貴重なものは時と場所によって変わるし、また人の思いによっても違う。2,3年前のNHKのドキュメンタリー番組でチベットの山地に住む少女の特集があった。10歳ほどだったと思う。彼女は家事に追われる貧しい生活の中、子どもには教育を受けさせるべきという地元の小学校の先生の助言もあって、両親から学校に通うことを許されている。
ある日、彼女は大事にしていた1本のボールペンをどこかで落とした。それが唯一の筆記用具で、それがなければノートに文字を書くことが出来ず、学校へ行っても仕方がないことを意味する。人里離れた山にぽつんと1軒家が建っていたと思う。そんな場所であるから、探すのは大変だ。彼女は必死になったが、出て来ない。その時の彼女の落胆ぶりは涙を誘った。それほどにみんなと一緒に学びたいのだ。映像を撮った人たちがボールペンの1本や2本のあまりはあるはずで、彼女にプレゼントしてもよさそうであるのに、そういう光景はなかった。つまり、彼女はもう通学出来ない。それは家の経済事情からでもある。働き手に乏しい家庭なので、幼ない彼女がいろいろとこまめに動かねばならない。わが家にはボールペンはたぶん100や200はある。9割以上が使わないままインクが乾燥してしまっている。筆者はボールペンは好きではない。そのため、よくあちこちからもらったりするが、ほとんど使わない。日本ではたぶん1兆本以上のボールペンがあるはずだ。なのにチベットの奥深い山地では1本が人生を左右するほど貴重だ。これは物に溢れた日本が幸福で、そうでないチベットが不幸だとは決めつけられない。チベットの少女はボールペン1本に生涯でも何度もないほどの幸福感と絶望感を味わった。そういう経験は日本ではとても乏しくなっているのではないか。筆者はたとえば伏見人形にしても熱心なコレクターではないが、家ではもはや飾る場所がないほどには持っている。これはたくさんあるという意味ではなく、本やCDなど、ほかにもっと多くの場所を占めるものがあるからで、何事の筆者は度が過ぎるほどの熱心にはなれない。収集家は最初の間が楽しい。たくさん手元に集り始めると、それをどこに保管するかといった悩みの方が大きくなるし、また1000点が2000点になってもさほど感激はない。慣れてしまうのだ。一昨日書いたように、筆者は弘法さん、天神さんで伏見人形を見つけることが楽しみで一時通った。その頃が一番楽しかったことも書いた。ネット・オークションでもっと多くの、そしてもっと安価で買えるようになったのは便利だが、その分感動は少なくなった。
これも一昨日書いたことを繰り返すかもしれないが、Mさんが三条寺町の店をたたんだのは、商売がうまく行かなくなったからで、それは伏見人形を初め、京都ならではの郷土玩具を求める人が少なくなったからだ。ネット時代の到来によって店を閉めざるを得なくなったと見るのが正しいだろう。ネット時代の到来は、郷土玩具の終焉と重なる。つまり、郷土色というものがなくなった。Mさんは「その土地へ行かねば買えないものを売る。また、そういうものを作る」というモットーを持って店を開いた。だが、もうそれは時代遅れの考えであった。あるいは宣伝不足もある。丹嘉ですら、ホームページを持ってネットで予約を受けつける。これは京都に足を運ばずとも買えることを意味し、その分ありがたみが減るだろう。便利はいいが、それは味気ないことでもある。そして人は何事においてもその味気というものを求める。簡単に手に入るものは珍しくなく、ありがたくない。チベットの少女がボールペンを宝物のように大事にしたのは、それがどこでどうやって作られるものかわからないもので、また自分の境遇にはとても貴重であったからだ。簡単に入手出来るものであれば、勉強の意欲は減退したのではないか。Mさんはネットで全国どこからでも、またいつでも買えるようになった時代を郷土玩具の終焉と見ている。