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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『さがの人形の家』その3
峨野でも北の奥まったところにある『さがの人形の家』の入場券の下に「イケマン人形文化保存財団」と印刷してある。大山崎のMさんは、電話で「イケダマンスケという人がもう亡くなってしまった」と話してくれたが、どうやらその人物が一代で収集し、『人形の家』を設立したようだ。



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「イケダマンスケ」という人が存命ならば、郷土玩具研究会の人たちと一緒に訪れると博物館を建てることになった経緯など、面白い話を聞くことが出来たかもしれない。ところで、これを書く直前、ネットで「イケマン」を検索すると、大阪で大きな文具商を営んでいる。そのことは知らなかった。たぶんその会社の社長が趣味で人形を集め、そして博物館まで建てたのだろう。そこでさらに調べると、「われら六稜人【第35回】博物館を一代で築いた男」というページが見つかった。画面左上隅の矢印をクリックすると他の回が見られる。「博物館を一代で築いた男」は全6回の投稿で、『人形の家』を建てることになった経緯がよくわかる。「イケマン」は江戸時代は米を扱っていて、戦時中に米問屋の流通がなくなり、やむなく丸善の真似をして文具と書籍を商うようになった。今でも会社は健在で、文具と人形とでは相性が何となくいいように思うが、文具商となったイケマンの9代目は昭和30年代半ばに郷土の玩具の保存の必要性を思い、たくさんの人を使って全国から徹底して集めた。20万点ほどが『人形の家』にあるというが、全部は展示出来ない。筆者がざっと見たところ、1万点も展示されていないように思う。ということは、定期的に展示替えをせねばならない。実際そうしているのだろう。9月25日に天神さんで知り合ったFさんは、後日この博物館で開催される伏見人形展のチラシを送ってくれたが、それを見て意外であった。筆者は美術館、博物館のチラシを昔からほとんど洩れなく見ていると自惚れていた。ところが『人形の家』の企画展のものは初めて見た。カラー印刷のA4サイズで、どの美術館でも作るのと同じような体裁で、デザイン的に見劣りもしない。筆者が今まで見かけなかったのは、この館がチラシを各地に送って置いてもらっていないからではないか。それほどたくさんの枚数を刷っていないのかもしれない。だが、それにしてはせっかくの企画展であるのに、情報の伝達がうまく行っていないように思う。ホームページもないようで、これではネット時代に対応出来ない。Fさんは郷土玩具研究会の若手メンバーでさえも5,60代になっていると笑いながら話してくれたが、これは郷土玩具に関心を持つ人たちがネット時代にあまり対応出来ていないことを示す。そう言えばFさんもMさんもネットには無関心だ。
●『さがの人形の家』その3_d0053294_0472688.jpg

