誇りとするものに歴史の長さがある。日本では時代劇と言えば、平安時代以降を扱うのが普通で、脚本家は奈良時代は面白い出来事が何もなかったと思っているのかもしれない。また、平安時代を取り上げるドラマや映画も少なく、たいていは安土桃山から江戸時代にかけてを扱う。
韓国はその点、時代劇で扱う歴史ははるかに長い。今日取り上げるTVドラマは新羅初の女王を主人公にしたもので、7世紀の物語だ。これは日本ではドラマ化が考えられないほど古いが、韓国では珍しくないどころか、半分ほどはその頃を扱うのではないか。時代考証がはなはだ疑問の箇所は多々ある。だが、視聴者に「それはないだろう」と思わせることもまたひとつの見所になる。時代劇に時代考証は必要だが、程度の問題だ。しょせん娯楽作品であって、楽しければよい。しかもTVドラマとなると、多くの人に見てもらわねばならない。本作は視聴率が40パーセントを越え、それは制作された2009年度中では最大であった。つまり、国民的ドラマであった。日本ではめったにそのような視聴率を稼ぐドラマはない。韓国の人たちはドラマ好きと見える。で、同地で大ヒットしたドラマが日本でも同じように歓迎されるかとなるとそうは行かない。国民性の違いがある。とはいえ、おおよそ向こうで人気のあったものは日本でも視聴率を稼ぐのではないか。それは、韓国がドラマを輸出出来るように作っているからでもあるだろう。その一方でやはり一番の目的は韓国での人気だ。そのため、国民が喜ぶ脚本が選ばれる。そして時代劇もふんだんに製作されるが、三国時代であれば、「統一」という考えが大なり小なり使われる。本作もその例に漏れない。これは時代は違っても、現代の南北に分かれる民族の不幸な状態を思ってのことだ。現代の韓国の理想は「南北統一」で、それが種々の理由ですぐには無理であるから、せめて昔の国土が三つに分かれていた頃に思いを馳せ、先人がどう国土を統一しようとしたかをドラマで描く。統一問題までも娯楽の道具とされるかという見方もあろう。だが、休戦状態にある南北間の緊張を忘れないために、また一時でも忘れるためには、「統一」への望みを描き込んだドラマは必要だ。この点は日本では考えられないので、違和感があると言えばあるが、それが異文化を楽しむ手立てにもなる。それに、日本ではあり得ない古い時代を描いた時代劇は、ちょんまげ物にはない面白さがある。それも異文化に接する楽しみだが、朝鮮半島は大陸に接し、その分ローマに近いこともあって、ドラマの異文化性は日本にはない雄大さがある。ちょんまげ物はどこまで行っても狭い日本国内の話で、異民族がどうのといった脚本になりようがない。そこは島国のちっぽけさと言おうか、平和さと言おうか、その淡白な味わいが、さまざまな国際競争の中で強みとなり得るのかどうか心配になる。これは逆に見れば、韓国ドラマは憎悪にしてもあまりに極端で、日本人の感性からは遠いという見方が出来る。だが、「日本の常識は世界の非常識」という言葉があるように、日本の方がかなり異質であるのに、それを自覚していないと思う立場も必要ではないか。
それはともかく、時代劇を作るにしても、1000年以上前を平気で扱う韓国は、やはり逞しさがある。歴史の長さを同国民は誇っているだろう。とはいえ、本作の題名になっている「善徳女王」が実在したとしても、わかっていることはとても少ないはずで、そのわずかな史実を元に62話の長編ドラマを作り上げることは、全くの創作と言ってよく、仕上がりとその人気度は脚本家の腕前にそうとう左右する。そして、時代劇ではあっても、それは昔の衣装や建物を使いながら、現代に置き換えが可能なドラマとなる。そうなるしかあり得ないし、またそうであるから現代人が喜んで見る。「昔も今も変わらないな」ということを再確認し、今生きていることにありがたみを覚える。そうなればドラマの製作者も冥利に尽きる。「1000年前の実際はこうでした」ということを描くのが目的ならば、それはドキュメンタリーになる。ドラマはそうではない。1000年前にあったかもしれない出来事を表わしながら、避け得ない現代性を積極的に盛る。したがって、多少の時代考証のおかしさがあってもかまわない。時代考証は誰にもわからない部分が多く、どう描いても反論する人がいる。