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桝目絵」や「モザイク画」と呼ばれている若冲の絵についての講演で、「染織」と謳われているからにはぜひとも話を聞かねばと思ったが、肩透かしを食らった感じであった。
先月中旬に京都造形大学で『若冲シンポジウム』が開催され、600名が参加した。ひとりずつにクリア・ファイル入りの資料が手わたされ、その中に今日取り上げるワークショップのチラシも同封されていた。同シンポジウムが10日の開催で、ワークショップは16日だ。チラシには定員30名と書いてある。造形大学では定員100名とあったのに600名もやって来てしかも空席が目立った。そのため、30名はもうとっくに予約済みに違いないと思いつつも、10日の夜にメールで申し込んだ。翌朝OKの返事が来たので、16日の土曜日は家内と一緒に出かけた。ワークショップに参加する前、錦市場を高倉通りから柳馬場まで歩き、『錦市場で若冲を捜そう!』と題した『若冲ミュージアム』を見た。そのことは「錦市場の若冲」の
「その3」と
「その4」に書いた。ワークショップの会場は錦から柳馬場を50メートルほど下がった西側の「錦市場商店街振興組合事務所アミカーレ錦2階会議室」で、30名の定員は本当で、それ以上は入れない部屋であった。このワークショップ、『若冲シンポジウム』に行かねば知ることがなかった。全8回が予定されていて、毎月行なわれるようだ。次回は12月21日で『表具』、その次は来年1月18日で、若冲がどんな筆を用いて描いたか、『道具』の面からの話がある。12月の回はすでに予約がいっぱいであることをワークショップの最後に講師が話した。それで筆者は第6回の『道具』に参加しようと早速メールを送ったところ、今後は返事がもらえない。予約がいっぱいならその旨の返信メールを寄越すべきではないか。ま、だんまりは「いっぱいなので諦めろ」という意志表示だろう。ついでに書いておくと、『表具』の講師は岡泰央という人で、株式会社岡墨光堂の代表と括弧書きされている。この表具店は京都で一番有名なところで、国立博物館の仕事など、重要な仕事をよく請け負っている。『「動植綵絵」修理からみる若冲の時代の表具』という内容の話で、表具に関心のある人は期待が大きいだろう。『染織』のチラシには、『若冲の時代から伝わる京都の染織』と講義の内容がいちおうは説明されているが、この題名は少しおかしい。「京都の染織」が「若冲の時代」から始まるかのように錯覚する。若冲以前から染織は華開いていた。それに、最初に書いたように、この題名とは全く関係のないと言ってよい話に終始した。同じ『染織』のテーマで別の講師をいつか呼んで来て話をさせるべきだが、染織と若冲に詳しい人がいるだろうか。しかも在野は駄目で、肩書きのある人だ。こういうワークショップはどこの馬の骨かわからぬような人は講師としてお呼びでない。
講師は市川彰という人で尾道市立大学の講師で、たぶん40代で、大柄だ。関西弁を話していたし、また錦市場には知り合いも多いとのことで、ひょっとすれば京都出身かもしれない。部屋は正面に細見美術館蔵の若冲の紙本著色画「雪中雄鶏図」の額入り複製がかかっていた。右手の壁には同館所蔵の六曲一双「押絵貼群鶏図」をばらして半分ほどに縮小印刷した各扇が、やはり額に入れて飾られていた。左手には白板があり、そこにノート・パソコンをつないで画像を拡大表示させる用意が整っていた。用いられた画像はかなり多く、筆者が初めて見るものもあった。氏が各地の寺などを回ってこつこつ撮影している様子がうかがえたが、ひょっとすれば本からの複写かもしれない。未発表の若冲画の画像が表示されたのではなく、大部分は涅槃図の部分図だ。それらと若冲のモザイク画を比較するというのが氏の考えだ。また、氏は「桝目絵」ではなく、「モザイク画」と呼ぶことを最初に断ったが、これはどちらでもよい。一般には「モザイク」の方が馴染みがあるのでわかりやすい。こうした一般市民を相手にしたワークショップではわかりやすさが求められる。とはいえ、1時間の講義はかなり専門的であったと言ってよい。若冲の「モザイク画」は真贋問題で一番揉めていて、研究者によって意見が大きく分かれている。そのことがいきなり語られた。参加しか各人には若冲の「モザイク画」として現在公にされている4点の図版を印刷した紙が配布されたが、その中の一点「釈迦十六羅漢図」の八曲屏風は戦前に大阪で展示され、その時の図録にコロタイプ画像が掲載されるのみで、実物はどこにあるかわかっていない。大阪市の所蔵であったものが所在不明であるから、それはもう戦火でなくなったと考えるしかない。その図版は白黒であるのが残念だが、コロタイプであるからかなり鮮明で、拡大してもそこそこ細部が見える。ついでに書いておくと、同図版が掲載されるその戦前の本はなかなか入手しにくい。市場に出ても2,3万円はする。筆者は所有するが、若冲研究家は図書館でコピーして済ますのだろう。筆者が買ったのは、以前にも少し書いたが、見せてくれと図書館にかけ合っても渋られることがあるからだ。一方、大学の先生は一度に500冊も借りられたりする。それほどに在野の人間は無視される。仕方がないから、自腹で高価な本をどんどん買い、半分腐ったような食材を慎ましやかに食べる生活をする。