 ホームページを作るくらい、慣れた人ならば簡単であるから、『人形の家』についてもっと発信するためにぜひとも早々のうちに整える必要がある。ただし、ホームページを作ると、メールでの問い合わせが生じ、終日パソコンに貼りつく人材が必要になる。そういう人件費の余裕があるかどうかだ。イケマンの社長が亡くなった現在、その奥さんが神戸方面から通って館に詰めているようだ。そのことは10月27日に同館に行って知った。奥さんは割合話しやすい人で、また博学でもあった。ただし、ホームページを自ら作るといったことは無理かもしれない。奥さん以外に、同じく70代とおぼしき男性がいて、チケットのもぎりなど、館の運営を任されているようであったが、やはりパソコンには不慣れであろう。館内に入ってすぐに旧式のパソコンが置いてあったが、あまり役に立っていないのではないか。それはともかく、10月27日のことを順を追って書くと、参加した研究会の人たちは10数名であった。筆者はFさんからみんなに紹介され、早速別室での会合に参加させてもらった。そこは入館者が立ち入れないところで、茶室になるような建物で、12畳くらいだろうか。靴を脱いで上がり、全員が卓を囲んで円座を組むともういっぱいであった。その中心にイケマンの奥さんが位置し、挨拶に続いて賀茂人形を示しての話となった。賀茂人形については、寺町三条の平安画廊のオーナーであった中島さんがよく話題にした。筆者が伏見人形を集めていることを知っていたからで、上賀茂に住む中島さんは賀茂人形に関心を持ってほしそうであった。この人形は木材に布を被せる木目込み仕立てで、比較的みな小さい。また、とても珍しいもので、めったに実物を見る機会がない。2,3年前に京都国立博物館で開催された陽明文庫展ではかなりたくさん並んだが、筆者はほとんど同展でその実態を初めて知った。つまり、中島さんが存命の頃には、話の相手にはなれなかった。この賀茂人形が『人形の家』にもある。奥さんのお話では、陽明文庫以上のものがあるとのことだ。当日奥さんが示されたのは、今日の2枚目の写真だ。上から撮ったので顔が見えないのが残念だが、ケースを持つ指からおおよその人形の大きさがわかるだろう。これも初めて知ったが、賀茂人形は特別の材木で作る。柳を使うらしいが、柔らかい枝垂れ柳ではなく、もっと硬いものだ。その柳はたとえば、伊勢神宮の20年ごとの遷宮の際に神宝を新調する際に使われる。賀茂人形は上賀茂神社の宮司が同神社の何かを作ったあまりの材木を使って作ったものだと思うが、いずれにしても神に捧げる物を作った後の残りの材だ。そのため、人形の大きさが小さいのだろう。奥さんは賀茂人形と一緒に白木の変わった形の箱を持参していた。それが今日の3枚目の写真だ。これも左に見える手首からだいたいの寸法がわかる。ついでに書いておくと、卓布は龍村を代表する狩猟紋の織物で、西陣の織物会社といったところでよく見かけるものだが、筆者はこれほど大きなものは見たことがない。
●『さがの人形の家』その3_d0053294_0481348.jpg

 さて、この白い箱は、伊勢神宮の遷宮の際に作られる同様の組み立て方で作られる箱のかなり小振りのものだ。奥さんは写真をみんなに見せてくれたが、本物すなわち伊勢神宮に納まる箱は人間がひとり入れるほど大きいようであった。奥さんが持参したのは、賀茂人形と同じ材で作るその箱の見本のようなものがほしいと思い、特別にあまっていた材で作ってもらったものだ。絹糸で組んであるが、糸を通すごく小さな穴をどういう道具で開けるかが記録に残っておらず、復元するのに苦労したらしい。たぶん20年に一度作り直すはずだが、職人が道具から作るはずで、そういったことが記録に残らない。そのため、物そのものが伝わっても、復元出来なかったり、また手間取ったりする。奥さんが言いたかったのはそういうことだ。つまり、途絶えてしまった技術はもう取り返しがつかない。それは人形も同じだ。廃れてしまったものがある一方、昔とは作りが違ってしまったものもある。時代とともに失われ、変化することは避けられない。さまざまな技術保存のために20年に一度遷宮する伊勢神宮でも、伝わり切らない技術がある。奥さんのその白い箱は中に何を入れればいいのかわからないが、箱そのものが美しく、外観を眺めているだけで楽しい。奥さんの話はさらに続き、賀茂人形の木肌を磨くのに瑪瑙の玉を使うことを知ったが、その理由を瑪瑙を扱っている人に訊いてもわからず、逆にわかれば教えてほしいと言われた。そこで集まった郷土玩具研究会員の中で知っている人がいるかと質問されたが、「普通は硬いもので擦ると艶が出る」といった意見が出ただけで、明確な答えは出なかった。筆者は手を挙げて意見を言おうと思ったが、初めて参加したよそ者が差し出がましいと考え直し、後で機会があれば奥さんに話そうと決めた。その機会はすぐに訪れた。会合が終わってみんな靴を履いて展示室に向かうことになった時、筆者はほとんど最後にその部屋を出ることにした。昔京都イタリア会館で日本人画家がフラ・アンジェリコの有名な「受胎告知」の原寸大模写を展示しながら講演したことがある。30数年前のことで、新聞でその記事を知って筆者は出かけた。その画家は、聖マリアの光背は溝が刻まれているが、その上に金箔が貼られ、光沢が今なお衰えていないことを言いながら、金箔は貼った後から瑪瑙の玉で磨くと語った。ひょっとすればルビーかもしれないが、それは高価であり、瑪瑙で代用出来るはずだ。同じことを数年前にも改めて知った。それは西洋のカリグラフィの作家の実演映像を見てのことだ。羊皮紙に華麗な文字を描き、ところどころに金箔で装飾している様子が映ったが、金箔を貼った後に瑪瑙で磨いていた。艶出しと金箔の接着に瑪瑙が最適なのだろう。その瑪瑙は筆のような細い木材の先端に玉状のものが取りつけられている。同様の道具を賀茂人形の作者が使用したのだろう。瑪瑙はすべすべした石で、木材の表面を滑らかにするには最適ではないか。奥さんは筆者のその意見を全面的に信じた様子ではなさそうであった。それはいいとして、賀茂人形の製作にまつわるそうしたちょっとしたことでも深く追求されている様子に感心した。
●『さがの人形の家』その3_d0053294_0475811.jpg

