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●○は○か、その4
敏な感覚は磨くほどに強まる。とはいえ、それを他者がどう判断出来るか。昔のTV番組に、青森のリンゴ栽培の農家のおばあさんが出演し、リンゴを手に持った瞬間に何グラムかを言い当てるものがあった。1グラムと違わない。



●○は○か、その4_d0053294_0463334.jpg長年リンゴを重さで仕分けして来たので、手に持っただけで正確な重量さがわかる。同じような話に、寿司職人が握る米粒の数が同じであることを紹介する番組もあった。米の品種が変わると粒の大きさも変わるから、米粒の数というより、握った瞬間、同じ重さかどうかわかるのだろう。そのように、経験を長年積み重ねると、そうではない人にはない能力を獲得することが出来る。それは気の長い話だ。今の時代にはそぐわない。そんなことは機械にやらせればよい。大量のリンゴを重さで分ける時や回転寿司店では、そんな数少ない熟練者を雇うわけには行かない。熟練者といえども人間で、疲れもするし文句も言う。黙って24時間働いてくれる機械の方が安上がりだ。そこで熟練者の技能を機械に移すことが考えられるようになった。最近ブログに書いたが、トヨタの工員が世界の技能競技会に参加する番組がNHKであった。その前半では、参加する若者が先輩からアドヴァイスを受けていて、昔の手仕事の熟練さを今は機械に教え込むようになっていることが紹介された。熟練工は自分の手ではなく、コンピュータ制御の旋盤に作らせる。その機械は昔の手仕事時代の道具とみなせるだろうか。そうではないように思うが、結果的に昔の熟練工が作ったような精巧な製品が大量生産出来るようになったためにトヨタの繁栄がある。そう考えると、素朴な道具から旋盤、そしてそれがコンピュータを伴った高度な機械といったように時代が進んで来たのは、道具が精巧になって来たことであって、時代遅れながら、人間の緻密な手仕事の部分はまだ残されていると考えるべきかもしれない。「かもしれない」と書くのは、先の国際技術競技会に参加した若者が、昔の道具を使って昔の人が出来たのと同じ仕事が出来るかとなれば、それは怪しいと思うからだ。たぶん無理だろう。その技術を獲得するには、昔の人がそうであったように、5年、10年、さらに長い年月を要する。であるから、大企業は大量生産のために機械化を推し進め、昔の熟練工の技術を機械に移そうとする。「かもしれない」のは、車といった大量生産品ではなく、数個か数十個あれば充分な物の世界においての話だ。大量生産の必要がない物作り、そんな世界は今後も存在し続けるが、ほとんど誰も知らないところでひっそり作業が続く。
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 筆者は手仕事を生業としているから、仕事の機械化にはどことなく拒否感がある。そういう筆者も、今はめったに手描きの手紙やはがきを書かない。パソコンで文章を打つ。パソコンがない時代は手で長文を書いていたので、いつでもそう出来る自信はあるが、手書きとパソコンとでは何がどう違うかと言えば、根本的な文章の内容や質は変わりがないので、違いはないと言えそうだ。手で書くと、筆跡から気分が漂うが、それは文章の内容にも現われているはずで、手書き文字の特徴から、その文章が筆者とわかる人にはわかるといった程度のことだ。小説家の手書き原稿が高値で取り引きされるが、そこにはまだ個性ある筆跡にアウラを認める人たちがいることを意味している。手書きの文章のよさと言えばいいのかどうか、手書きであれば記す紙があるから、その量でどれほど書いたかが視覚的にわかる。このブログで今までに筆者はおそらく原稿用紙に換算して2万から3枚枚は書いて来たが、その嵩を眼前に見ることが出来ず、あまりにも軽い。パソコンに載せる文章は、軽いというより重さがない。そして、瞬時に消すことが出来る。それは欠点ではなく、利点と捉えることも出来るので、手書きかパソコンのどちらがいいかは人によりけりだ。筆者の職業である手仕事は、機械に移すことは出来る。ただし、それには大量生産が条件になるし、またキモノは着用者によって柄のつけ方が変わるから、洋服のようにL,M,Sサイズといった大まかな分け方は出来ない。それを無視してある柄のキモノをシルクスクリーンで量産するのは、痩せた人も太った人も背の高い人も低い人もみな同じものを着せるという無茶をしている。それを無茶と思わないのは、着用者やその母親にキモノを見る目がないからだ。友禅のキモノは誂えの洋服と同じで、その人にぴたりと合った寸法と柄つけがなされるべきで、そうなれば機械化に馴染まない。また、機械に染めさせるより、手仕事の方が断然早い。ただし、1点を作る時間だ。手仕事は小回りが利く。そういう分野は今後も手仕事が残り続ける。先の国際技術コンテストに参加した若者は、出された課題をプリグラミングするのに上がってしまい、手仕事ならが絶対に冒さないミスを仕出かした。機械は命令されたとおりに動く。その命令を誤れば、ボタンを押しただけでさっと仕事が進んでしまい、望みとは違う品物が出来上がって来る。手仕事ではそんなことはほとんどあり得ない。