それに、たとえば江戸時代を描きながら、音楽は管弦楽曲である場合がとても多く、それに違和感を覚えないのは、江戸時代のことであると知りながらも現代の俳優や監督の手による「作り物」であることを知っているからだ。そのため、荒唐無稽の事柄が多々ある韓国の時代劇も、それを安っぽさと見るのではなく、それゆえの面白さを大目に見るのがよい。本作でも時代考証の不徹底さはあるが、あまりに強引にそのことがドラマの見所として使われると、かえって印象に強く、効果的と思えて来るから不思議だ。たとえば、善徳女王の敵役となる側室のミシルだが、彼女は巫女でもあって、色つきのワイン・グラスを打楽器として用いる場面がある。そこで奏でる音楽は彼女のライト・モチーフとなって、そのわずかなメロディが流れるだけで、彼女の登場や思惑が暗示される。これはなかなか秀逸な手法と言うべきで、またミシルの存在の大きさを示すにも充分だ。
本作は最初50話であったのが、人気の高さによって12話が追加された。そのためだろうか、最後の10話程度は少し間延びする。そして、本来の物語がどこへ着地するのか、さっぱり予想がつかないように話が進んで行く。それはそれでいつもの韓国ドラマにありがちの、最初数話で最終回がわかってしまう予定調和を見事に破壊し、一種はらはらさせながら最後まで見せる迫力がある。また、最初はミシルが主役のドラマと言ってよく、その後善徳女王となる子役のトンマンが成長して城に入って女王の姿になるにおよんで、ようやくミシル対善徳の構図が出来る。それまでの子役時代はかなりコミカルで、筆者は面白く見た。トンマンが大きくなる世界がタクマラカン砂漠に近いシルクロード沿いの地域で、そのことが異国情緒をもたらしてドラマの壮大さに役立っている。トンマンか活発な子で、やがて男に扮して新羅に入って花郎となる。韓国の時代劇では女性兵士が必ずといってよいほど登場し、その中でも本作はかなり強引な部類に入る。トンマンが新羅に入ってからは善徳女王役のイ・ヨウォンが演じるが、男どもに女であることを長い間悟られないはずがなく、描き方にはかなり無理がある。そしてそう思われることが頂点に達するであろうという時にトンマンが女性であることがわかるので、韓国ドラマはいつも視聴者の白け具合をぎりぎりのところまで引っ張りながら、ひょいとうまくかわす。イ・ヨウォンの善徳役はふさわしいだろう。善徳には双子の妹で、巫女の考えによれば双子は国の存続にとっては不吉とされ、ひとりは殺さる運命にあった。だが、王と妃はそれが忍びなく、仕方なくトンマンを侍女に預けて外国で暮らさせる。それをミシルが察知し、追手をやって殺そうとするが、トンマンは生き延びる。トンマン時代までが第1部、善徳時代が第2部と大きく分けてよいが、善徳時代をさらにふたつに分けるのがよい。それはミシルの死を境にする。ミシルを演じるのはコ・ヒョンジョンというベテランで、彼女はイ・ヨウォンの大先輩格だ。このドラマはそのふたりの戦いであって、どちらが主役か甲乙つけ難い。ところが、最後までふたりは対峙し合うのかと思いきや、ミシルはすっと死んでしまう。それがかなり意外であった。最大のライヴァルが亡くなると、もうドラマの描き方がないようなものだ。ミシルの死で本作は終わる予定ではなかったか。
ミシルがいなくなると今度はピダムという男性が存在感を一気に増す。彼は本作を独特な味わいにするのに大きく貢献している。見方によれば彼が主人公であると言ってもよい。だが、ピダムは不気味な男で、何を考えているのかわからないところがある。それもそのはずで、ピダムはミシルが生んだ子だ。ところがミシルは子育てを放棄し、他人に育てさせた。ピダムを育てた男性は、子どもの頃のピダムが普通は考えない残酷なことを口にすることに戦慄を覚える。簡単に言えば、「将来いったいどのような大人になりやら心配だ」で、実際ピダムはそのままに大人になり、目立った存在になって行く。冷徹で凶暴で、しかも愛に飢えているといった性格だ。ミシルがそのような女であったので、母親から捨てられたピダムがもっと複雑な性質になるのは当然だろう。だが、ピダムは最初ミシルよりも善徳側につき、武勲を立てる。そして善徳からは友人とみなされ、ため口を許される唯一の存在にまでなる。このピダムの登場が頻繁になるにつれて、ピダムが善徳に密かに思いを寄せるように物語は進む。