犯罪と幸運が題名に並ぶと何となく結末の様子がわかってしまう。つまり、ハッピーエンドということだ。今日はこの映画を取り上げる。京都のドイツ文化センターことヴィラ鴨川からは月に二度ほどメールが届く。
昔のようには頻繁に通わなくなったが、11月下旬に来た案内メールにあった映画の上映には関心を持った。それ以前のメールにも映画の上映を知らせるものはあった。ところがDVDを所有するファスビンダーの作品で、それが二度続いた。今回は聞いたことのない監督の作品で、映画の上映の後、監督の話もあるという。これは見ておいて損はない。どんな映画か題名も覚えないまま出かけることにした。当日の11月30日は京都文化博物館の建物内にある和紙専門店を覗く必要があって、その用事を済ました後、東北方向にジグザグに歩いてヴィラ鴨川に着いた。ジグザグというのは、京都市内は道が碁盤目状になっているから、たとえば北に向かって歩き始めると、最初の四辻で右折すなわち東に進み、次の四辻で左折すなわち左折することで、そのようにして目的に向かうと、めったに歩かない道、歩いたことのない道を進むことになって面白い。東へ進む道がなくなって北上一辺倒になったが、その道は川端通りで、久しぶりに丸太町通りからヴィラ鴨川まで直進した。ここ数年、あるいは10年ほどは歩かなかったのではないか。ヴィラ鴨川に行くにはいつも河原町通りから荒神橋をわたる。そのため、荒神橋から南方の川端通りがかなり変化していることを初めて知った。驚いたのは京セラが大きな財団の建物を造り、その中では無料で映画を上映しているようで、これはいつか出かけねばと思った。その建物のあった場所は昔は東南アジア研究所か、女子高ではなかったか。いつの間かそれがなくなった。たまには違う道を歩いてみるものだ。さて、ヴィラ鴨川の1階ホールは昔と変わらない。昔というのは筆者が初めて訪れた80年代で、図書室であった部屋がカフェになっただけで、地下のトイレなど、昔のままのところが多い。これは落ち着く。ホールの照明や音響機器も昔のままで、椅子もそうだ。そのため、このホールで映画を見るのは安心感がある。日本ならすっかり建物を壊して新しいものを建てるだろう。昔のものを残しながら、ごく一部を改造して機能的にするという考えをもっと徹底させればどうか。それはともかく、筆者が着いたのは開演30分前で、ホールには先客が2,3人がいた。最前列の次の列の中央に陣取ったが、右の椅子には何なら小物が置いてあって、間もなくドイツ人の中年女性のふたり連れがやって来て話し始めた。開演5分ほど前にそのふたりの後ろに日本の同年齢の女性が座り、前のふたりにドイツ語で挨拶をして3人の談笑となった。すると、やおらドイツ人女性はきわめて巧みな日本語で話し始め、日本に滞在している年数が長いことを思わせた。学校の先生かもしれない。筆者は座れば目をつむる癖が最近ついていて、またすぐに寝入ってしまうが、開演5分ほど前にやって来た日本の女性の声で目覚めた。
開演前に監督が舞台に現われた。筆者からの距離は2メートルほどだ。男の監督であると思っていたのが女性であった。ドリス・デリエという名前で、ヴィラ鴨川に9月13日から12月11日まで滞在する予定で招聘された。これは本年度の第3期で、他に3名がいる。彼らは滞在中の成果を作品の形でヴィラ鴨川で披露する決まりになっていて、その催しには誰でも参加出来る。名前が登録されている筆者にはメールが届くが、新規で申し込むことも可能だ。通訳がつくことが大半なので、語学に自信がない人でもよい。図書室が「カフェ・ミュラー」に改造されてからは、そこで招聘された芸術家を囲んでのパーティが行なわれる。11月30日も映画が終わった後、普段とは違って格安料金でカフェのメニューを提供するので、ぜひ残ってほしいと司会が話したが、筆者は夜に「飾り馬」の彩色に精出す必要もあって、そそくさと帰った。ホールの内部を見わたすと、40人ほどの入りであった。そのうち何人が居残ったか。そう思うと、監督や他の滞在者3名が少しかわいそうだ。これはヴィラ鴨川の宣伝不足もあるだろうが、やはり言葉の壁が大きいのではないか。筆者はもう60を越えているので、仮にドイツ語が堪能であっても、今旬を迎えているドイツの芸術家相手にあれこれと質問しても始まらないという思いがある。