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●『大久保直丸遺作展』
び励ます会と副題にある。晩年の大久保先生が毎年のように個展を開催されていたのと同じ会場で遺作展が開催されるとの封書が先月5日に届いた。今改めてその封筒に貼られた切手を見ると、青い露草を図案にしたものだ。



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これはたまたま筆者宛てのものにそれが選ばれただけで、この切手は他の花をデザインしたものと確か10枚セットで売られているものだ。露草は小さな花だが、それが咲いているのを見るといつもはっとさせられる。瑞々しい美しさで、いかにも自然の中で露にまみれているといった風情がある。それが大久保先生の作品に似合う気がするのは、封筒の中に収められていた2枚のうちの1枚で、3つの新聞記事を縮小して載せ、他の写真とともにまとめてある。文字が小さいので読みづらいが、全部読んで驚いた。先生の自宅が洪水の被害に遭って、作品が駄目になったようなのだ。まだ河原町三条辺りで個展をされていた80年代末期の頃だが、先生からは一度家に遊びにきて下さいと言われた。宇治にお住まいとは知っていたが、家に押しかけて話をするのは図々しいとも思え、個展会場で会って話をする間柄に留まった。それでも長い時は1時間以上は話をしたし、先生は個展を頻繁に開かれたので、会話ののべ時間はそれなりに長かった。先生の口癖は、「おべんちゃらを聞いても仕方がない。遠慮なく意見を言ってほしい」で、それにどう応えたものか、率直な感想を言ったことはほとんどなかった。どう評価していいのかわからないというのが正直なところで、筆者にとって先生の作品はよいとかわるいを越えた不思議なものであった。今回の遺作展をじっくり見ながら同じことを思った。筆者は好悪の感情がかなりはっきりしていて、評価したくない作家の作品は少なくない。そして、大絶賛したい作家は少ない。先生の作品はそのどちらでもないと言えば失礼に当たるが、しつこくまとわりつく印象が全くなく、見た途端から忘れて行くようなところがある。これは、作品の完成度が低いと言いたいのではない。どれもぴたりと決まっていて、構図も色もそうでしかあり得ないように手慣れが感じられる。「印象にうすい」と言えば、これは「物足りない」でもあって、作品を評価していないことになってしまうが、「物足りない」のではなく、筆者にとってはまるで別世界のもので、「模倣のしようがないもの」と言えば当たっている。もっとも、そういう思いを先生に伝えたことはない。
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 それで筆者がやったことは、連想させる画家の名前を挙げることで、以前に書いたことがあるが、たとえば「デュフィのような透明な感覚がありますね」といった意見でお茶を濁した。先生はデュフィの名が出て「ぼくも好きや」と言われたが、「ぼくは汚い絵というのが嫌いでね」と続けられたこともある。そのことは先生の作品を見ればすぐにわかる。何が汚くてきれいかは人によって思いが違うが、ごく一般的に捉えればよい。たとえばきれいな色できれいな印象を与える画題を選ぶということで、風刺やグロテスクなものを拒否する態度だ。たとえばの話、ホルスト・ヤンセンやヴォルスの絵画は好みではなかったろう。筆者はそういう傾向の絵も好きなので、それで先生の作品の前でどう評価していいのかわからなかったところがあるのかもしれない。また、先生は当初同世代の染色作家3人と合同で4人展を開かれていた。その頃に筆者は面識を得た。4人のうち、K先生と最も親しくなり、何度かお宅を訪問して深夜まで飲んで話すこともしたが、そのうちK先生は大久保先生の作品について批判的な意見を言われた。筆者はその意味がよくわかった。K先生とは考え方も作品の方向性も何もかも違う。K先生は前衛を強く意識しているが、大久保先生はそうではなかった。筆者は先生の小品を見ながら、「雑誌のカットに使えばとても洒落ていてよさそうですね」と言ったことがあるが、先生はそれを否定せず、出来れば自分で文章を書いて、自作の絵を載せたいと言われた。その話はその後の個展でも何度か出た。先生がそのための文章を書き溜めていたのかどうか、今となってはわからない。だが、凝った額縁を自作し、一方で立体の小品にも手を染めるなど、とても文章を書く暇はなかったのではないか。その文章は俳句や短歌ではなく、短いエッセイを目指しておられたのだと記憶するが、そこに先生の作品を知る手がかりがあるだろう。先生の作品はどこか俳句的で、それでいてある何か一点に思いが凝縮して行くのではなく、逆に作品から空気がこぼれ出て、ほかの景色までが見えて来そうなところがある。それは文章で言えば短いエッセイだ。そして、そんなものを書く暇があれば、得意な絵を描いた方がいいと考えられたのであろう。