本作は恋愛を主題にしたドラマとしては始まらない。ミシルが愛する男は登場せず、あくまでもミシルの権力把握への動きが中心となる。一方の善徳は、兵士時代に女であることを最初に見破った花郎の首長キム・ユシンとほのかな恋愛関係になるが、やがてユシンは別の女と結婚する。それはユシンが伽耶の出身で、政略結婚をせねばならなかったからだ。ユシンと善徳が結ばれるものと思っていたのに、そうはならず、そしてピダムが善徳に思いを寄せるように話が進むところは、三角関係でもかなり不気味で、サスペンス・ドラマの趣を呈して来る。それはピダムの役柄のせいで、彼はユシンのようにひたすら善徳を陰で支えればいいものを、いろいろと吹き込む連中に惑わされ、善徳の言葉を完全に信じず、疑いを挟む。そこがピダムの限界で、純粋な恋愛をする器ではなかったと見るべきだ。結局ピダムはつまらぬことで命を落とす。ただし、その死に際は鬼気迫るものがあり、善徳の前で無念の思いを吐く。一方、善徳はピダムのことをどう思っていたかだ。そこがなかなか微妙で、トンマン時代のようには善徳は陽気な表情を一切見せず、ましてや男に愛をささやくことはない。ユシン相手にはそのような素振りもあったが、ピダムにはさほではなかった。全話を覚えていないので間違っているかもしれないが、善徳が思いを寄せたのはユシンひとりであったと思う。だが、ピダムが目の前でユシンに殺され、その直後に涙を流しながら善徳も息絶える。となると、善徳とピダムの悲恋が第2部後半の主題であったことになる。
ミシルと善徳が対立しながら、ともに新羅の国の未来を思っていたことは重要だ。その点はピダムも同じで、同じように国のことを思いながら対立することを韓国ドラマの時代劇はよく描く。これは現代で言えば、同じ国の中の異なる政党を思えばよい。善徳は初めて女王になったから、男としての役割を自覚する必要があったろう。そのためには、国を強化してくれる男と一緒になるか、それが無理ならば恋愛を拒否する立場を採る。善徳はその双方の思いで揺れたと見てよい。話が前後するが、トンマンの姉チョンミョンは王宮で育てられ、トンマンの存在を長年知らないままだ。トンマンが宮殿に出入りするようになった時、トンマンが赤ん坊の時に王から持たされた刀剣を見て、トンマンが妹であることを知る。だが、策略に遭って殺され、トンマンが変わって王になるきっかけを用意する。チョンミョンはパク・イェジンが演じる。彼女の演技を最初に見たのは『バリでの出来事』で、その頃はふっくらした顔で、また水着姿のサービスはとても印象的でよかった。それが頬を整形で削り過ぎたのか、本作ではがりがりに痩せて見え、かつての魅力はすっかり失われた。それがとても惜しい。また本作は製作費が250億ウォンというから、映画並みの豪華なセットや衣装を用意することが出来た。それも視聴率が高かった要因であろう。そして、登場人物が多く、印象に強い演技をした俳優も多かったが、凄惨な物語になりがちなところを、子どものトンマンと労苦を供にした詐欺師のチュクパンのコミカルさは、ひとつの清涼剤となっていた。このチュクパンはお調子者だが憎めない男で、善徳も信頼を置き、同じように花郎になり、また女王時代には大臣級に上り詰める。またチュクパンにくっついて行動する太った男がいて、このふたりは韓国ドラマには必ずといってよいほど登場する「ほっとさせるコミカルな脇役」で、完全なシリアスなドラマは韓国にはないのではないか。登場人物の多さは物語を複雑にする。そのため、上記は本作のほんの触りであって、見どころは各人が別に見出すであろう。そうそう、第1部は巫女の場面が多く、当時の政治が巫女の考えに左右されていたことを示す。巫女は天体の動きをよく知っていて、ミシルが権力を保ったのは、中国から最新の暦を入手してそれを利用して日食などの異変を予告したからだ。本作のタイトル・バックは、夜空に細かい星が集まって、たとえば慶州にある韓国最初の天文台が形づくられる。その天文台は善徳時代に出来たものとされる。そのように、善徳についてわかっているエピソードはうまく散りばめられている。筆者は吹き替えで、しかもカットが多いはずの放送で見たが、ミシルやピダムの毒気がそうとうきつく、二度見たいとは思わせない作品であった。それは韓国の視聴率の大きさからすれば見所を誤っているためかもしれない。