器用貧乏という言葉を知ったのは小学生であった。絵がうまかった筆者を見て、母や周囲の大人がその言葉を発した。京都に来てからは同じような意味でも、もっと強烈で笑える表現を知った。「あんたの旦那さんは傘屋の丁稚やな」

そのように家内は勤務先の年配者から言われた。まことによく言い当てていて、筆者のこれまでの人生は「骨を折って損する傘屋の丁稚」の連続であった。これでもかという努力をして作ったものが評価されないどころか、否定されることがよくある。そう言えば中学生の美術の先生は筆者の図画工作の課題の仕上がりを見て、「大山くんはあまり考えずに作った方がいいよ」と意見してくれたが、凝りに凝ったものがいいとは限らないことを諭してくれたのだ。それでも性質はそう変わるものではない。きっと今も同じようなことをし続けているに違いない。そして、凝らねばならない時にその反対をやっていることも多いだろう。これを「空気が読めない」と世間では言う。「空気を読む」とは誰が言い始めたのか知らないが、これは大多数の考え、すなわち常識をしるべしということで、常識などどうでもよい、あるいはそれを踏まえながらあえて自分はこうするといった強い我のある人は嫌う表現だろう。「人に合わせる」ことの苦手な子どもはいじめに遭うし、異質さを醸せば嫌われる場合が多い。そういう人は芸能人になるか、雇われないで自営すればよい。話を戻して、器用な人は見様見真似で何でもそこそこ出来てしまうから、これぞといったひとつのことに邁進することが苦手で、大成には無縁のままとなる。それで貧乏生活をよぎなくされる。「骨折って損する」は少し違う。これは努力が報われないことを意味しながら、その努力をしかるべきところにしないことを指している。世間の空気が読めないからだ。だが、空気を読んでうまく立ち回っている者や物はあたりまえ過ぎて面白くない。そういうものは芸術ではない。効率を考えず、どこにもないものを作り出そうとするのが芸術で、そのために世の空気を読む者が大成する。それが出来ない者でもまだ認められる方法がある。「アール・ブリュット」がそうだ。であるから、空気を読めずにみんなから嫌われ者になってもいいではないか。自己表現の方法を知っているのであれば。「そらあり」なのだ。

本年中に書いてしまいたいブログのための話題、掲載したい写真がたまっている。明日はあれを書こうと思っていても、書く直前になると別の話題に変えることが多い。考え過ぎずに思いつくまま書く方が楽しいからだ。そしてその方が面白く書ける気がする。さて今日の最初の文字は何であったかと今確認すると、「器」ではないか。二度と同じ文字を使わないようにしているのはこだわりでいいとしても、ブログの読み手にはどうでもいいことで、筆者が苦心して「器」の文字をまだ使ったことがないことをようやく調べても、それこそ「骨折り損のくたびれ儲け」で、誰も感心しないし、関心も抱かない。それで自嘲気味に「器用貧乏」と最初に書いたが、実際は別の理由がある。それについては今日は書かない。で、「器」だ。器を空っぽにした状態は、「何も入っていない」と否定語で表現出来るが、「空っぽが入っている」と肯定的にも言える。英語の「SKY」の「空」は、人間の頭上にある広がりで、その広大な空っぽの空間を「空(そら)」と言い、そしてその漢字が「からっぽ」も意味するのは面白い。人間は空を見上げて自分が地面に立っていることを実感する。つまり、広大な空っぽがあるお陰で命を感じることが出来る。「空あり」と言うべきで、空があるから生命がある。話題を少し変える。「空の気」は「空気」と同義ではないが、普段空気を吸っていることを意識しないから、吸っては吐く「空気」の言葉はよく考えられている。呼吸を意識すると時に動機が激しくなって苦しくなる。「空気」は意識しない方がよい。韓国ドラマを見ていると、日本では見慣れない電気製品のようなものがたまに部屋の片隅に立てられている。それが何かわからない。家内は空気清浄器だろうと言う。幅50センチ、高さは150センチ、厚みは15センチほどの直方体で、上部に丸い窓がある。その中に人が入ればちょうど顔がその丸窓に来るだろう。日本の家庭用の空気清浄器はもっと小型だが、韓国では違うのかもしれない。空気清浄器として、ごく普通の家がそのような大きな物を部屋の隅に設置するほどに韓国ソウルの街は大気汚染がひどいのだろうか。水と空気はただと今でも筆者は思っているが、空気清浄器に浄水器が今や欠かせない電気製品になっている。何もない空っぽの空に、人間の健康には悪い汚染物質が充満する時代になった。「それはない」と怒っても、何でも満たすことの出来る広大な空であるし、また人間が汚すのであるから、それに抵抗して空気清浄器が出現するのは仕方がない。つまり、「そらあり」だ。