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 先生の作品集について何度か話題にしたこともある。小品も含めて全作品を撮影されていたのかどうか、それを訊ねたこともあるが、写真で整理することにあまり熱心ではなかったようにうかがえた。それも文章と同じで、そんな暇があればせっせ染める方に時間を費やすのが楽しかったのだろう。デュフィは音楽好きで、モーツァルトの楽譜を描いたりしているが、先生の作品もどこかモーツァルトのように透明で、とらえどころがない。だが、先生とは音楽の話をしたことがない。筆者は毎日音楽を聴いているが、それでいて、自分の作品やこうした文章にその気配が漂っているとは全く思わない。得てしてそういうもので、自分の音楽的なものがないので音楽を聴きたくなる。先生は音楽を聴くことに熱心ではなかったはずだが、そうであるからこそ作品が音楽的になった。たぶんそうだ。話を戻して、先生の作品を今から撮影して本という形にまとめることは可能だが、今回の遺作展の案内に同封された新聞記事から、作品が浸水で被害を受け、先生が作られた時と同じ状態ではなくなってしまったことがわかり、それをどう克服するかという難題が生じた。ともかく、その浸水被害については会場で奥さんから聞くしかなく、遺作展の開催を待った。そして出かけたのが今月3日で、下京区若宮通りの六条上るの「和可み也」まで小雨の中を四条西洞院から歩いた。日曜日でもあってか、次から次へと人が押し寄せ、奥さんはゆっくりする暇がなかった。そこを様子を見てつかまえ、少し話をしてはまた途切れるを3,4回繰り返した。それでもおおよその事情はわかった。結論から言えば、家の1階に置いていた作品はみな泥をかぶってしまった。生地に染めた作品で、和紙を裏打ちしてある。染色は水洗いの工程を必ず減るので、汚れてしまえばまた洗えばよい。そして先生の泥をかぶった作品は試しに洗われたが、泥のうす茶色がどのようにしても落ちないらしい。それはそうかもしれない。泥大島は泥で染めるはずで、泥も一種の染料だ。また、屏風などの大作は、一旦染めたものを枠から外し、布地全体を洗って裏打ちし直すとなると、費用もかなりかかる。どのくらいの作品数がそうした被害を受けたのか知らないが、まとめて全部を短期間に修復するのは費用の点からも無理があろう。先生は奥さんとの間に子をもうけず、奥さんは先生が亡くなってひとりで住まわれていたところを、洪水の被害に遭った。
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 その洪水のニュースはNHKのローカルで見た。その時、住所からして先生の家のすぐ近くのはずで、いやな予感がした。その洪水とは、今年9月16日の台風18号によるものではない。去年8月14日の京都府南部の集中豪雨だ。今回の案内に同封されていた1枚の写真によって知ったが、先生の家のすぐ前にコンクリートの擁壁を持った用水路が流れている。普段は水深10センチかそこらで、わが家のすぐ裏の用水路と似たようなものだ。だがひとつ大きく違う点がある。水路の底よりも低い土地に住宅が建ち並んでいる。これでは水路が決壊すれば濁流が一気に家の中まで押し寄せる。奥さんの話によれば、水路は以前の地震の際にひび割れを起こしていたそうだ。その水路が数十年に一度の豪雨で短時間で増水し、コンクリートの脆弱な箇所を決壊させた。運悪く、先生の家の前でそれが起こり、真夜中に1階が水浸しになった。奥さんは2階で寝ていて、あまりの轟音に目覚めて階下に行こうとすると、部屋の中を川が流れていた。作品はどうすることも出来なかった。今回の個展は、2階に置いていたもの、そして他に預けていたので無事であったものから選ばれた。偲び励ますのは奥さんに対してで、額縁に入れない小品が今回たくさん展示され、大半が売却済みのシールが貼られていた。奥さんに保険はかけていなかったのかと訊くと、かけていたが、火事や地震と違って洪水は決め事に入っておらず、わずかしか支払われなかったようだ。1階は泥だらけで、各地から駆けつけたボランティアの手助けによって清掃が行なわれ、そして1年経った今年改修が終わった。そういうことになっていたとは知らなかった。先生は洪水の被害を見ずに亡くなったが、もし生きておられたどうであったか。案外さばさばして、また作品を作ればよいと笑顔を浮かべられたのではないだろうか。それはさておき、先生の姿がない個展はやはりさびしいが、作品を見ていると、そのことを忘れる。個展の際には必ず奥さんがおられて、筆者はいつも挨拶はするものの、それだけのことで、まともに話をしたこと今まで一度もなかった。えらく無口な人だなという印象であったのが、今回それを払拭した。気さくによく話していただき、また来客の応対に忙しいこともあって、かなり朗らかであった。夫の死に続く作品の被害という災難に見舞われながら、家の改修が終わり、遺作展の開催に漕ぎつけてようやくほっとされているのだろう。会場は染色家を中心に、先生の交遊の広さを示す大勢の人がいたが、その中で筆者は門外漢と言ってよく、まともに顔を知っている人はひとりふたりの有り様で、そういう筆者がここに遺作展のことを書くのはおこがましいが、これも先生ならば、「ああいいよ、大山くんが好きに書いてくれれば」ときっと笑って許してくれる。
