昨日の最終日に行って来た。その後、もうふたつ展覧会を回るつもりが、時間切れでひとつしかこなせなかった。それについては明日書く。

今夜はこの『ミラノ展』だ。美術館前に着くと、応挙展の時のような人の列はなく、拡声器を持った誘導員も手持ち無沙汰でいた。空いているかと思ったが、中はたくさんの人だ。それもどんどん増えて来ているのがわかった(追記:17日の朝刊によれば40日間の会期で10万ほどの人が入ったとのこと)。筆者はあまり視力がよくないので、説明書きは50センチほど近くに寄らなければ読めない。そのため、人波の間を縫うようにしてメモをした。図録は買わなかったので、メモを頼りに書くことにする。メモをするようになったのはここ1か月ほどだ。それもこのブログになるべく詳しく書くためだが、あまり詳しく書くと、何となく軽い感じで捉えられているブログには似合わないし、読む人もないであろうから、そこそこの程度にとどめておこうと思っている。さて、大阪市とミラノ市が姉妹都市提携を結んでいるのは昔から知っている。その提携が来年25周年を迎えるそうで、その節目を記念しての展覧会だ。ミラノに行った人の話を聞くと、何となく大阪に似た感じの商都とのことだ。姉妹都市関係は適切なのだろう。フィレンツェと京都が姉妹都市であれば、ミラノと大阪がそうなるのはよくわかる。とすれば東京とイタリアのどこが姉妹都市を結ぶのか。今の都知事はフランス嫌いのようだから、イタリアもきっと気に入らないのかもしれない。大東京に比べられる都市がイタリアなんぞにあってたまるかといったところか。歴史あるイタリアからすれば、逆に東京と比べられるのは勘弁してほしいかもしれない。姉妹都市関係がどういう経緯で結ばれるのか知らないが、相手を選んでかけ合うのも大変なことだ。それにしても大阪がミラノと姉妹都市であるのはいいことだ。どんどん交流してほしい。
チラシによると、『ミラノは紀元前4世紀からの歴史を有し、街並には中世の名残を留めながらも最新のファッションを発進する魅力的な街です。市内の教会や美術館には、レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」、ミケランジェロ「ロンダニーニのピエタ」といった巨匠達の名作も数多く所蔵されており、芸術の街としても知られています…』とある。たくさんの作品がやって来ているのかと想像したが、チラシを今読んでみると、約70件だ。昨日も感じたことだが、これはちょうどよい分量だ。これ以上では観るのに疲れる。また、この展覧会は大阪だけの開催か思っていると、次は千葉に巡回するから、大阪との姉妹都市関係だけでやって来たものでないことがわかる。せっかく日本に運ぶからには、ある程度巡回した方がよい。さて、この展覧会は目玉がチケットにも印刷されているレオナルド・ダ・ヴィンチの素描作品で、2点やって来ていた。しかもその2点のために部屋を特別にアーチや窓などの飾りを設えて雰囲気作りに気を配っていた。これはなかなかよかった。別格のレオナルドを紹介するにはそれくらいの処置はあった方がよい。筆者としてはレオナルドの作品がなくてもこの展覧会に足を運んだが、大勢の観客動員を目指すのであれば、誰でも知っている画家の作品が1点でも持って来る必要がある。また、そんな目玉的作品によって、展覧会が後々にまで人々の記憶に残るから、やはり目玉的作品は必要だ。だが、あまり目玉を強調すると、後はつまらない作品ばかりという誤った印象を与えかねない。玄人的な美術ファンにも足を運んでもらうには、目玉以外の作品でどう珍しいものを持って来るかだ。今回はこの点では大いに合格していた。70件の作品はミラノのい起源から現在までをよく要点を押さえて選ばれていて、さすが歴史ある都市を伝えるには充分であった。会場でメモをしたが、チラシを見ると、そこにもちゃんと書いてある。展覧会の構成だ。順に書くと、(1)皇帝の時代と中世初期、(2)ヴィスコンティ公の時代とドゥオーモの成立、(3)スフォルツァ公とレオナルド・ダ・ヴィンチ、(4)ルネサンス最盛期、(5)バロックの時代、(6)19世紀とスカラ座、(7)20世紀、となっていた。この7つのセクションに分けて作品が選択され、順に並んでいた。美術ファンによって興味あるセクションが異なるだろうが、順に辿ることで西洋美術の歴史が手短にわかるようになっている。これは学生が観るのにふさわしい内容だ。こんな理想的な作品選択の展覧会はきわめて珍しい。歴史的偏りがあまりなく、しかもミラノという街の一筋縄では行かない歴史をよく説明している。もう少し詳しいパネル説明があってもよかったが、そうすれば会場がさらに混雑するし、知識がもっとほしい人は図録を買えばよいという考えで、それはよく理解出来る。したがって、メモしたことを頼りに以下に簡単に書くのは、ちょうどこうしたブログで記録しておくにはよい程度のものだろう。