 会合の際に会報が配られた。写真が満載で、中国の無錫の土人形などの研究発表が掲載されていて、なかなか本格的なものだ。大学の先生といった専門家ならそれも当然かもしれないが、かえって民間の趣味人の方が徹底して調べ、また収集するので、面白いことが書けるだろう。同じことは前述のイケマンの社長も発言している。郷土玩具など、大学の先生は関心を持たない。持ったところで、飯のタネにはならない。そう考えると、イケマンの社長はよくぞ人海戦術で20万点も集めたものだ。そういう徹底さは大阪商人の伝統かもしれない。木村蒹葭堂がそのいい例だ。蒹葭堂が集めなかったものにイケマンの社長は惚れ込み、博物館まで私財を投じて作ったのであるから、大阪商人の伝統は途絶えていないと言うべきだ。さて、その大阪にも有名な土人形などがある。大阪の郷土玩具として、陳列ケースがひとつだけあった。その写真を4枚目に載せる。ピラミッドのように猿がたくさん連なっているのが数種見える。もっとたくさん一体化したものもあるが、もう廃絶したもので、ネット・オークションでは猿の数が数十を超えるものは高価で取り引きされている。昨日書いた「カオスの間」の主人の砂本さんから筆者が2年ほど前に数個まとめて落札した土人形の中に、ほしかった主役の蚕鈴のほかにこの連なった猿もあった。どういう名前で呼ばれているのか、今思い出せないが、筆者が入手したものは10匹くらいが三段になっている。手びねりで即座に猿の顔や手足を作り得るほどに熟練するのでなければ、100匹程度のものはとても作られないだろう。大阪の土人形は住吉の「タネ貸しさん」や「裸雛」が有名で、今でも大きな人気があるのは住吉大社で授与される小さな招き猫だ。この裃や羽織を着た招き猫はこの写真には見えないが、同館が所蔵していないわけがない。「大阪府」の名札のすぐ上に横たわる朱色の鯛は、同じ形の李朝の水滴にもあって、おそらくそうした外来の面白い形の道具に触発されたものだろう。さて、最後の写真は伏見人形とのことで、中央の大きなものは同様のものを見たことがない。伏見人形展が開催されていたので、展示はそれが目立ったが、いつもそうではないだろう。だが、壊れやすいものなので、展示替えは難儀するはずで、要員が数人程度いなければ運営が難しいのではないか。最初の写真は会合が行なわれた茶室に行くまでに見かけた鬼瓦で、2枚目の写真と同じく、戎大黒のセットだ。瓦は伏見人形と関係が深い。瓦職人は鬼瓦など、彫刻の技術を持っていて、清水界隈にたくさんいた。そうした職人が伏見に行って土人形に携わり、信楽にも赴き、あの有名な狸の置物を作った。
●『さがの人形の家』その3_d0053294_048403.jpg

by uuuzen | 2013-11-22 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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