国鉄がJRに変わってからはますます日本全国、どの駅も駅前も同じようになった。地方独特の持ち味はイメージの中にあるだけで、実際の品物には地方性は希薄になっている。そう思えば、伏見人形が江戸時代のままの形を繰り返し製造していることは正解だろう。現代に見合った形の玩具はほかの業者に任せておけばよい。そういう業者はいくらでもある。結局伏見人形を愛好する者は、Mさんが言うように数寄者で、またそれを商うのは「極道」ということになる。Mさんは三条寺町の店にかけていた木製の看板を今は自宅の玄関脇に取りつけている。その看板は板を彫って文字を着色したもので、それなりに高くついたろう。看板など目立てばいいという思いがMさんにはなかった。それで納得の行くものを誂えた。Mさんに言わせれば、それは昔の商売人はみなそうであった。看板を立派にしたから売れることが確実とは限らない。ならば、看板など安くて済む方がいいではないかと考える人がある。Mさんはそういう考えがいやなのだ。それで自分のような者を「極道」みたいと言う。その意味は筆者にはわかる。こだわりなのだ。ただただ金がほしいというのではない。ある商品が売れなくなればさっさと商売替えをする人があるが、Mさんはそんな考えで伏見人形を売り始めたのではない。京都ならではの、ちょっとした珍しい土産になるものを売りたかったのだ。
そういう態度をせせら笑う商人はたくさんいるだろう。Mさんは根っからの商売人ではなく、とにかく昔から好きな物を好きなように売りたいのだ。一昨日書いたが、小指の先ほどの木製の獅子頭を、その作り主から100円程度で譲ってもらったことを話すMさんは、職人の心意気を知っていて、それに見合う売り手でありたいと思って来たのだ。それはただの金儲けではなく、心の通い合いを求める思いだ。であるから、顔が見えずに商品が売買されるネット販売を味気ないと考える。数年前に大阪の千里に住む郷土玩具のコレクターから伏見人形ばかりをたくさん譲ってもらったことを書いた。その人は出来て間もない名神高速道路を使って青森から九州まで全国の郷土玩具の作り手のもとを訪れ、直接買い集めた。それは仕事以外の、壮年の頃の生き甲斐であったのだろう。そのようにして大量に集めた玩具を結局手放す時が来る。筆者は知り合いから声をかけてもらってその頒布会に参加したが、買った当時の価格での販売で、全部売れても4,50万に届かなかったのではあるまいか。それでも好きな人の手にわたったので、その人は満足であったに違いない。Mさんの店にはたまに客が訪れるらしいが、そういう人はみな伏見人形をわかっている。つまり、愛好家に買われて行く。そういう客を相手にするMさんも幸福ではないか。Mさんのような伏見人形および京都の郷土玩具販売人はこれからはもう出ないだろう。なぜなら、丹嘉はMさんなどに売ってもらわずとも、独自でネット販売している。Mさんは最後の、新品の伏見人形を扱う商人だ。そうそう、Mさんはオリジナルの玩具も製造販売した。土鈴だ。京野菜シリーズや京名所シリーズで、どれも60個ほどの生産だ。それほどしか売れないと思ったからだ。手元に若干残っている物があって、適当に選んでもらった。今日の最後の写真がそれで、精緻な作りで、職人のこだわりが見える。Mさんの依頼を面白がって引き受ける人がいたのだ。奥のふたつは嵯峨面を題材にしたもので、手前左は宇治万福寺に因んだもの、右端は伏見の酒蔵、中央は落柿舎だ。ほかに竜安寺の有名は「我唯足知」の蹲もあった。どれもそこそこ知識のある人でなければわからないもので、そこにMさんの「数寄者」ないし「極道」の思いがある。京都に来てもらった人に、京都で作られた、京都に因む「郷土玩具」を売りたい。そういうMさんの思いは今では通用しなくなったのかもしれない。Mさんは「飾り馬」はあまり扱わなかったらしいが、ひょっとすれば置いているかもしれない店を教えてもらったが、そこにもなかった。