まず最初のセクションは、ローマ時代と中世、4世紀から13世紀までの紹介だ。ミラノには最初ケルト人が定住していた。これは知らなかった。エトルリア人がいたと言うのであればすんなり納得出来るが、ミラノはイタリアの北の端に近いところに位置するから、それを思えばケルト人がいたのも理解は出来る。だが、紀元前3世紀からローマ人が入る。そして286年にローマ帝国の西方を統治していた皇帝マクシミリアヌスの居住地となり、313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認するミラノ勅令を発した。374年、聖アンブロシウスがミラノ司教となり、この頃からキリスト教美術が盛んになり始める。その後ゲルマン民族の大移動があり、芸術は一時期衰退するが、751年からのカロリング朝期には石彫刻、金工品、象牙細工などの産地となった。これらの簡単な説明だけでもミラノがどれほどの歴史を持っているかがよくわかる。この第1セクションだけに光を当てても数回の展覧会が開催出来る。だが、今回は総花的な内容であり、このセクションだけを充実させるわけには行かない。それでもどれも見応えのある作品で、全セクションのうち、最も印象に残ったのがこのコーナーと言ってよい。それは普段あまり目にする機会がないからと言えるが、イタリアとなると、やはりローマ時代を連想してしまうからだ。もちろんルネサンスも控えているが、それはフィレンツェを紹介する数々の展覧会で充分観て来ているから、珍しさはあまりない。会場に入ってすぐ、目の前に現われたのは、石の彫刻「皇帝妃テオドラの頭部像」だ。鼻が大きく欠けているが、鼻孔が正面からよく見えていて、元々この妃は鼻が上を向いていたのかなと思わせるところがあった。かなり写実的に彫られているはずで、どんな人物であったのか、その性格まで伝わって来そうな気がした。ローマ時代の人物の肖像彫刻はかなり人間臭い印象を与えるものが多い。それは青銅製の男性頭部によく見ることが出来るが、そうした例が今回は1点来ていた。カロリング朝時代の展示物としては、古代末期の4世紀半ばに作られた金属工芸の「聖ナザーロの聖異物箱用容器」など目を引くものがあったが、羊皮紙を使用した3点の挿絵写本が特に印象に強かった。緻密でしかも華麗に挿絵と文字が書かれ、特にレタリングのペンさばきは見事な手仕事で、見ていて飽きない。羊皮紙がきわめてうすいのがわかったが、半分透き通っていてしかも白く、独特の微細な皺文様が見え、こんな上質な羊皮紙が今も入手可能なのかどうか、もし入手出来るならばほしいと思った。紙にはないしっとり感がガラス越しにもよくわかったが、それにしても写本を書記者が一字でも間違って書けば、この高価であるに違いない羊皮紙をどうしたのだろうと妙な想像をしてしまう。
次のセクションは13世紀末から1813年のドゥオーモ完成までを扱っていた。13世紀末のミラノは自治都市国家で、ヴィスコンティ家による領主制のもとにあった。ゴシック様式が隆盛し、14世紀にはフィレンツェからジョットなどの美術家を招いて制作に当たらせた。ドゥオーモの建設は1386年に始まったが、建築家や宮廷画家の活躍が続いた。「ヴォゲーラの聖体顕示台」は、先日観た『マリア・テレジアとマリー・アントワネット展』にもあった黄金の同種のものを思わせ、カトリック信仰における荘厳さの表現がよく伝わる。こうした複雑な金属工芸を見ると、ヨーロッパのいかにも肉食人種の考える美というものがよくわかる。複雑で緻密なものほど権威の象徴になるという考えだ。しかし、装飾過多なものほど印象にはあまり残らないと思うことは単に現代の考えに過ぎないかもしれず、かつてそれらが作られた時は、人々はまた違った思いを持っていたかもしれない。このセクションもなかなか見物揃いであったが、ライン地方、ロンバルディア地方、ブルゴーニュ地方の工人たちがそれぞれ14世紀末や15世紀最初に作った木彫りの「預言者」「聖女ルチア」といった高さ50センチ程度の像は、みんなどこか表現主義的な迫力を秘めていて、キリスト教美術の凄味を見る思いがした。こうした無名の工人の手になるものが、数百年の時を経て、堂々と存在を主張しているのに接すると、改めて自分の作るものにも真剣味が必要なことを痛感する。作り手の命はごく短いが、作られたものは場合によってはその何十倍も生き続ける。それが信仰の力に根ざしているのであれば、今一度信仰について考える必要があるだろう。