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 会場では撮影が許されたので、いちおう全作品を撮って来た。それらを全部載せるのは「その2」として続編を書かねばならない。また、撮りはしたものの、作品が小さくてよく見えないものが多く、なるべく大作を優先して載せることにする。大作はもちろん屏風で、今回3点が並べられた。先生は六曲屏風も何点か染められたが、それは洪水の被害はどうであったのだろう。「和可み也」は同じローケツ染めの作家で、先生より年下の丹下さんの自宅1階を用いたもので、典型的な京都の町家をそのまま利用している。今日は写真を載せないが、屏風や小品、ガラス絵などが展示された最初の部屋の西側に庭があり、その向こうにもう一室あって、そこにはキモノと帯が展示された。その部屋のさらに西はまた庭になっていて、たくさんの鉢植えが瀟洒な印象を与える。先生はこの画廊を気に入っていたようで、最後の10年近くはもっぱらここを使われた。三条河原町界隈の画廊は便利でいいが、広さには問題がある。六曲屏風を展示するとなると、そうした作品を2,3飾っただけでもういっぱいだ。先生は大作主義である一方、小品もよく染められた。ガラス絵はそうした染色の小品を手がける間に興味が湧いたのだろう。ガラス絵は染色と同じく、工程にひねりがある。普通に絵具を順に載せて描いて行くという作画とは違って、いわばへそ曲がり的だ。そうであるからこそ、それ独特の効果が得られる。その魅力を説明することは難しい。自分でやってみなければわからないところが大きい。普通の作画とは違って、凝った技術とでも言えばいいか、器用さが要求される。もちろん染色作家の中にはとてもそう呼べない人も多いが、先生は器用さにかけては抜群であった。これ以上の技術はないというところまで早い頃から到達していた。言うなれば自由自在だ。そうして完璧と言ってよい作品が次々と生まれたが、その完璧さは結晶のように強固な印象を与えるものとは少し違って、もっと流動的であった。そこにデュフィの闊達な絵画を連想する所以がある。となると、先生にとって、「大作は小品以上に苦心惨憺したもの」ということはあまり当たっていない。大作は形が大きいだけのことで、作品から伝わるものは小品と変わりがない。
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 先生はグルメであったのだろうか。食べ物でも何でも、一流のものを味わわねばならないということは昔聞いたことがある。貧乏臭いことがいやであったのだろう。貧乏は先に「汚い」に通じている。とはいえ、先生の作品はいかにも金持ちが喜びそうな成金趣味に近いことは全くない。むしろ成金は先生の作品を理解しないだろう。先生は芸大を出ていないはずだが、父親が橋の擬宝珠を作る職人で、その生き方を見て育った。作家のあるべき姿は父親から学んだということだが、それは金をたくさん儲けて贅沢に暮らすということではないのはあたりまえだ。JRの山崎駅の地下通路の階段からプラットフォームを見上げた様子を染めた小品があった。その前で奥さんは「主人は大山崎山荘美術館が好きで、よくふたりで出かけました」と言われたが、御夫婦で各地を散策しながら、いつも作品について考えていて、閃きがあれば立ち止まって写生に励まれた様子がその小品から伝わる。これはいつどこにいても作品となる心の動きを待ち受けていることで、俳句作りと似ている。そうした日常の何気ない光景から着想を得ることのほかに、楽しい形をした「物」を手元に置いてモチーフにしたり、またローケツの技術を高めるための職人仕事的なことから派生した仕事も手がけられた。楽しい形の「物」はどんな造形作家でも関心があるが、先生の場合は車やフランス人形、何かの容器、野菜、そして花といったように、それこそ文章の合間のカットにふさわしいような、「愛玩」的なる物に心を寄せられた。そういうところもまたデュフィに通じている。さて、今回の案内で遺影の脇に配された作品の図版が、今日の写真の3枚目に見える屏風で、「とびらから」という題名だ。宇治の縣神社を題材にしていて、そこに先生が祀られているというキャプションがある。この神社の祭りは、灯りを全部消して真っ暗な中で行なわれると聞いた。20年ほど前にその縣祭りの夜に妹の家を訪問したことがあるが、祭りそのものは見なかった。先生がこの神社に祀られているとはいうものの、遺骨はない。それは去年の洪水で流され、見つからなかった。何という災難とも言えるが、これも先生は受け入れるだろう。骨が残っても仕方がない。作品があればそれでよい。そして出来れば作品集が編まれればと思うが、経済力のない染色仲間たちは自分のことで精いっぱいだ。
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by uuuzen | 2013-11-14 19:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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