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●『伏見人形展』
頭食い」が何と言っても一番知られる伏見人形ではないだろうか。布袋や狐の方がその何倍、何十倍も作られて来たが、あまりたくさんあるのでほしいと思う人が少ない。筆者は「饅頭食い」をどこで買ったかと言えば、府立総合資料館の朏コレクションの郷土玩具を倉庫室の中で特別に見せてもらうことになって、同館を訪れることになった日、近くの骨董店で見つけた時だ。



●『伏見人形展』_d0053294_1036247.jpg初夏だったと思うが、もう10年ほど前のことで、対応してくれた学芸員はもうとっくに定年退職したはずだ。同館の前で待ち合わせをし、筆者は定刻どおりにそこに着くはずが、北山通りを東に向かって歩いていると、骨董店を見かけた。本格的な店ではない。一般家庭で不要になった美術工芸品を並べる店で、値の張るものはなかったと思う。ざっと店内を見回すと、高さ30センチ近い「饅頭食い」があった。値札は2000円しなかったと思う。これは安いとばかりにすぐに包んでもらった。これから古い伏見人形を総合資料館で見せてもらえるという時に縁起がよかった。その後早足で歩いたが、めったに歩かない道で、距離感を間違えた。思いのほか遠く、植物園の北門に着いた時は5分ほど待ち合わせの時間が過ぎていた。白いシャツを着た男性が建物の庇の下で待っているのが見え、半ば駆け足でそこに向かった。遅くなったことを詫びると、笑顔で対応してもらえた。その話は以前詳しく書いたような気がする。遅れた理由は言わなかった。「饅頭食い」を見つけて買っている間に遅くなりましたなどと言っても、言い訳に過ぎない。それで「饅頭食い」は見せなかった。それよりもっと古くて大きいものが朏コレクションにはある。倉庫室で写真を何枚か撮らせてもらったが、そのことは口外せず、また写真を他人に見せることもならないと言われた。ここで書くと口外したことになるが、10年経てば時効だろう。それにその時の写真はネットには載せない。これも以前に書いたはずだが、その人は筆者の顔を知っていた。京都市か府か、あるいはそれらの共催か、毎年主催している公募展で筆者は上位の賞を二年続けてもらい、その式典の場にその人がいて筆者を見ていたそうだ。その人の父は画家で、自分はその才能を受け継がなかったとも聞いた。ともかく、筆者が見たいという願いを聞き入れてもらったのは、筆者が作家活動をしていたことが大きな理由ではないか。とはいえ、本職の染色と伏見人形がどういうつながりがあるのかと疑問に思われたはずで、その質問を受けたような気がするが、どう返事したのか記憶にない。そう言えば、友禅と伏見人形がどうつながっているのか。それは平面と立体の差だけであると言ってもよいほど似ているところがある。
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 これも昔書いたはずだが、筆者が伏見人形を初めて見たのは、最初に弟子入りした友禅の師匠に総合資料館でのキモノの公募展を見に連れて行ってもらった時のことだ。同館はたまに企画展をするが、それ用の部屋でキモノの展示があり、その大きな部屋の確か隣りの小部屋で朏コレクションの伏見人形が並べられていた。その時は古臭い人形だなと思った程度で、すぐに好きになることはなかった。ただし、どういう人形が並んでいたかはぽつぽつと覚えている。それはともかく、筆者は現代友禅のキモノと伏見人形をほとんど同時にまとまった数を見た。それから歳月が流れ、伏見人形をそれなりにたくさん所有するに至ったが、それらの人形を友禅の仕事に何らかの形で活用する考えは一度も抱いたことがない。伏見人形をキモノの柄にすることは出来るし、実際そういうキモノは絶対にあるはずだが、筆者はそういうキモノを作りたくはない。どこにもない、今までに作られたことのない文様のキモノを目指して来たつもりで、そこに伏見人形がどう関係しているかを考えたこともなかったが、共通する物の見方といったものがあることを近年はしきりに思う。それは色や形ということになるが、現在の伏見人形は江戸時代のものをもっと派手にした色合いながら、基本は発祥当時のものに多く負っているし、形はほぼそのままを守っている。一方、友禅は衣服であり、流行に大きく左右される。戦後は欧米風の生活様式がますます幅を利かせ、友禅のキモノもそういう生活空間に似合うものが求められるようになったので、現在に友禅キモノと伏見人形はほとんど関係がなくなっているとするのが正しい。だが、それは表面的な見方だ。現代の友禅は昔の友禅があって変遷して来たもので、何もかも徹底的に昔のものを壊したのではない。基本は守られているし、またほとんど昔のキモノと同じものを相変わらず作っている店もある。それは友禅キモノが江戸期に完成されたものであるからで、そこに何かをつけ足すか、一部を変えるといったことでしか、新しいものは生み出せなくなっている。つまり、案外友禅と伏見人形は同じような条件下にある。これは同じような時代に同じ京都で発展した工芸であるから当然であろう。そして、違う分野であるにもかかわらず、共通点が少なくないのは、表現の目指す方向だ。友禅キモノは文様の美と言ってよい。それは写実ではなく、抽象に近い記号表現だ。伏見人形もそういうところがある。戦後は博多人形が人気を博したが、その特徴は伏見人形にはない写実性だ。だが、それでは面白くない。筆者はそう思う。写実の方が難しいように思われるが、実際はそうではない。写実の向こうに文様表現がある。伏見人形はそういう境地にあるもので、いくらでも真に迫った写実表現の腕前を持った原型師が、あえて丸っこい形を基本とした、いわば文様的な造形を採っている。こういった筆者の意見は友禅研究家も伏見人形研究家もおそらく書いたことがない。友禅の神髄を見るためには、友禅だけ見ていては駄目で、同時代のさまざまな表現を凝視せねばならない。
