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●『カルメン故郷に帰る』
煙好きの木下恵介かもしれない。先日このカテゴリーで同監督の『永遠の人』を取り上げた。そこでは阿蘇山の麓の村が舞台になった。その映画より10年前、昭和26年(1951)に噴煙を上げ続ける浅間山を仰ぐ村を舞台にしたのが今日取り上げる作品だ。



京都文化博物館の映像シアターでは8,9月が高峰秀子特集が組まれ、その最後のプログラムが本作であった。筆者が見たのは去年右京図書館から借りたDVDによる。それを今頃になって感想を書くのは、昨日社会主義の東ドイツの映画を取り上げ、そこではストリップがあったのかと考えたこと以外に、あまり理由があってのことではない。東ドイツにもストリップがあったとすれば、どんな境遇の女性が演じたのだろう。美人で身体つきが素晴らしく、踊りもうまい女性が推薦されたとして、まさかそれを拒否することが許されなかったことはあるまい。そうなると、少し頭の弱い、それでいて裸身がよいといった女性が自薦したか。それはともかく、昨日の昼、NHKのクイズ番組で、日本初のカラー映画である本作を撮った監督は誰かという問題が出た。中年女性は四択を選び、そしてそのうちの黒澤明と答えた。木下恵介は黒澤ほどに今は名前が知られないようだ。確か昭和30年代から40年代、「木下恵介劇場」というTV番組があった。筆者はそれで同監督の名を覚えたが、どことなく「文部省選定」がふさわしい物語を撮るという思いを抱いた。その思いは今も変わらないが、そのことが悪いと言いたいでのはない。一方、黒澤のイメージは「迫力ある芸術」だ。監督もいろんな個性があって住み分けることが出来る。筆者にとって木下監督に似た印象を抱く現存の日本の映画監督は山田洋次だ。木下ほどに「文部省選定」的ではないが、それでも黒澤とは全然違い、人間の優しさを描こうとする。その山田監督へのインタヴューが先日ネットに載った。彼の代表作となっている『男はつらいよ』が今若者にそれなりに鑑賞されていることに対し、それは渥美清演じる「寅さん」が風来坊で、管理されていない生き方をしていて、今の若者はそれに憧れがあるのではないかと理由を語っていた。「寅さん」がどこにも所属せずにひとりで生きていることはそれだけ自由の度合いが大きい。だが、寅さんの仕事は香具師であり、収入は不安定で、世間的にはあまり誉められはしない。ざっくばらんに言えばヤクザな仕事だ。山田がそういう人物を主人公にして長年「寅さん」シリーズを撮り続けたことは、山田が自身の仕事を「寅さん」と似たようなものと思っていたからかもしれない。映画監督は今では文化勲章をもらうこともあるほどの「芸術家」だ。国の代表する文化人になり得る職業で、それは名のない香具師とは天地の差がある。だが、山田にはそうは思わない人間への優しい眼差しがあるのではないか。でなければ、「寅さん」を描いても嘘が滲む。そう言えば、渥美清を初め、俳優もまた香具師と同じヤクザな商売だ。言葉が悪ければ「極道」と言い代えてもよい。仕事が好きで好きで、工夫を日々重ね、自分だけの何かを見つけようとしている存在はみな「極道」だ。その「極道」の点では山田監督は「寅さん」と同列で、同監督が文化勲章をもらうのであれば、彼の映画に出演した俳優たち、そして彼らが演じた元の職業に携わる人たちもみな勲章をもらう価値がある。そのような謙虚な見方を山田は忘れていないのではないか。そこまで人間を信頼し、温かさを抱かねば、血の通った映画は作れない。