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 これもNHKのTV番組だが、先日球体をどこまで精確に作られるかどうかの実験を紹介していた。ひとりはレンズ磨きの職人で、中学校を卒業して以来、20年ほど仕事を続けている。もうひとりはベアリングの製作工場の職人で、機械で金属の玉を磨く。これは手仕事対機械の競争と言ってもよい。2週間ほどの間に直径10センチほどの球体を1個作る。それを葉場10センチ、長さ20メートルほどの完全に水平に保たれた台の上を端から転がせる。精密であるほどに落下せずに遠くまで真っ直ぐ転がって行く。手仕事の方は10メートルほど、機械はその倍近かった。球の材質の差もあるが、完全な球体を作るには手の熟練よりも機械を使った方がいいようだ。レンズ職人が何となく憐れになったが、片やベアリング製造業は大量生産品であり、また同業者の追随を許さないという非情な覚悟もある。それが勝敗の決め手になったであろう。レンズ職人が磨く特殊なレンズは、特注物ばかりであるはずで、一般人が使うことには縁がない。だが、その技術も必要だ。そのレンズがベアリングのように大量生産せねばならない需要があるようになれば、その熟練工の技術を機械に覚えさせるようになる。こうなれば、手仕事はひっそり、機械化は華々しい表舞台といった形容が出来そうで、今時の若者で手仕事の分野に進むことは稀で、またそれで充分人材は確保出来ると言える。完璧と言ってよい手仕事の熟練は画家にも要求された時代があったが、今はその部分は職人のものとみなされ、芸術は手よりも頭で行なうものとなった。この場合の頭は閃きで、つまりはアイデアだ。哲学といったおおげさなものは必要ない。手はますます出番がなくなって来ている。それで筆者はよけいに手で作ったものに目が行くのかもしれないが、ようやく今日の写真の話だ。商店街の交差点などに方位を示す円形の埋め込み盤がよくある。誰しも気づいているようで、案外目に留めない。それはすべて誂えで、手仕事の作品だ。デザインする人が別にいて、それ専門に作る業者があるのだろうが、そういう仕事をどう呼ぶのか知らない。需要はめったにないのではないか。あるいは日本に2,3の業者しかなく、それで日本中の需要を賄うのに充分かもしれない。
●○は○か、その4_d0053294_0473946.jpg

 今日最初の写真は8月17日に姫路の商店街で撮った。写真の天にNとあるので方位盤だが、中央の鉄蓋はマンホールを代用している。ただのマンホールでは無粋なので、色タイルを使って方位盤にした。このマンホールはサギソウが白鷺代わりに飛翔してデザイン的になかなかよい。またこの方位盤と似合っている。この程度の方位盤ならさほど費用もかかっていないようだが、方位盤の周囲は煉瓦状の石を円形に並べ、方位盤の外側も凝っている。また、Nの文字の下には姫路城を描いたタイルを埋め込んであって、観光客が迷わないようにしてある。この写真を撮っている間、家内は先へとどんどん歩いて行った。興味のないものは誰しも見ない。筆者もそうだ。だが、このブログに載せるネタになるかと思えば、しばし立ち止まる。そのようにして撮った写真はそれなりに記憶になる。姫路に行ってもさして何も覚えていないというより、こういう地面の方位盤を思い出すのは無駄ではあっても楽しい。2枚目は9月の8日だったと思う。大阪の堂島地下センターで撮った。この商店街は天使の絵をテーマにしていて、あちこちにそれがある。写真は天地が逆さに見えるがそうではない。足元ではなく、天井を撮った。そこに写真のような凝った装飾がある。教会の薔薇窓を天井に持って来た。これは足元以上に目につかないのではないか。照明であれば話は別だが、これは自分では明るくならない。この地下の通りは天井が低く、案外見ている人は見ているか。3枚目は9月10日に伏見の龍馬通りに続く納屋町商店街で撮った。この商店街は薄暗くて人通りは少ない。マンホールの蓋っぽく見えるが、もっと大きい。本格的な作りで、金属で縁取りしている。細部が立ち止まって凝視しなければわからないのが多少残念だが、方位盤としての情報はかなり多く、「○は○」ということで、商店街の人たちの意気込みが伝わる。こういうものがあるかどうかで、商店街の貫禄がわかる4枚目は9月15日、阪急の王子公園駅西口で撮った。改札を出たところだったか、内部であったか忘れた。素朴な作りで方位盤になっていないだろう。だが、こういうものを嵌め込んでわずかでも美しくしようという思いがよい。筆者がこうして紹介するからには、よけいな出費であっても、その効果はそれなりにある。これはタイル工事会社の作業員が、他のタイルを敷き詰めるついでに、手間がかかるなと思いながら手作りしたものだろう。こういったものは、○の精密さがさほど要求されない分、気楽に見られる。鋭さが過ぎると発狂する。感覚の鈍さは幸福感につながっている。その逆も言える。
by uuuzen | 2013-10-30 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
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