やはり2,30代の若い人たちが関心を持ち、積極的にさまざまな創造家に接近して刺激を受けるべきだ。そのような文化交流を目的にヴィラ鴨川はあるはずだが、今のところはドイツの芸術家が日本に滞在してどんな刺激を受けるかに重点が置かれ、日本人の反応はあまり期待していないのではないかと思える。ヴィラ鴨川から届くメールの半分くらいは、カフェ・ミュラーでのドイツ語の学習と、招聘アーティストとの懇親会で、映画だけ見せる機会はかなり減ったと言えるが、11月30日は滞在していたドリス・デリエの滞在中の作品かと言えば、そうではなく、来年日本でDVDが発売されることを記念しての先行上映であった。映画館での上映はたぶんないのであろう。監督は映画のスクリーンで見ると色がさらに鮮烈であると語っていて、この映画は色がかなり重要な要素となっている。それは象徴的ということで、主人公が着る衣服の白が純粋無垢、主人公が赤のポピー畑で寝そべる冒頭場面は、後に用意されている凄惨な死の場面を予告している。
監督の出で立ちはいかにも芸術家といった風で、下は黒のニッカポッカ、上はカラフルで小さな文様が詰まった凝ったシャツに黒のジャケット、髪は短いブロンド、白縁の眼鏡、そして笑顔を絶やさずよくしゃべった。映画が終わった後にまた話があり、質問コーナーも設けられた。筆者は最初に質問しようと思いながら、その機会を逸したが、質問したかったのは、映画が実話に基づくのかどうかだ。これは結局ほかの人が質問し、監督は最初にそれを言っておくべでしたと答えながら、実話であると言った。帰宅してから筆者はファスビンダーを思い出した。ひょっとすれば監督は彼の作品が好きで影響を受けているのではないかと思った。そういう話は、映画の後のカフェ・ミュラーでの座談で持ち出すべきで、監督からもっと詳しいことを聞き出せたのではないかと多少後悔した。観客の反応が鈍ければ、監督としても拍子抜けするはずで、せめて筆者はこのブログで感想を書いておきたい。この映画は原題「GLUECK」を直訳すると「幸運」で、以下そう呼ぶことにするが、原作はドイツの弁護士であったか、司法関係の男性フェルディナント・フォン・シーラッハが書いた最初の短編集のひとつにある。その本は日本語に訳されていて、その題名が確か『犯罪』であったと思う。弁護士であるからには、小説のネタになるような話によく遭遇するだろう。この映画にも弁護士は登場し、それは原作者の分身と見てよい。ただし、その弁護士は最初と最後に少しだけ登場し、主役ではない。原作の短編を読んでいないので何とも言えないが、短編を2時間の映画にするにはかなり脚色が必要だろう。つまり、監督は原作をかなり自由に解釈し、自分が描きたい物語に作り変えた。それは一言すれば、「純愛」だ。今時そんなものがあるかと笑う人は多いかもしれない。だが、監督が語ったように、われわれは恵まれた生活をしているのにそれに気づかない。少し振り向けば、世の中には恵まれない人は多いことに気づく。そういう人でも幸福になりたいはずで、またそれが手に入れば必死にそれを手放さないようにする。元の不幸な境遇に落ちたくはないからだ。
この映画の登場人物は少ない。大半は若い女性と男性のふたりの場面だ。女性は東欧出身の売春婦で、ヴィザなしでベルリンに滞在し、街角に立っては男から声をかけられるのを待っている。値段が合えば安ホテルに直行して身を売る。どうしてそのような生活をするようになったかの説明が映画の最初にある。監督が言うように、女の生まれ故郷はどこかは明らかにされないが、たとえばコソボを思えばよい。ある日兵士たちが羊をたくさん飼う田舎の家に乱入し、両親を殺して娘を犯す。犯された娘は生き延びようと故郷を後にしてベルリンに着く。出来る仕事は身を売ることだけだ。そこに監督の深い同情が見えるし、また悲惨な出来事があったにもかかわらず、生きて行こうとする態度を見上げたものと考える。ところで、原作を読んだ時、監督は映画化したいと考え、主役の男女のイメージが湧いたが、適当な俳優が見つからなかった。ある日イタリアの小さな映画館に入った時、自分を入れて客は3名で、映画館として5名集まらねば映写機を回さないと言ったにもかかわらず、監督は懇願して上映してもらった。