 京都文化博物館の映像シアターでは本作のカラー版とモノクロ版が上映された。後者があるのは知らなかった。色がカラーか白黒の違いで、カメラの角度など、映像が同じかどうか、これは見比べねばわからない。会場でもらった解説書きによれば、本作に用いたカラー・フィルムはASAが6で、照明はモノクロの倍以上、レフも特注の大型を使用したらしい。製作日数はのべ10か月以上、ロケに3か月を費やし、「これはモノクロ版の撮影、アフレコが同時に行なわれたことも影響している」とのことだ。ASAが6というのは、デジカメを使う世代には意味がわからないだろう。フィルム・カメラでは、カラー・フィルムを買う時、そのASAの数値を確認し、それをカメ側でセットする必要のある場合もあった。そして、通常はASA100を使い、そのうちに感度が格段によい400も同じような価格で売られた。ASAの数値が高くなると光源が少なくても明るく写るが、逆に粒子が荒くなった。ついでに本作のモノクロ版の解説部分から引用すると、「なかなか思い通りの色が出なかった。特に赤に対する感度が狭く、肌色を出すために、ドーランのブレンドを変え、絞りを変えカラーテストは執拗に行なわれた。……そんな中、松竹はモノクロ版の同時製作を決める。カラーフィルムでキャメラを回した後、そのままモノクロフィルムでも再撮影し別途アフレコを行なった。……木下監督は後にカラー版が下書きでモノクロ版が清書のようなものと述べている」などとある。つまりカラーで撮った直後にモノクロで撮ったので、両者は色違いだけではない別ヴァージョンとなっている。カラー版は確かに赤がよく目立ち、またそれが東京から故郷にやって来たふたりのストリッパーにぴったりで、青い空や緑の平原とともに違和感はないどころか、この映画を忘れ難いものにしている。モノクロならば、彼女たちの派手な洋服と田舎の人たちの地味な身なりの対照がわからず、本作をもっと古い時代の作品に感じさせるのではないだろうか。
 本作は音楽が重要な要素になっている。映画の始まりのタイトル・バックに昔の唱歌と讃美歌を足して二で割ったような荘厳で悲しげな歌「そばの花咲く」が流れる。この曲はその後5,6回演奏される。最初と最後は盲目の男性が校庭の真ん中でオルガンを奏でながら歌い、それに合わせて周囲を取り巻く児童たちがダンスを踊る。この曲はどこか「うさぎ追いし…」の「故郷」を思わせるが、その曲も演奏される。そうした小学校の場面は当然たくさんの子どもたちの登場を必要とし、そこが「文部省選定」にふさわしい、つまり子どもが安心して見られる映画と思われる点でもあるが、本作はストリッパーを主役に据え、しかも彼女らが草原で肌も露わに踊ったり、また児童がたくさん集まる校庭で同じような恰好になる場面もある。若い女が裸を見せて金も得るということなど、子どもたちに見せるわけには行かない恥ずべき仕事で、彼女たちが故郷に帰って来たことは村の恥だと眉をしかめる人たちもいる。つまり、本作はかなりきわどい設定を仕組んでいて、子どもたちに女の裸がどういう意味を持っているのかを知らせる必要があるのかという非難が昭和26年当時にはあったのではないかと、筆者は考えてしまう。そういうことについて書かれた何かがあるのかどうかは知らないが、木下監督はとても勇気があったと言ってよく、またストリッパー役を引き受けた高峰秀子もそうとうな役者根性を持っていた。草原でふたりで踊る場面では、一瞬だが、でんぐり返りをふたりがして、高峰の白いパンツの股間が見える。あるいは踊りながら胡坐をかく場面もあって、いわゆる「パンちら」の場面が多い。それは当時としてはかなりのサービスであったはずだが、青空の下での踊りであり、とても健康的で、まるでルネッサンス時代の美の女神を見るように美しく撮影されている。それなりに振りのある踊りで、ふたりの女性の動きはぴたりと合っているから、おそらく本物のストリッパーに学んだのではないだろうか。高峰は当時27歳で、太腿を見せるにはまだまだ若かった。ストリップは今も健在だが、すでに70年代半ばにおいて、それはこの映画の頃のものとはかなり様変わりしていた。昔設計会社に勤務していた頃、京都市役所に打ち合わせによく通った。担当相手は京大卒の筆者より10歳ほど年長で、ストリップ鑑賞が趣味でよくその話を聞いた。その人によれば、「最近のストリップは観客を舞台に上げて本番をさせるからね。以前とはかなり変わってしまったよ」で、踊りを売りにせずに、則裸を見せ、しかも性交させることを売りにしなければ金にならない時代が来ていた。それがさらに進んで、今では毎年万人単位の若いAV女優が生まれている。もちろん本番があたりまえで、女の性の価値が著しく安くなって来た。