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 さて、筆者は伏見人形展はせいぜい朏コレクションがごくたまに、またごく少数が総合資料館やその出先機関の京都文化博物館で開催されるだけで、もっとたくさん見る機会がほぼ皆無であると思っていた。それで今は亡き奥村寛純さんの自宅を訪れるなどしたが、まさに灯りの下は暗いで、わが家から歩いて行ける奥嵯峨の「さがの人形の家」で「伏見人形展」が開かれていることを全く知らなかった。先日書いたように、それを教えてくれたのは、9月25日に天神さんの縁日であったFさんだ。その人の名前を聞いて10年ぶりにようやく面識が出来たが、それも筆者が伏見人形を買い求めて弘法さん、天神さんに足繁く通った期間があったからだ。それはともかく、Fさんから送られて来た同展のチラシを広げた時には驚いた。そこには筆者がたくさん見たいと思って来た古い人形の写真が6点印刷されていて、チラシの中央を占めるのが、「饅頭食い」だ。全く遅まきながら、同館を訪れる機会が到来し、またたくさんの写真を撮って来ることが出来た。昨日までは「さがの人形の家」を訪れた感想を3回に分けて綴ったが、今日は「その4」とはせずに、『伏見人形展』と題して写真とともに書く。このカテゴリーで今まで何度か伏見人形について書いて来たと思うが、その本格的な展覧会については初めてだ。今改めてチラシを見ると、同館は春と秋に開館する。春は2月の終わり頃から6月に入る頃まで、秋は9月中旬から12月上旬までで、『伏見人形展』は12月9日までの開催で、もう少し日数が残っている。真冬と真夏は京都は観光客が少なくなる。それで同館も休むのだろう。来春どんな企画展が開かれるのかはもう決まっているのだろうか。伏見人形を続けてたくさん見せることはないと思うが、日本中のいろんな人形をそれなりに見せるので、いつ訪れても伏見人形はたくさん見られると思う。何しろ20万点もあるから、企画展の内容には困らない。もらって来た手引きの書には、「日本の古人形」として、嵯峨人形、御所人形、衣裳人形、加茂人形、牙首豆人形、芥子人形、郷土人形の説明があり、その隣りのページには「人形系統図」が描かれている。加茂人形は先日は賀茂人形と書いたが、加茂が正しい。伏見人形はもちろん郷土人形に含まれるが、その代表格だ。
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 絵具の剥落のない新しい伏見人形は丹嘉を訪れれば無料で見られる。その棚にびっしりと並んだ様子を見るのは気分がよい。それと同じ雰囲気を自宅で漂わせたいために筆者は買い集めて来たところがある。その一方で新しいものより古玩に目が移るようになった。とはいえ、それは新品の10倍ほどは高価であり、とても手が出ない。そこでごくわずかのものが絵具の剥落のないものに混じる。実はその景色が好きだ。新しいものばかりでは味気ないし、古いものばかりではどっかおどろおどろしい。そのおどろおどろしさが「さがの人形の家」に漂っていると言えば、かなりけなしていることになるが、そういう雰囲気が漂っているのは確かだ。その理由を考えるに、やはり絵具の状態がある。あちこち剥がれていたり、またかなり煤で汚れているものもある。筆者は弘法、天神の縁日で煤まみれになったものを買っても、そのままにはしておかず、念入りに綿棒と水で煤や汚れを取り除く。そんなことをすれば骨董的価値がうんと下がるのは知っている。手垢で汚れ、それが一種の風格になっているものの方が高く売れる。だが、多くの人の手垢で黒くなっているのはあまり感心しない。そこでそれを除くが、その際に下の絵具まで取ってしまわないように細心の注意を払う。そうして垢を落とした古玩は、とても清々しい。何時間もその作業に費やすのでなおさらだ。「さがの人形の家」の展示品は、おそらく入手した時のままで、ほとんど汚れ落としはしていないのではないか。あまりに見るに耐えないものは別として、年月を経て汚れた状態もまた価値とみなしているはずだ。ここは意見の分かれるところで、宇治平等院を創建当時の華麗な姿に戻すことに対しても反対の意見があった。だが、筆者は汚れたままより、なるべく作られた当初の姿にしてやるのがいいと思う。とはいえ、20万点もの人形の汚れ落としをすることは不可能だ。館を入ってすぐ右手に売店があり、その鴨居に「人形を修復します」と記した紙がぶら下げられていた。