若冲の「モザイク画」の他の3点は、まず元掛軸であったが現在は額装される「白象群獣図」だ。これは、若冲の印章が別紙に捺されたものが切り取られて貼られている。そのことで贋作と言う人があるが、それは無視してよい。考えればわかるが、真作から印章部分を切り取って、贋作に貼りつける馬鹿がどこにいるか。もう2点はともに六曲一双屏風で、ひとつは静岡県立美術館にあり、もう一作はアメリカのジョー・プライスが所蔵する。前者は約1センチ角の桝目内に塗る絵具がかなり雑で、後者はていねいに描かれている。だが、全体的な構図や各々の動物は前者はしっかりと造形されていて、後者はまるで小学生の幼稚さで、そのあまりの下手さ加減は笑い話だ。少しでも絵のわかる人は後者をとても若冲の真作と言うことを憚る。「釈迦十六羅漢図」は「モザイク画」の中では最高傑作で、また若冲画の最高傑作と評してもよい。これが未発見であるのはつくづく残念だ。話し始めた氏はこれら4作の「モザイク画」をどう思うかと質問し、筆者は二番目に指名された。筆者の答えは前述のとおりで、氏はわが意を得たりといった調子で、筆者の意見が講義内容の結論といった意味のことを言った。だが、それではワークショップにならない。そして話は少しずつプライス氏所蔵本の見所に移って行った。氏によれば、寺に保存されている江戸期の涅槃図は仏画の研究家からはあまり相手にされていないらしい。だが、それらを見て行くと、若冲作とされる2点の「モザイク画」の六曲屏風に見られる謎めいた部分が、糸がほぐれるかのように引用した形跡がわかって来る。つまり、その2点の「モザイク画」屏風の作者は、熱心に江戸期の涅槃図を見たであろうということだ。これは驚くに当たらないどころか、むしろ当然だ。また、各地の寺に所蔵される涅槃図の中には刺繍で表現したものもあり、それは当時の女性や信者が携わったものか、動物や人物はまるで「ゆるキャラ」のように形が弛緩している。それはそれの味で、また涅槃図はうまいとかへたとかを越えて信仰に関係するものだ。だが、無名に近い町絵師の下絵か、さらにはそれを元にして刺繍したもので、若冲のような絵のプロがそのような絵をわざわざ描くことはないし、そういった例の作も伝わっていない。そのため、プライス本は若冲画の真作とは認め難い。ただし、若冲が何らかの形で関係はしているかもしれない。「釈迦十六羅漢図」は細部が不明なので何とも言えないが、構図や羅漢の造形は緊密で強固だ。同じことは「白象群獣図」にも言える。そして同作は細部からわかるように、とてもていねいに彩色されていて、真作の間違いない。
若冲の「モザイク画」が西陣織りの下絵である「差図」に触発されたものという論文が何年か間に発表された。市川氏はそれをひどく讃えながら、その領域に話を進めなかった。これはその論文以上のことはもはや言うことはないからでもあるだろう。そのため、講義内容を「染織」としながら、「モザイク画」そのものについて涅槃図との関係に終始した。氏の結論は、2点伝わる六曲屏風はいずれもその間に釈迦か、その入滅を描いた別の「モザイク画」を構想したものではなかったかということだ。これに対して氏は聴き手に意見を求めたところ、ふたりともそうは思いたくなく、六曲屏風のみで完結した世界ではないかと返した。「釈迦十六羅漢図」には、釈迦と十六人の羅漢のほかに、文殊と普賢菩薩を表わす白象と獅子が両脇に描かれている。六曲屏風は白象を大きく描くので、「釈迦十六羅漢図」をその間に設置すれば白象がだぶる。そのため、同作を六曲屏風とは対にすることは無理がある。氏の研究では六曲屏風は江戸期の涅槃図からの引用が目立つ。となれば、その一双の間に置かれるべき「モザイク画」は、涅槃図だろう。釈迦が横たわる涅槃図を若冲は描いたかどうか。野菜を涅槃図に見立てたものは描いているから、ひょっとすれが伝統的な涅槃図を描いたかもしれない。石峰寺の石仏には涅槃図があり、横たわった釈迦の石像がある。そのことからも涅槃図ないし、それを「モザイク画」の様式で描いた可能性はあるが、作品が出て来ない。それを氏は京都の中京を徹底して調べると、ひとつくらいは出て来るのではないかと言う。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。とにかく実物があっての話だ。「モザイク画」による涅槃図や釈迦像は、若冲ファンならたいてい思いつくことで、筆者は5,6年前に考えた。というのは、「動植綵絵」と相国寺所属の「釈迦三尊像」がセットになっていることを思い出せば、「モザイク画」の六曲一双屏風は「動植綵絵」に近く、「釈迦三尊像」のような仏画を持って来なくては何となく収まりが悪い。つまり、若冲は晩年になって、「モザイク画」の技法で「動植綵絵」と「釈迦三尊像」のセットの世界を構成し直したという考えだ。それをさらに構成し直したのが石峰寺の石仏と言ってもよい。氏は最後に帰宅して苦いコーヒーを飲むことになりそうだと話した。それは聴き手が今ひとつ反応が鈍いと思ったからだろう。講義の後、筆者は個人的に訊きたいことがあってしばし待ったが、若い女性が質問責めしていた。そのため、代わりに細見美術館の学芸員の若い女性相手にあれこれ話した。それはまた別の話題になる。そうそう、講義の終わりに、再来年に予定されている若冲展について氏に質問し、何か目玉になるような新発見があったのかとも訊いたところ、氏は展覧会開催は知らなかったようで、また新発見作はあっても展覧会直前まで公にされないだろうとの意見であった。せっかくの若冲生誕300年記念展であるし、今までにない見どころがほしい。