麩屋町通りが西の高倉錦から東の寺町錦まで続く錦市場のどの辺りに位置するのかすぐにわかる人はこの界隈にかなり精通している。筆者はその部類ではない。先日高倉錦から麩屋町通りまで歩いた時、かなり距離があることを感じ、たぶん錦市場のちょうど中ほどかと思った。
今日は午後から出かける用事があり、帰りは錦市場を歩くことにした。今朝11時半頃だろうか、NHKの情報番組で錦市場内の若冲に因む展示が紹介された。茶を売る店だったと思う。その店を入ってすぐの壁に細見美術館蔵の「箒と子犬」の水墨画の複製がかかっていた。それは
先日の16日には見なかった。というより、見つけられなかった。同番組では、アーケードから吊り下げられている若冲の絵を題材にした垂れ幕も映し出したが、それも先日は見なかった。それで今日は出かけるついでにそれらの写真を撮ろうと決めた。両手に重い荷物を提げることになったうえ、錦通りが混雑しているように見えたので、寺町通りをそのまま南下して地下に潜り、河原町駅から電車に乗って帰ろうかと一瞬思ったが、「錦・若冲ミュージアム」の催しは25日までで、たぶんそれまでに錦通りを歩く機会はない。それで寺町錦から西に向けて歩き、西市場を抜けてすぐの大丸百貨店の地下から阪急電車に乗ることにした。つまり、16日の投稿とは反対方向に歩いた。それで、何枚か写真を撮って来たが、「箒と子犬」は結局見つけられなかった。ひょっとすれば休店であったかもしれない。筆者が歩いた時刻は4時40分頃だ。まだ店が閉まるには早いと思うが、午前中のみの営業、あるいは今日が休みの店もあるかもしれない。ともかく、二度も歩きながら、複製画全部を見つけられないのは、若冲に関心のない人は1点も見ない、あるいは見ても記憶に留めない。さて、二度も歩きながらと書くのは不正確だ。16日は麩屋町通り以東は歩いていない。今日はその歩いていない部分を最初に歩いたが、複製画を発見したのは1点のみで、麩屋町通り以西の方がたくさんある気がする。それは、今日歩いて初めて実感したことだが、寺町から麩屋町通りまではすぐだ。こんなに近いのかと思った。ならば16日は麩屋町通りに行くのに四条烏丸で下車したのは間違いで、今後は河原町駅で降りた方が早い。こんなことは地図を見ればすぐにわかるのに、それが面倒と思う筆者だ。スマホを所持している人はそれですぐに地図が見られるので、面倒さはさほどでもないか。そう言えば昨日息子と久しぶりで電話で話したところ、最近ケータイをスマホに変えたとのことで、それなりに時代遅れにならずに済んでいるようだ。
「その3」の最後の写真は今回の錦市場の催しの一種の事務所のような形になっているブースの写真で締めくくった。その前を今日も当然歩いたが、16日に比べて人の入りが少なかったので、表の写真をうまく撮影出来た。それを最初に載せる。意図したわけではないが、この写真は「その3」の最後の写真の左につながる。つまり、今日の最初の写真は「その4」の投稿にふさわしい。実はこの最初の写真に続けてその右手を撮ったのに、帰って調べると写っていなかった。それは「その3」の最後の写真にほとんど同じであるから、写っていなくてもあまり残念ではない。このブースの中に今日も入り、通りからごくわずかに見える六曲屏風の全体を3つに分けて撮った。その3枚を載せるほど今日は段落を設けないので、最初に撮った1枚だけを使う。六曲屏風の左手の壁に海老図の掛軸がある。また、右手と言っては正しくないが、右手の手前の壁には同じく細見美術館が所蔵する若冲の初期の著色画「雪中雄鶏図」の複製画が飾ってあって、今日はその全体像も撮ったはずなのに、これも写っていなかった。どうやら電池の威力が弱いので、撮った後数秒程度の待ち時間ではうまく写らないようだ。ゆっくり撮ればいいようなものだが、撮影中に人が入って来た。立ち塞がって迷惑をかけてはよくない。ブース内部はとても狭く、六曲屏風はいかにもせせこましく広げられている。本来は一対で展示すべきなのに、とてもそれは無理で、もう半分は「その3」の最後から2枚目に載せたように、豆店の奥に広げられている。これでわかることは、高精度撮影による屏風はこの六曲一双屏風のみのようだ。またこの屏風は
「若冲シンポジウム」の際に披露されなかった。その場所がなかったのかもしれない。複製とはいえ、初展示物があることは、この「錦・若冲ミュージアム」はそれなりに価値がある。また、複製の気軽さは本物のありがたみからほど遠いが、気軽に見られるというのはかなりの利点だ。複製であってもそれなりに高価なものであるから、汚れては困るが、店舗内にまるで商品のように見つめられることは、若冲を身近に感じるいい機会だ。そこで思うのは若冲時代におけるこうした屏風や掛軸だ。それは今回の催しで展示されたように、かなり卑近な道具であり、どの家にもそれなりにあった。つまり、今回の複製展示は、若冲時代に実際に似た光景があったとも考えられる。そう思うと、もっと掛軸や屏風が人の目に触れるべきで、それには複製が威力を発揮する。人通りの多い錦市場内に、今回の催しだけではなく、毎年か出来れば恒常的に若冲を一種のキャラクターのように取り上げ、美術に関心のない人にも無意識のうちに若冲の絵を認知させればよい。こうした文化活動はごく短期間で効果が出るはずがない。何年も何十年も地道に続けることで底力になる。