3番目のセクションは1450年から始まったフランチェスコ・スフォルツァの統治時代に焦点を当てていた。この時代にミラノはヨーロッパ全体に商業網を持つ強国になった。巨大な要塞のスフォルツァ城はルネサンス様式の洗練された宮殿となり、1482年にはレオナルド・ダ・ヴィンチがやって来て、以後25年滞在する。「最後の晩餐」はこの時期のものだ。今回はその絵の大きな写真が休憩室にかかっていた。また、展覧会の目玉となったレオナルドの素描の1点はこの「最後の晩餐」のキリストの顔を描いたものだ。説明によると、全部をレオナルドが描いたのではなく、弟子がかなり補筆しているらしい。近寄って見ると、紙の無数の皺がまるで老人の皮膚のようで、紙とは思えなかった。これは図版ではわからないことであり、やはり絵は実物を見る必要がある。美術館の床から天井に届く大きな写真でスフォルツァ城を紹介していたが、これは少しでも現地に立った気分を味わってほしいという主催者の考えで、なかなか好ましかった。想像を逞しくすれば現地に実際に立っている気分になれるだろう。そう言えば、会場の作品を見ていると、まるでイタリアにいる気分になれたが、そこは作品が発する魔力とでも言うべき力による。このコーナーではピエロ・デラ・フランチェスカの有名な肖像作品を思わせる「フランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・マリア・ヴィスコンティの没後肖像」という1480年頃に描かれた2枚の油彩画が面白かった。ふたりとも横向きの上半身が描かれ、向かって右に婦人、左に夫がいて、両者は対面する形に展示されていた。どちらも高貴な感じはせず、特に婦人は色白には描かれているが、かなり太っていて意地悪なおばさんの印象があった。王侯貴族も人間であり、美男子、美人ばかりではない。画家が理想的に描くのも限界がある。15世紀末までヨーロッパでは公式肖像画はこのように横向きに描かれた。
4番目のセクションは1499年のフランスによるミラノ占領から16世紀後半、カルロ・ボッロメーオがミラノ司教に任命された時期までを扱っていた。ミラノではレオナルドの影響が圧倒的であったため、レオナルド以降すぐには突出した才能が出なかったが、ベルガモではロレンツォ・ロット、パルマではコレッジョが登場し、美術史を彩った。今回はロレンツォ・ロットの「若者の肖像」が出品されていて、そこに見られる面がまえはまるで現在にそのまま通じるもので、確実に時代が新しくなって行ったことがよくわかる作品であった。1573年のエッチング作品「遠近法的にとらえたミラノの地図」は、説明にはスペインの支配下のミラノとあり、フランスだけではなく、スペインにも支配された時代があったことを伝えていた。この地図には1576年と1630年のペスト流行時の犠牲者収容所が環状道路外側に明確に描かれていて、ヨーロッパがペストで深刻な時代を経て来たことを再確認した。これは日本とて同じで、長い歴史の間には深刻な病気や飢饉、災害が集中する時代もある。5番目のセクションは1595年のフェデリコ・ボッロメーオのミラノ司教就任から18世紀半ば頃までの展示だ。「ボッロメーオ様式」と呼ばれる絵画様式があって、独自の肖像画や静物画が発達した。ミラノは静物画の発祥地のひとつとして知られているが、この時代の静物画とモランディを結びつけて考える必要はあるだろう。アルチンボルドのお馴染みの花を寄せ集めて描いた横向きの人物像が来ていたが、どういうわけか額縁がなかった。輸送途中で破損したのかもしれない。しかし、額縁のない油彩画は、画面がオイルで艶があるためもあり、アトリエで描かれたばかりに思える生々しさがあった。そのために、そうでなくても印象的なアルチンボルドの絵が今回は特に強烈であった。