その映画に出ていた女優を見てこれだと思い、早速グーグルで検索して本人に問い合わせたところ、ちょうどスケジュールが空いていた。それにそのアルバ・ロルヴァケルはドイツとイタリアのハーフで、ドイツ語が話せた。そうして主役が決まった。相手役の男性はドイツでは有名なヴィンツェンツ・キーファーを起用し、ベルリンで撮影を行なった。話を戻して、売春婦となった娘は路上生活している若い男性に気を留め、ある日赤い毛布を与える。そのような施しをしてもらったことのない男は感激し、それ以降ふたりの間は急接近して行く。男の素性はいっさい明らかにされないが、日本でも若者がホームレスになることは珍しくない。男はパンク・ファッションに身を包み、黒い大きな犬と生活しているが、ある日犬は車に轢き殺される。最愛の友を失った悲しみを売春婦の娘が癒す形になり、ふたりはショベルを買って犬を公園の片隅のような場所に埋葬する。女は売春で貯めたお金で男と暮らすアパートを用意し、そこで売春をすると同時に、男に堅気の装いをさせ、新聞配達の職に就かせる。ところが長年道行く人から小銭をせびる安易な生活に慣れている男はすぐにその退屈な仕事に根を挙げる。これはなかなか現実的で、女の方が圧倒的に生活力があるのに対し、男はいかにもふらふらして頼りない。世界中でそうであろう。
女は相変わらず身を売る生活を嫌がってはいるが、生きて行くためには仕方がない。それに、好きな男とセックスする喜びを初めて知り、生活が楽しくなった。そこまでが映画の半ばだ。道で身を売っていた時の常連にとても太った男がいる。彼は政治家のようで金払いはよい。いつもぜいぜいと息を切らし、心臓病を抱えている。馴染み客の彼はアパートにもやって来る。ところがある日、彼はセックスの後に腹上死する。女はどうしていいかわからず、そのまま部屋を後にし、近くの公園に行く。そこへ新聞配達から男が戻って来る。死体を見た彼は、女のことを思い。それを始末することを決心する。実は男は菜食主義者で、チキンの肉の塊を見ることも嫌がる。そんな男が小さな鋸ひとつで太った男の死体をバラバラにし、袋に詰めて新聞配達用のリヤカー自転車で運ぶ。犬を埋葬した隣りに埋めるが、アパートの階段には血の跡がしたたり落ちていた。それですぐに警察が動き、男と女は収監される。そこで弁護士が登場するが、彼は映画の冒頭で女に出会っていた。車を運転している時、女を跳ねかけたのだ。何事もなかったが、弁護士は名刺をわたし、女の顔も覚えていた。弁護士は無罪を勝ち取るために動く。女に面会すると、自分はどうなってもいいので男を助けてくれと懇願するし、男も同じことを言う。弁護士はふたりの純粋な愛に心動かされ、そのことを検事にかけ合い、無罪を勝ち取る。太った男は解剖の結果、心臓麻痺で死んでいたことが明らかにされ、若い男が死体を切り刻む必要はなかったことが明らかにされる。ドイツでは死体を切り刻むことは罪になるが、弁護士は男が同棲している女を助けたい一心でしたことで、本来彼は肉を見ることさえ出来ない菜食主義者であることも言う。検事は醒めた口調で、女には国外退去処分が下ると言うが、弁護士はドイツ人男性と結婚すればそれは避けられると返す。検事はまた、「愛はいつか冷める」と言い放つが、それは確かであるとしても、幸福に慣れた人の言葉だ。事件を起こした若い男女は社会の最底辺にいて、お互い初めて愛することを知った。そういうふたりはもはや愛なしの人生を送ることを極度に恐れるだろう。そのふたりの愛がやがて冷めるとしても、それは別の物語で、この映画には関係がない。
筆者はこの映画の主人公たちのように、貧しい人たちの生き抜く力を描く映画は好きだ。この映画は、一般的な思いによれば、「ろくでもない連中」の生態を描いていて、それだけで見ることを拒否する人があるだろう。売春婦やホームレスなど、自業自得でそうなったのであって、憐みを感じる必要はないという考えだ。それはドイツでも同じではないだろうか。そのため、筆者はデリエ監督をとても気持ちの優しい人であると考える。どのような不幸な目に遭った人でも、立ち直って生きて行こうとする姿は立派だ。それが半社会的な生活であっても、それは社会の仕組みや人心に欠陥があるからで、彼らの権利は守られるべきだ。