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●『若冲シンポジウム』
肉を食わされたようなと言えば喧嘩を売っているみたいになるが、チラシの文面に釣られてこのシンポジウムに参加した筆者が帰りのバスの中で思ったのが、「羊頭狗肉」だ。チラシを入手したのは先月6日で、翌日ネットから参加申し込みをした。



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シンポジウムの会場は京都造形大学だ。チラシには「入場無料 事前予約制」とあり、また募集人数が100名で、「申し込み多数の場合は抽選となります」と謳っている。もう満席かと思って家内の分と2名を予約すると、すぐに返事が来て、「受けつけしました」とあった。その時、抽選のことはすっかり忘れていて、また開催日の今月10日まで「残念ながら、選に洩れました」とのメールも届かなかった。当日は雨で、家内は出るのをいやがった。それで松尾橋まで傘を差して歩き、そこから3番のバスに乗った。昔から3番は北白川と松尾橋を結ぶ長い路線で、10年ほど前か、同じ3番ながら、京都造形大学の前に着くルートも増えた。松尾橋から同停留所まで30いくつの停留所がある。ひとつ2分で走るとしても1時間強かかる。実際そのとおりで、松尾橋から乗ると、終点に着くまで1時間たっぷり眠ることが出来る。運転者の真後ろに座って半分の距離ほど眠った。100人の定員と言えば、教室ほどの場所かと思っていたが、同大学の芸術劇場「春秋座」であった。そのことはチラシに書いてあるのに筆者はそれを注視しなかった。それで同大学前のバス停に着くと、筆者と同世代の男女がちらほら白川通りに面した大階段を上って行く。彼らがシンポジウムに参加することは直観でわかった。3時から受けつけで、4時開演だ。家を出たのが2時前、会場の中に入ったのが3時半で、予想どおりに時間がかかった。春秋座は歌舞伎用の劇場と言ってよく、全部で何人入るのか知らないが、100人ということはない。筆者も家内を連れて行かなかったので、空席はちらほらあったものの、300人は来ていた。100人と謳っていたのは、早く予約させるための方策だろう。会場に着いてあまりの大勢の人がいるのに驚いた。それはそれでいいのだが、「定員100名」はない。
 シンポジウムが始まる前、劇場の扉横で高精度複製による若冲画の展示を見た。たくさんの人がどの絵にも群がっていて、なかなか間近で見ることが出来ず、筆者は2,3点をそうして見ただけで、ほかは遠目での鑑賞となった。どの絵も何度も見たことがあるので、あまり熱心になることは出来なかったのもその理由だ。高精度撮影の複製は近年は珍しくなくなった。細見美術館が所蔵する若冲画を10点ほど、1億数千万画素で撮影、印刷したもので、ガラス・ケースに収められず、数センチまで接近して眺めることが出来た。すべて掛軸で、原画は絹本墨画が1点で、他は紙本だ。原画と併置して見比べないことには複製の精度がわからないが、印象としては驚嘆すべき仕上がりで、原画であると言えば誰しもそれを信じるだろう。こうなると、今後はこのような複製画が骨董市場に出て来て新たな真贋問題が起こる可能性が大きい。これは今に始まったことではない。明治大正時代にコロタイプ印刷が盛んに書画の複製を行ない、今でもそうした作品が真筆として売られることもある。だが筆者が危惧するのは、1億数千万画素で取り込んだ原画の画像を加工し、印刷した場合だ。たとえば、印章のみ別の若冲のものと取り代えたり、鶏の一部を不自然でないように別の形のものにするなどした場合、原画がよく知られているものであっても、その画像加工した作を新出の真筆と思う人は多いだろう。それはともかく、原画が絹本であれば、その絹目まで印刷で再現出来そうなものだが、そのようには見えなかった。つまり、紙本に見えた。絹は微妙な光沢があるから、それを紙にプリントしては再現は無理だ。そのため、高精度撮影による復元は、原画が紙本の場合に威力を発揮する。印章の朱色や落款の墨のつき具合は、ごく間近で凝視しても複製にはとても思えなかった。著色画もそうで、顔料の微妙な色合いがよく出ていた。こうした複製画を販売するのかどうかだが、表装は職人が1点ずつ手作業するから、商品となれば最低でも10万はするだろう。そのような複製画をほしがる人がどれほどいるだろう。10万も出せば若冲と同時代の画家の絵が2,3本は買える。その方がいいのではないか。ということは、若冲画を持つなら本物に限るということだ。100万出せば買えるし、本物を手元に置く愉悦は複製では満たされない。それにしても細見美術館は日本全国を回る巡回展で若冲画を展示しているので、傷みが出て来る前に、こうした複製の展示で代用したいのかもしれない。