ということは、同館は修復師をつながりがあり、収蔵品を修復したことがあるのだろう。展示替えの際に床に落とすなどして破損させる場合はあり得るし、また最初に買い求めた時に残念ながら一部が欠けていたりすることもあるはずで、修復はつきものだ。筆者もそういうことをたまにする。10年ほど前に天神さんでとても珍しい、高さ30センチほどの「鯛抱き童子」を6000円で買った。2か月ほど迷ったもので、ほかの人は買わなかった。それは鯛の尾が5,6センチ欠けていたからだ。それを筆者は紙粘土で補修し、本体と同じ色合いを塗った。手に取らない限り、誰もその修復の跡がわからない。それほど見事に出来たと思っている。そういうことが出来る筆者なので、たまにネット・オークションで1000円ほどで売られている、きわめて絵具が剥離した古玩を落札し、時間をかけて元どおりにしてやろうと思わないでもないが、1日で終わる作業ではなく、いつも思うだけにしている。だが、1000円のものを5万円くらいに見せることが出来る自信はある。
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 そんなことが出来てしまう伏見人形であるから、美術品としての価値が今ひとつとみなされるのだろう。古玩と銘打っていても、実際は新しいものをそう見せかけている場合もある。なので、筆者は手垢で汚れたものをあまり歓迎しない。それは見せかけのように思えるからだ。さて、今日の写真を説明しよう。最初はチラシで、以下5枚ある。まず1枚目は、下に伏見人形が並び、上の棚に御所人形がある。またその左の力士の回しは、売られていたものではなく、展示のために特別に作ったものではないだろうか。力士の伏見人形はネット・オークションでも比較的人気があるもので、筆者も大小持っている。力士の人形の左に「松引き金時」、右に「鐘担ぎ金時」が見える。色は違うがどちらも筆者は所有する。左奥の「俵大黒」もそうで、この陳列は伏見人形の代表格だ。「松引き金時」は特に人気があるようで、色違いを筆者は2個持っているが、新品を丹嘉で買うと今では2万円台はする。力士は丹嘉の何代目かで表情が大きく違う。筆者のものは戦後間もない頃の製作だと思うが、顔が哀愁を帯びていて、それが何とも言えない深い味わいがある。それは今流行りの「ゆるキャラ」では求められない。2枚目にも「国登録有形民俗文化財」の名札が見える。ごく最近その指定を受けたとのことで、ようやく同館の伏見人形の価値が認められたということだ。郷土玩具研究会のある人がみんなを前に説明し、その話の中で、実にいい機会に収集したもので、もう少し早くてもいいものが出て来なかったであろうし、遅過ぎるともはやこれほど集めることはかなわなかったと述べた。そのとおりだろう。そのため、筆者が集め始めた12,3年前ではもう遅過ぎた。ところが、ネット・オークションでそれなりにごくたまに古玩の優品が出て来るから、まだ日本各地には眠っているものがあるだろう。また、たとえばその人が説明した「鯛抱き童子」の古玩は、筆者が所有するものの方が状態がよい。その人形は大阪ドームで開かれた骨董市で買ったが、売り主は絶対に会場に来ている同業者には売りたくないと言い、大事にしてくれそうな筆者に譲りたいと固執した。その様子が嘘ではなかったので、万単位の金額にもかかわらず買ったが、よかったと思っている。話を戻して、2枚目はやや古いといったもので、左端手前は筆者も所有する新しいものだ。太鼓の三つ巴文様の鮮やかな青からそれがわかる。3枚目は奥の俵で囲まれた大黒が、先日書いた筆者がネット・オークションで10年ほど前に買った素焼き状態で無着色のものと同じで、右端の赤いかまどは筆者も同じものを所有するし、手前の船も持っている。3枚目は中央に布袋が立つ。手前の左端は飾り馬で、黒く塗られているが、同じものがネット・オークションでさきほど終了した。絵具の剥落が多少あるが、1個1000円程度であった。明治のものであるのは間違いがなく、そのようなものでも時にとても安く買える。鶏や猪は昭和40年代のものではないか。これらは盛んに見られる。右端奥の馬乗り軍人は明治か大正だろう。伏見人形が時代に合わせて新しい型を起こしたもので、筆者は好きではない。上の段の幸右衛門型は、ネット・オークションでも頻繁に出る。伏見人形の元祖で、江戸以前とされるが、奥村さんが書かれているように、それは眉唾で、造形も巧みとは言い難い。最後は干支もので、古玩ではない。今でも同じ色合いで作られている。特に俵牛は最もよく見かけるもので、それほど大量に作られた。これからもそうなるかどうかはわからないが、年賀状で干支を忘れない限り、伏見人形のこれら干支ものはいつまでも作り続けられる。あるいは干支ものだけが残って行くかもしれない。離婚が珍しくなくなった今、「饅頭食い」をありがたがる人も少ないだろう。
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by uuuzen | 2013-11-25 00:56 | ●展覧会SOON評SO ON
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