コソボ紛争でどれほど多くの人たちの幸福が破壊されたかは、遠い日本にいると想像しにくい。原因は違うが、日本でも予期せぬ出来事で不幸のドン底に落ちる人は少なくない。そして、そんな境遇になっても、光を見て幸福を手に入れようとするのが人間で、愛する相手が出来ればその人のために何でもしてあげたいと思う。この映画では娘は故国の田舎で羊と花の群れを小さく刺繍した白いテーブル・クロスの上で兵士たちに犯された。そのクロスをベルリンに持参し、アパートに住むようになっても大事にしている。それは原作にはないはずで、そういう細かい描写に女性監督らしい繊細さがよく表われているが、同棲するようになった男はある日女から刺繍を施したハンカチをプレゼントされる。そこには雲から垂れる長いブランコが描かれている。ふたりは児童公園でブランコに興じ、男はブランコの振れが最大になった瞬間、無重力を感じることを女に言う。女はそれが本当であることを実感し、その無重力の気分よさがセックスの際の絶頂と同じ味わいであることを言う。それはふたりの間が分かち難くなったことを示すが、それも原作にはないであろう。女が刺繍好きであることを知った男は、格安で売られている小さな刺繍用ミシンを月賦で買う。すでに男には女を喜ばせたいという愛情が芽生えている。その一方、女は自分の幸福を噛み締める段になると、ひとりトイレに駆け込んで自傷行為に走る。それほどに悲しい、忘れることの出来ない経験を故郷でしたが、そのことを男には話さない。それもいつかは話せるようになるだろう。売春の挙句、腹上死され、とんでもない事件に巻き込まれたふたりだが、その事件があったお陰でふたりは以前とは違って晴れて夫婦になることが出来る幸運をつかんだ。
監督は原作を読んで死体を刻む場面が不可欠とは思ったが、それをどの程度表現するかに悩み、議論を重ねた。その場面は2分弱に過ぎないが、監督はその場面になると横を向いてしまうそうだ。また、その場面の撮影はかなり陽気にやったらしく、そのエピソードが映画の後に語られた。腹上死する太った男は有名な俳優らしく、監督は最初電話で出演依頼した。そして、死体が切り刻まれる役であることを告げると、俳優はならば生首の模型が必要かと訊いたそうだ。生首の場面では、それは赤いビニール袋に入った状態で映るが、この映画のために作ったものではなく、その俳優が以前に出た映画の際にアメリカが作った小道具で、2万ユーロもしたそうだ。その分がこの映画の製作費に占める割合はかなりのものだが、その分が浮いたことになる。凄惨な場面があるにもかかわらず、監督は笑いを忘れない。いや、それは絶対に必要であろう。それを実にうまく挿入している。若い男がリヤカーで死体を運ぶ時、背負った包みの中から死体の手首が覗く。走りながらそれを知った男は慌ててそれを押し込むが、その場面では笑いが生じた。監督の思いどおりの効果だ。それに、あまりに太った男が腹上死する場面も、かなり滑稽だ。性行為の場面はかなりきわどいが、もっと露骨な映像はネット上に氾濫していて、この映画はR指定にはならないだろう。ホールを後にする際、ドアにこの映画のDVDの宣伝チラシが貼られていることに気づいた。それを見て筆者は少し失望した。チラシには血まみれになった若い男の写真が使われている。それでは最初からこの映画がどういう内容であるかの先入観を与えてしまう。監督は死体を刻む場面は不可欠とは考えたが、それを必要最小限に収めた。猟奇的な事件が主題ではあるが、監督の眼目は若いふたりに純愛にある。それは、相手のことをどれほど思うかで、相手のためならば死体を切り刻むことも厭わないかという問題提起だ。この映画では男は肉や血を見ることに拒否反応を示す性質であるにもかかわらず、愛する女のために黙って死体の処分を実行する。それは初めての男らしい覚悟であり、そういう経験をした男は、その後はどんなことでもして女を助けて行くだろう。後味のよい作品なので、猟奇的な部分を誇張せずに、純愛部分を宣伝するチラシを作ってほしいものだ。以上、タネ明かしをしてしまったが、書いていないことも多々ある。映像はとてもきれいで、またテンポがとてもよく、涙ぐませる場面もあり、若い人には人気が出るだろう。デリエ監督の他の作品も見たいものだ。