 シンポジウムが4時きっかりに始まり、6時過ぎに終わった。5人が壇上の上手に横並びになり、下手には細見美術館の女性が司会を担当した。ここでチラシ裏面の文章を引いておく。「…その作品には、若冲が誕生し生涯の殆どを過ごした京都の伝統に密接に関係するものが多く含まれており、その伝統の多くはいまも京都に伝えられていますが。大胆な描写の陰に隠れてか、その事実を愛好者が知ることは少なく、若冲人気に比しては、地元地域への効果は少ない状況です。…」 筆者はこの文章に釣られた。つまり、「地元地域への効果は少ない」ので、それを打破するためにどうすればいいのかを話してくれるのかと期待した。ところが、5人の誰もそのことについて語らなかった。では何のためのシンポジウムであったのか。若冲の魅力を説明することで地元地域への効果が大きくなると大局的には言えるが、若冲の魅了はさんざん喧伝されていて、わざわざ当日会場に足を運ぶ人たちはある程度以上の若冲についての知識はあるはずだ。それを踏まえたうえで、今までにない切り口で、今後地元地域への効果を上げるにはどうすればいいかをみんなで考えるというものを予想したのに、5人がそれぞれいわば「わたしの若冲」について喋っただけで、耳新しいことはほとんど聴くことが出来なかった。それでもせっかく参加したのであるから、感想をまとめておく。まず、5人は、辻惟雄、狩野博幸、奥平俊六、椿昇、細見良行で、ひとり30分の持ち時間であった。この5人は来月であったか、ロンドンに行って同じ内容のシンポジウムをするとのことで、今回も含めて、国から予算が出た。今回のシンポジウムの副題は「伊藤若冲の作品を通じて京の文化を知る」で、若冲は今や国が応援して文化大使となって海外まで行くことになった。そうであるからこそ、「地元地域への効果は少ない状況」の下りが気になるし、効果を高めるにはどうするかを議論すべきではないか。だが、筆者はこの1か月間、そのことをしばしば考え、名案がないことに嘆息していた。以前にも書いたが、有名になった若冲だが、それは絵画に関心のある人に限り、100人のうちひとり程度だ。京都ですら、ほとんどの人が若冲を知らない。これは自治会の中を見わたしての実感で、日本はそれほどに絵画ないし美術に関心のある人が少ない。であるから、「地元地域への効果は少ない状況」は当然過ぎることであって、それを改善する手立てはないと考える。若冲に限らず、どんな画家でも事情は同じで、結局日本の文化度が低いのだ。そう思っていたので、定員100人と謳っているところがすんなり参加可能となったのは不思議ではなかった。そして蓋を開けてみると、300人ほどは来ていたので、若冲人気の高さにまた驚いた。
 さて、辻氏は最近どこかの講演で3時間も若冲について語り、今回はそれを下敷きに30分に縮めると前置きした。概論のような内容であったが、最後に「若冲と朝鮮の絵画」との関係について話があって、これが興味深かった。氏は、「最近日韓関係がぎくしゃくしていますが、それは政治の世界でのことであって、文化は関係ないのです」と前置きされた。これがとてもよかった。右翼は若冲が朝鮮画から影響を受けたなどということは絶対に認めたくないだろう。そういう見方は若冲時代にはなかった。では若冲の目が曇っていたのか。現代人がより真実の眼差しを持っていて、「韓国憎し」はごく当然で、同国の美術などゴミ同然と考えることは正しいか。若冲が李朝民画を盛んに見て自作を描いていたことは、今では常識となっている。先日、大きな赤い太陽と松の木の上に鶴を2羽描いた李朝民画がネット・オークションに出た。3万円ほどになったので入札を断念したが、その絵は稚拙な技術ながら、画題や構図、色合いはまさに若冲そのもので、同じような例はいくらでもある。シンポジウムで辻氏が最後に話されたのもそういう例だ。数年前に大邱に呼ばれた時、ホテルの部屋に飾ってあった8曲の水墨屏風の2扇の写真を示されたが、どちらも竹を描いたもので、その節が大きな唇のように異様に目立っている。そうした表現は李朝やその伝統ならではで、中国にはないという。若冲が金閣寺大書院に描いた水墨の竹図の節も同じような形をしている。つまり、若冲は李朝民画の墨竹図を見て、その面白さに感化されたのであろうという意見だ。持ち時間が30分であったので、そこで突如話が終わり、次の狩野氏の番になった。狩野氏の発表は近年の著作にあったものと同じで、天明の大火以降、若冲は伏見人形の布袋像を7体に増やして描くようになるが、その理由はなぜかということだ。氏は当時伏見奉行所の政治腐敗を訴え出た町年寄りたち7名を若冲は7体の布袋像になぞらえたとする。訴えによって奉行所の役人は捕えられたが、訴え出た7人も死罪になったそうで、当時その事件を若冲は知らなかったはずはなく、彼ら7人のための鎮魂を思って7布袋図を描いたと氏は主張するが、これは根拠があまりに希薄で、こじつけを感じる。それまで若冲は布袋像を1体のみ、あるいは時に2体並べて描いていた。そうした伏見人形図を何のために描いたのだろう。それらもまた無念のうちに死んだ者への限りない同情の思いを込めたものであったことが証明されれば、7布袋図も伏見奉行所腐敗を訴え出て死んだ7人の弔いのためという考えは否定されないかもしれないが、若冲は画家であり、政治には無関心であったと筆者は思う。ただし、自分が他人に迷惑をかけることに関しては大いに敏感になり、画業を投げ打ってでも動いた。そういう人物が伏見奉行所事件で死んだ7人に同情して1作だけではなく、何度も7布袋図を描いたことがあり得るかとなれば、ないとは言えないが、氏の意見は想像に過ぎない。