 現在から見れば、この映画のどこがストリップであるのかわからない人が多いだろう。最後にちらりと素っ裸を見せるとはいえ、それに至るまでに踊りを見せ、しかもそれに自分だけの芸を磨くというのが本作当時のストリッパーの姿で、そのいわゆる「芸」の部分を携えていることによって、本人たちもそれなりの職業の矜持を抱くことが出来た。実際本作では、ふたりのストリッパーは自分たちを「芸術家」と思っているし、また周囲にもそう見る者がいる。香具師は手っ取り早い仕事かもしれないが、口上で人を周囲に集めるには技術を磨かねばならない。若い女ならストリッパーは同じように手っ取り早い金儲け手段かもしれないが、裸や陰部だけを人前に晒すというのとはわけが違い、男をじらし、またその気にさせる艶めかしさや美しさを踊りを含めて全身で表現せねばならず、そこには売れっ子とそうでない者との差が出る。「芸術家」もそうで、映画監督も同じだ。映画は見世物であり、その点ではストリップと変わらない。だが、映画監督は文化勲章をもらうが、名ストリッパーは日陰で伝説になるだけだ。それは仕方がないが、どちらも「文化」の担い手であり、その「文化」という言葉を小学校の校長を演じる笠智衆が何度も口にする。「浅間山の麓から東京に出て芸術家となった人物が帰って来ることは村の誇りで、これからの日本は文化である」と、まだストリッパーとなって帰って来ることを知らない彼は、ストリッパーの父親に言う。「日本の文化」には木下の最も言いたいことが表現されているのではないだろうか。ストリップも含めて文化が多様にあり、それこそが日本の独自性や誇りになるという思いだ。ストリップが文化であれば、今のアダルト・ビデオもそうだと言えるが、木下や山田監督はどう考えるか。それはさておき、ふたりは派手な姿で故郷に戻り、村で金儲けのうまい商売人の斡旋によってストリップを披露することになる。その商売人は彼女らを芸術家であると持ち上げ、興業主になって一儲けを企む。金のために手段を選ばないといった悪人を想像しがちだが、本作に悪人は出て来ない。したがってストリップも悪とはみなされない。監督は必要悪とも思っていなかったのではあるまいか。ビラがたくさん撒かれ、仮の舞台小屋が建てられてふたりのストリップが始まる。男たちが舞台の最前列に首を揃え、両足を広げた女を下から見上げる場面がある。そういう男の本能丸出しの場面は、ドリフターズが80年代のTV番組でさんざん全国に披露したので、幼ない子どもでもゲラゲラ笑うが、それが本作ですでに見られることに先駆性がある。本作を当時の子どもたちが見たのかどうか、また大人たちが見せてもかまわないと思い、「文部省選定」になったのかどうか、多くの子どもたちが出演しているからには、子どもが見てもいいように描かれている。
 眠っていることを起こす必要はないとよく言われる。性教育を子どもにしなくても、自然と知るようになるという考えだ。そのことによって低年齢で妊娠する子が出て来るので、避妊を正しく教える性教育は本作当時の比ではないほどに今は必要だろう。本作では性の問題と言うよりも、大人の社会にはストリップという仕事もあり、それはそれで芸を磨く必要があることを教える意味合いが強い。笠智衆演じる校長はストリップなど村の若い衆に悪影響を与えるだけでとんでもないと父親に言うが、父親は娘が裸を人前に晒すことを嘆きながら、東京でその仕事がやれることは、日本が認めていることであり、悪いことではないと言い返し、校長はそれに同意する。そして、ひとり100円徴収してストリップ興業が無事行なわれる。どのような仕事でも、プロと呼ばれるからには「芸」を磨く必要がある。だが、そのことは次第に忘れ去られ、いつ誰とでも交換可能な小さな部品に過ぎないような存在になって来ている。自分が会社を、あるいはアルバイト先を辞めても、すぐに後釜が埋まり、何事もなかったかのように仕事は進んで行く。そういうことを知っているだけに、今の若者が「寅さん」をうらやましいと思う。