝撃を受け、日本画で西洋画に負けないほどの写実が出来るのだと思った。崋山が描く肖像画の迫真性は応挙にはない。応挙は写生を重視していたが、京都の人間であり、装飾の考えを捨て去ることが出来なかったのだろう。「正写」と題する人体画も迫真よりも様式性が先に立つ。そのため、応挙の描く人物はいくつかの典型がある。それは応挙の個性であり、それぞれの人物の個性ではない。同じことは弟子の蘆雪の人物画にも言える。途中から応挙に学んだ呉春の人物画もそう言えるが、まだ蕪村が生きていた頃の絵ではモデルを前にしてその個性を描いたようなものがある。崋山が描く肖像画を好きになれば、そうしたどこか文様的に思える人物画は面白くない。レンブラントの絵でも人物が特定出来る場合と、架空の人物を描いたものがあるから、応挙の人物画が無名性を帯びていても絵の価値には関係ないかもしれないが、その人物の無名性は風景や動物にも適合されていて、そこが個性を見ることに慣れてしまった現代人には物足りない。そのためにも、「奇想」の言葉が歓迎され、若冲や蕭白の人気が高まったのかもしれない。今回展示された風景画に、「雪中山水図屏風」があった。これは実際に高い山に登って見下ろして描いたかと思わせるもので、山登りをしない筆者でもその空気を吸っている気分になれた。京都市内ではそのように見える山はないと思うが、写生を組み立てたものとすれば、その想像力に舌を巻いてしまう。そこに描かれる雄大さは、ずっと後年になってアメリカを旅した山元春挙が得意とするもので、円山派の祖の応挙がそれを予告していたと思えば、やはりさすがの才能と思わざるを得ない。今回は芦雪の作品も数点見られたが、「双鶴桜雀・狗子朝顔雀図双幅」はどちらもあの代表的な朱文の大きな「魚」印が明らかに形が違っており、真作とは認め難い。呉春の作も2点あって、1点は大典禅師の賛のある「翁面図」、もう1点は竹をわずかに描いた屏風で、これは一見呉春の最晩年の硬直した感じが見られはするが、感動がなく、贋作ではないかと思う。蘆雪も呉春も、そして師の応挙はもっとだが、贋作がとても多く、それらが意外なところに紛れ込んでいる。それだけ人気があった。
●『開館三十周年記念 円山応挙展 ≪前期≫』_d0053294_2354226.jpg

by uuuzen | 2013-12-14 23:06 | ●展覧会SOON評SO ON
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