先ほどネット・ニュースでNHKが受信料をみんなから徴収する動きにあることの見出しを見た。筆者は昔から支払っているからかまわないし、また比較的よくNHKを見るので支払ってもあまり損している気にならないが、TVをほとんど見ない人は大いに反発するだろう。とはいえ、それを言い始めるとどこで線引きするかの問題が生じるし、実際今もそのために受信料について納得していない人が多い。それはどうでもよい。雲以外は何もないように見える空だが、電波が飛び交っている。それを見ることの出来る動物はいるか。見なくても感じる動物はいるかもしれない。何もないように見える空も実際はいろんなものが充満している。渋柿を買って干し柿作りをしていることを先日書いた。本当に不思議で、皮を剥いて干しておくと、いつの間にか渋味が甘味に変わる。発酵するのだが、それを促進する菌が空中に浮遊しているのだろう。干し方が悪いとアオカビが発生することがあるという。悪玉菌も浮遊しているわけだ。菌にすれば生き抜きたいだけで、人間の勝手で善玉や悪玉のレッテルを貼られるのは癪に障るだろう。いや、人間にどう思われても平気な彼らで、さすが広大な空の生き物だ。空中に晒していると甘くなる渋柿は、人間もせいぜい空の下に居続けることがよいというたとえ話を導く。筆者は部屋の中で籠ることが多いので、努めて外を歩くように気を使っているが、気を使っているのでは駄目だ。それではいつまで経っても渋柿のままではないか。だが待てよ。「渋い」はいいたとえにも使うし、渋柿を噛んだ時のような渋面を作って老いて行くのもいいかもしれない。そう言えば筆者は眉間に深い皺が寄って渋柿親父になっているのは間違いない。手先が器用なのはいいとして、生きることに不器用で損ばかりして来た筆者がそのような顔になるのは当然か。要領の悪さは容量の悪さで、空のような広大な心を持つことは難しい。だが、そのことを自覚している間はまだいい。すなわち、「そらあり」だ。
最初の写真はムーギョへの途上、筆者が好きな大きな田畑に面したところで撮った。そこはめったに踏み込まない道で、たぶん今までに数回しか歩いたことがない。稲が実った写真を撮った後、看板に気づいた。それが今日の最初の写真だ。看板の上に広大な空が広がり、秋の雲が湧いている。まさに「空あり」の風景で、秋は空がよい。春とは違って空気が澄み、どこまでも高く見える。先日万博公園内のみんぱくに行った帰り、眼前に広がる空に浮かぶ雲もとてもよかった。写真を撮ったが、それを見ると感動が蘇らない。まず色が違う。それに広がりが感じられない。「そらないな」とも思いながら、めったに見かけない形と色がよかった雲であるし、せっかく加工したので、今日使うことにする。みんぱくから阪急茨木駅まで歩いたことも先日書いた。5000歩近かった。1時間ほどかかった。歩く気になった理由はいくつかあるが、そのひとつは街路樹の銀杏の黄葉が見事であったからだ。その様子は去年も書いたと思う。今調べると、
去年11月のムーンゴッタだ。毎年秋にみんぱくに行っている気がする。たぶん来年もそうだろう。そう考えると途端につまらなくなる。それを解消するには、違った道を歩いて帰るなどすればいいが、みんぱくから茨木駅までの道のりはバス路線以外に筆者は知らないし、またバス路線が最短距離だ。それでも5000歩ある。それ以上を歩く気にはなれない。「骨折り損」がいやなら5000歩はしんどいだけの話のようだが、その代わりに何かを得るという自信のようなものがあり、先日歩いた時もそうであった。足で稼ぐブログ・ネタで、それをまたこうして骨折って書く。得るのは全く「骨折り」だけで、丁稚から抜け出せない。空の写真の最後はスカイ・ツリーのてっぺんから見た東京の空だ。「空木」とはうまく名づけたものだ。空っぽの広大な空に人間が自負の塊を誇示している雰囲気がある。この写真は筆者が撮ったが、実際にスカイ・ツリーに上ったのではない。「それはない」と言われそうだが、原寸大のスカイ・ツリーのてっぺんの模型があるところに設置されていた。この写真の中に筆者が大きく写り込んでいるものもあるが、渋面を見てもらっても後味が悪いだけなので、何もない空っぽの写真を選ぶ。「そらあり」の題名には「そらあり」だ。「器用なこって…」