京都はじっとしているだけでも観光客がたくさん訪れる。そのことに胡坐をかけば未来は芳しくない。すでに外国人は京都を面白いとは思わなくなっているとも聞いた。それほどに地方が独自の企画を立て、誘致に必死なのだ。京都はその必死さがない。たくさん見所があるが、たとえば若冲を錦市場とつなげる一方、伏見人形や黄檗山満福寺とも関連を持たせると、洛中だけの賑わいではなく、伏見や宇治にも観光客を訪問させることに効果があるだろう。そういう宣伝を各地域の人たちだけでは実施しにくく、京都市がまとめ役の一端を買って出る必要がある。それはまだ先の話のはずで、現段階では地域の個人経営者の集まりが結束してお祭りをしている。今朝のNHKでの紹介では、アナウンサーは細見美術館の名前は出さず、単に「美術館」と言っていた。これが公的な美術館なら問題はないが、私設のものであれば宣伝になってまずいというのだろう。美術館ですらそうであれば、物を売る店など論外で、「錦・若冲ミュージアム」が取り上げられたのは、錦市場という店の集合体であるからか。錦市場と細見美術館がどのようにしてつながったのかは知らないが、今回の催しのブース内にはおそらく京都工芸繊維大学の学生が詰め、若冲画を用いてデザインしたグッズの製作も同大学が担当したはずで、各地で行なわれている大学の産学連携の動きが京都ではいかにも京都ならではの形を取っているのが面白い。観光も産業に属する。京都ではなおさらで、新しい観光となるものを創造して行く活動において、ここ10年で大きく注目されるようになった若冲をもう一段階上の幅広い認知を確定させようというのは、今後他の画家などを持ち上げる際のひとつの大きな着想になるのではないか。それには錦市場だけの力ではやがて不足するだろう。前述したように、若冲の足跡は錦市場だけではない。若冲ファンが京都の他の地域を訪れれば、なおのこと若冲への理解が深まるという工夫をするのがよい。それには地域対抗意識に囚われては駄目だ。そこが京都ではうまく行くのかどうか。また、市役所の観光課がどの程度、各地域を越えてのまとまりを画策出来るのかどうか。ま、筆者が夢想するような状態になるには、まだ早くて2,30年はかかるだろう。
その夢想する状態というのは、若冲がさらに知られるようになるといったことだけに留まらない。ところで、横尾忠則は若冲ブームが面白くないのか、2年ほど前のTVで若冲画について、もう過去のものだといったことを言い、なぜ人気が沸騰したのか理解出来ない様子であった。そのことは以前のブログに書いた。現代芸術家を標榜する者にとって300年前に生まれた古めかしい画家が持ち上げられるのはそんなに理解出来ないことだろうか。横尾の絵は昭和レトロそのものだ。それはいつか若冲画のようにもてはやされ、その頃の現代芸術家がその横尾の絵のどこがいいのかと首をかしげる可能性があることを意味している。現代芸術家にとっては、過去はどうでもよく、ただただ今この瞬間のみが神々しいのかもしれない。だが、どんな人物でも絶対に過去のものとなる。そしていつも今この瞬間を謳歌する芸術家が存在する。そうした芸術家は今この瞬間だけに霊感を負っているのではない。必ず過去の記憶が今この瞬間の考えに影響を及ぼしている。横尾の絵が昭和レトロということは、今描かれながらすでに過去を見つめているもので、前衛と形容するには物足りなさ過ぎる。300年前であろうが、3000年前であろうが、その頃の造形がただ古くさいだけで、今この瞬間に汲み上げるものが何ひとつないかとなれば、そうではない。古いものが絶えず新しいとは限らないが、いつの時代でも芸術家は古いものの中に斬新さを見つける。また、若冲画のあらゆる要素が過去のものとして、それらがすべて充分使い古されたものとは限らない。若冲が築き上げた、あるいは実験的に試みたことは、時代は経ているが、いつの時代でも芸術家が引き継いで発展させ得る何かを秘めている。つまり、横尾はあまりにとんちんかんなことを言っている。芸術家は時空を軽々と超える。300年前の若冲を一方で見つめながら、3000年前のエジプト文明に関心を持つことも出来るし、その双方の特質に惹かれて混在させた作品を作る立場もある。そのような作業の一例が、「錦・若冲ミュージアム」で販売される各種のグッズとも言える。若冲画を出汁にイラストを描くことは、たかがデザインの作業ではあるが、それは若冲画が完成度の高さを持っていればこそで、またキャラクター化しやすい様式を確立していたからだ。それは日本美術の大きな特徴だが、横尾の絵にそれがあるかとなると、混沌さの中で迷ってしまうだけで、代表的な図像が筆者には思い浮かばない。話を戻せば、筆者が夢想する状態とは、日本独特の造形に通じている大きな特質が若冲や伏見人形その他、京都の工芸にさまざまな形で見られることを、もっと多くの人が気づくことだ。