 3人目は奥平氏で、氏の文章は筆者は数年前に『豊中史』の若冲関連の事項で読んだ。『茨木史』にも若冲関係のことを書かれていて、それも目を通しているが、今回は新しい発表があった。それは、豊中の西福寺に若冲が描いた金壁の障壁画についてのもので、なぜ若冲はその作品にのみ金箔を全面に貼った画面に描いたのかという疑問を解くものだ。西福寺のすぐ近くのとある家は、若冲時代は庄屋で、また若冲が見たであろう金壁の襖絵が今も使用されている。画題は若松に鶴で、鶴の描き方が若冲によく似ている。画家は江阿弥で、その師は若冲が若い頃に学んだとされる大岡春卜だ。江阿弥の生没年はわかっていないが、若冲より2,30歳上で、金壁の障壁画をたくさん描いたとされる。つまり、若冲は天明の大火で焼け出された後、西福寺に赴き、兄弟子である江阿弥に倣って、同寺に同じ金壁として描いたという意見だ。次に椿昇氏だが、氏の名前は5,6年前に京都国立近代美術館での個展で最初に知った。その展覧会についてはこのブログに感想を書いた。印象深い展覧会であったが、よいとかわるいとかを越えた、不思議な感じのもので、全面的に筆者は感動するほどではなかったものの、どこか捉えどころのなさが面白かった。シンポジウムで氏が語ったのは、芸術家は崩れかけた時が面白いというもので、若冲にもそういう作例があるとして、六曲一双の『石燈籠図屏風』を挙げられた。そこに描かれる燈籠は、みな駄目な人間のように見え、点描で緻密に描かれた燈籠であるが、形は崩れ、いわゆる「下手な絵」となっているとも言う。氏は自作の紹介をたくさん挟みながら、ひとつの様式に固執したくないことを言ったが、それは芸術家としては見上げたもので、一度築き上げると、全部それを取り壊し、また一から積み上げることを自分の流儀とする。若冲にもそんなところがあり、それが「石燈籠」の点描になったり、また枡目絵の気の遠くなるような緻密な作業になっているが、技術的に完璧であったところから一旦外れて、どこか崩れてしまっていることを気にしていない「石燈籠」は芸術家としてさすがと言うこの椿氏は筆者より2歳下と思うが、筆者とは話が合うかもしれない。筆者は昔から、しいて言えば20歳の頃から、ムンクの最晩年の作が好きであった。有名な「叫び」とは違って、ほとんどなぐり描きに近く、また明るい色合いの作が多いが、そういう絵を描くようになったムンクが面白いと思った。それは晩年の芸術家に共通したことと言えるかもしれないが、椿氏の言うように、それまで培って来た様式とは全く違うことをしてしまう気持ちが面白いのだ。「いよいよ狂って来た」と言えるし、また「若い頃の真面目で正直なことにこだわらなくなった」と言ってもよい。椿氏もそのような年齢に近づいて来ているのだろう。筆者もそうだ。みんながあっと驚くようなことを老齢になってやる。「あの人、とうとうおかしくなって来たわね」 そう言わせたいのだ。それは芸術家にとって、「わかってたまるか」という思いと、「もうどう思われようが気にしない」という考えが混ざっている。椿氏が好きな絵として、ルネサンスより少し前のロシア・イコンと、李朝民画を挙げられた。後者もまた筆者は昔から大いに関心がありながら、近年ますますその不思議な魅力が気になっている。椿氏もそうで、そこに描かれる虎やウサギは、写実からは遠く、またとてもそのような形には描けないほど奇妙で、絵が上手いとか下手を越えた境地にある。「どう思われようが気にしない」ということすら気にしていない人でなければ描けないもので、そういう境地に至ることは現代の日本ではまず不可能だろう。だが、芸術家たる者、そういう境地に達することを目指すべきだ。最後に細見氏の話だが、どんな内容であったか記憶にない。さて、羊頭狗肉的と言いながら、行った甲斐があったのは、李朝民画の奥深さが話されたことと、そして辻氏が2年後に若冲展があるとさらりと口にされたことだ。シンポジウムが終わってトイレに駆け込み、用を済ました後、石峰寺の住持と会った。2,3分話をしたが、2年後の翌すなわち若冲生誕300年にも東京で若冲展があるそうで、その打ち合わせのために美術館の人たちが同寺をよく訪れているとのことだ。若冲にあやかっての日本絵画といった状況はまだ当分続きそうだ。
by uuuzen | 2013-11-13 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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