だが、「寅さん」のような生き方もそれなりに競争があり、芸を磨かねばならない。そこを忘れてはならないが、コンピュータ社会になって、そんな芸の磨きが金に結びつく場は少なくなり、みんな時間を切り売りするかのように賃金を得る。また現金がなければ生活出来ないような仕組みがすっかり強固になっている。山田監督がそのあたりをどう思っているかだが、80代半ばではもう後の世代に何もかも委ねるしかない。そして、本作のように、馬や牛が草原を走る牧歌的な風景の中で都会の洒落た衣装を着たストリッパーに瞠目するという純朴な人たちも空間もない。それでも映画は作り続けられるし、そこでは人間を描かねばならない。半世紀やそこらで人間が変わるはずがないというのは事実だが、半世紀ですっかり変わるというのも確かだ。筆者が本作を見て、やはり「文部省選定」を連想したのは、悪人が登場しないことだ。どんな人でもそれなりに事情を抱え、また存在意義があるという人生肯定的な眼差しは今でも通用しはするが、昭和26年当時でもそれは夢物語と考える人は多かったはずで、結局は映画をひとつのお伽噺のように作品、しかも強固で完璧なものにするための方便が本作から見え透く。それは監督なりの「芸」で、それを頂点に持って行くには鑑賞者を感動させねばならない。そのためには信念が欠かせず、その断定的思考が技術と相まった時に名作が生まれる。その技術の中には監督はもちろん、俳優や道具係、また音楽などすべてが含まれる。その映画の「文化」を担っている意志が監督にはあった。
 本作は音楽を黛敏郎が担当している。最初の方に高峰秀子がブルースを歌う場面がある。それは彼の作曲だ。後の彼の仕事を思えばそんな曲も書いたのかと思わせるが、そこにも職人芸とでも呼べる才能が見られる。ストリッパーが「芸術家」ならば、黛のような作曲家はもっとそうと言ってよいだろうが、それは気に食わない仕事はしないというのではなく、ある何かに合わせた曲を自在に書ける用意があるという態度を持っている点においてだ。それを単に器用なだけと言う人もあろうが、そんな人に限って何も仕事らしいことが出来ない。それはさておき、本作は音楽の使用がとても目立つ。管楽器による軍歌を初め、モーツァルトの『トルコ行進曲』、シューベルトの『未完成交響曲』、アメリカのジャズなど、大半は劇中のバンドによる演奏であるところが、本作を一種ミュージカル風にしている。タイトル・バックには紙芝居のような漫画が何枚も使われていて、「音楽つきの子どもが見ても楽しい紙芝居的映画」と形容していいかもしれない。黛がどの程度音楽の効果に意見したのか知らないが、彼の名前にふさわしい仕上がりになっている。使用される音楽で最も重要であるのは、最初と最後に歌われるオルガンの演奏による故郷を謳い上げる歌「そばの花咲く」だ。これは物語にも強く関係し、本作と切り離すことは出来ない。厳粛な感じで、同曲によって昭和20年代を紛れなく刻印している。その後、似たような雰囲気の曲をいわば主題歌にした映画が撮られたことがあるだろうか。やはり日本は半世紀で大きく変わってしまった。同曲に表現されるようなしみじみとした日本の姿というものがもはやどこにもない。同曲は本作全体を大きく特徴づけていて、故郷の自然がどんな人間をも優しく包み、いつでもその懐に抱かれるとリフレッシュ出来ると言いたいかのようだ。実際ストリッパーは村で騒動を起こしながら、男たちを喜ばせ、また自分たちも久しぶりに解放感を味わって都会に戻る。今でもそういう故郷を持つ人は多いだろうが、福島原発の事故を見れば、日本は戻るべき場所をもう持てない国になって来ているとも思える。半世紀の間にもっと幸福になったのか。山田監督は前述のインタヴューでそのことを慨嘆している。それはすっかり老人になってしまった人がいつの時代も決まってつぶやく憤懣なのかもしれないし、そうであってほしい。
by uuuzen | 2013-10-12 23:59 | ●その他の映画など
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