18世紀の絵画としてはティエポロやヴェネツィア派が重要な位置を占めたので、ティエポロの銅版画や、見応えのある油彩画としてカナレットやグァルディの典型的なヴェネツィアの風景画があった。後者は巨匠揃いのイタリア絵画史に隠れたような形になっているが、独自の幻想性に満ち、日本で本格的に紹介してほしい画家だ。今回の展覧会における玄人好みの1点として挙げたい。一度この画家の味を覚えると、忘れ難いものを記憶の中に宿す。18世紀初頭のロンバルディアは啓蒙主義を先取りする機運があったとのことで、1750年頃に描かれた大きな油彩画の「籠を手にした老年の物乞い」は、以前には絵の主題としては決して選ばれなかったもので、ムリリョなどのスペイン絵画との関連を連想させた。
6番目のセクションは1778年のスカラ座落成、オーストリアとフランスによる支配の間をゆれる独立気運のあった時期、そしてナポレオンによる支配下時代、オーストリアによる統治下、19世紀後半のセガンティーニあたりまでに焦点を当てていた。ナポレオン支配下にその首席画家になったアンドレア・アッピアーニによるナポレオン像は、同じ新古典主義時代のフランスの画家が描くものとはまた違って、別人と思わせる人間味があった。きっとこっちの方が実物に近いように思える。この当時、音楽家ヴェルディの存在は圧倒的で、その肖像彫刻はどこかロダンが作ったものを思わせる迫力があり、ロマン的な味わいに満ちていた。ロッシーニを描いた油彩画は有名なものだが、まるで写真であるかのような緻密さで、すぐにでも絵から抜け出て話しかけて来そうな感じに囚われた。そのためロッシーニがとても身近な存在に感じることが出来たが、絵にはそういう魔力もあることを初めて味わった思いがする。油彩の大作としては、アンジェロ・インガンニが描く1838年の「旧ドゥオーモ広場に面するフィジーニ列廊」が目立った。これには子どもから大人までが群がっていて、しきりに係員のおばさんが「近寄らないでください」を連発していた。小さな子どもは意外なところに目が行くもので、この絵の上部の建物のベランダ手すりに座る小さな猫を指し示していた。また、画面下中央には乞食の父と子がこちらを向いて立っていて、その近くにはちらほらと金持ちの男女の姿も描かれていたが、インガンニがなぜこうした渾身の大作で乞食を目立った場所に置いたのかとても気になった。それは前セクションにおける啓蒙主義の伝統ということか。日本ではまずこういう描写はあり得ない。汚れた存在をも平等にリアルに描くことの中に、たとえばイタリアの戦後すぐの『自転車泥棒』といったリアリズムの映画を連想してしまう。イタリアにおいては100年などすぐ間近な出来事で、そんな想像もあながち間違っているとは思えない。
最後のセクションはボッチョーニなどの未来派やモランディ、フォンターナの紹介で、これまた珍しい作品ばかりが揃っていた。このコーナーだけでも今回の展覧会を観る価値があった。モランディは銅版画と油彩画が来ていた。どちらも代表的なモチーフの瓶や器を描いているが、油彩の方は意味不明の物が添えられていた。説明を読むと、それは裏返しにされたマネキンの顔で、形而上絵画との訣別を示すとのことだ。つまり、キリコとは反対の道を行くということだ。なるほど。モランディはキリコとは1919年に出会っていて、その当時は形而上絵画を描いていたが、キリコにはかなわないと思ったのかもしれない。モランディにはさほど関心はないが、もう一度見つめ直す必要を感じる。カルロ・カッラの1910年の「ベッカリーア広場」は、夕闇の広場を描いているが、ロシアのリアリズム絵画の味わいにどこか通じる懐かしい感じをさせるものがあり、一方でまたセガンティーニの色面分割法を発展させた絵にも見えた。カッラはこの後、形而上絵画を描く時期があるが、そう言えば、モランディも初期の頃はボッチョーニと出会い、未来派に参加していた。こうした20世紀のイタリア絵画もそろそろ生まれて100年になろうとしている。おそらく今後もっと再評価が進んで、ボッチョーニやカッラが日本でも本格的に紹介されることだろう。ミラノという一都市が歴史的に見れば、ごく最近まで絵画ひとつ取っても美術史に大きな足跡を残して来ていることがわかる。その底力というものに対して姉妹都市の大阪が世界に誇るものがあるのかどうか。この『ミラノ展』のお返しとして、大阪がミラノでどのような展覧会を開催するのか関心が大いに湧く。