賢い人は年収が多い。このことを肯定する人は多いだろう。今日のニュースで日本は今までにないほど年収の格差が広がっていることを伝えてくれた。筆者はそういう話題は苦手だ。自分の年収が平均より上か下かわかったところで仕方ない。
下とわかって落ち込むのはアホらしいし、上とわかってもさらに上がたくさんいることを知っているから、やはり落ち込むかもしれない。年収と幸福度が比例するとは限らない。たくさん収入があればあったで、着る服や靴が少し高級になり、またレストランで飲むワインが希少なものになる程度で、そのことには切りがない。確か贅沢はいい気分だが、贅沢をどのことにも適用することは不可能だ。これだけは絶対に言える。どんな金持ちでも、超一級ばかりを通すことは出来ない。そう思うと、大金持ちがとても貧相に見える。みんなそう考えるべきで、収入の競争をしてもつまらない。自分が年収10億として、そのことを人通りの多い交差点で大声で自慢すれば満足が得られるか。誰も他人の年収の多さに関心はないし、年収を自慢すれば『こいつアホか』と思う。それでも、そこそこ生活に困らないほどには収入はほしい。平均以下でも、たまには少しの贅沢が出来ればと考える。その点、経済格差が広がる一方の日本ではどうなのだろう。下層が増加すると、そういった人々の不満を少なくするために政府は何らかの手を打つ。その一番有名は方法は生活保護だ。だが、これは何だか「施しをしてやる」という上から目線そのものの制度で、もらう方は卑屈になりやすいのではないか。生活保護を受けずともそれなりの生活が成り立つような税制にすればと思うが、消費税が8パーセントになることにしても、あらゆるものに均一に適用する。これでは持たざる者に不公平だ。米や野菜といった、生きるうえで不可欠なものには税金を低くするなど、もっと細分化すればいいのに、それがあたかも大きな手間であるかのように考えて、とにかく日本では消費税が導入されて以来、あらゆるものに均等に上乗せだ。そして、税率を揚げる分、一時金を支給する案が出ている。これも「施しをしてやる」の最たるもので、貧しい者の自尊心をくじくように仕組まれる。それは政治が卑しい者が司るようになって来たからだろう。官僚の天下りもその最たるものだ。年収が多くても根性が汚い。日本はいつからそんな国になったか。たぶん明治維新からだ。
一昨日だったか、脱北して韓国で暮らした人がまた北に帰るケースが増えているという記事を目にした。これを「まさか」と思う人は年収が平均以上だろう。筆者は「それは当然」と思った。北朝鮮が経済的には韓国とは比べようのないほどに貧しいことは世界中が知っている。豊さを夢見て北から逃げて来た人が韓国で暮らした結果、夢とは大違いであったと思うのは、中国残留孤児が日本へやって来た生活と似た問題かもしれない。自由はあるが、差別を行けながら金を稼ぐ苛酷なレースに巻き込まれる。そして、金がなければどういう生活が待っているかは目に見えている。そこで自由資本主義に馴染めず、元の生活の方がまだ「まし」であったと思ったりする。北朝鮮へまた帰る人たちは韓国社会では敗北者で、結局生きるエネルギーに欠け、韓国政府としてもお荷物以外ではなかったと考える人たちは、やはり平均年収より上の、いわゆる恵まれた人たちだろう。そういう人たちは自由こそが何よりもありがたく、それさえあればどんなドン底からでも這い上がれると信じている。競争に強い人で、人類が滅亡する時でも最後まで生き残る。それを動物的本能から見て好ましいと主張する人もあるだろう。だが、人間社会が弱肉強食で、弱い者は弱さを恥じるべきで、年収が極端に少ない人には「施しをしてやる」というのであるならば、動物以下ではないか。文明を発達させ、動物の頂点に立っていると自負する人間が、実際は動物より劣る「情け知らずのアホ」ばかりであることを時には思ってみるべきで、資本主義経済万歳もたまには疑ってみるのがよい。前置きはそれくらいにして、今日は1972年製作の東ドイツの映画を取り上げる。ドイツ文化センターに名前を登録しているので、毎月1,2回は催しの案内が届く、昔のようによく出かけることはなくなったが、時間のつごうがつけば出かけたいものがたまにある。今日の映画は案内メールが来た日に予約した。午前中は東ドイツのアニメが上映され、それに予約するとすでに満席。それで午後の部のこの映画を、家内と一緒に見ることにした。今月6日の日曜日、場所は室町四条上る東側にある明倫小学校を改造した京都芸術文化センターの教室、入場無料だ。ドイツ文化センターの催しは近年はあちこちでやるようになっている。荒神橋まで行くのは大変なので、その方が便利でよい場合がある。
これは余談だが書いておく。教室での上映なので人数は30名だ。筆者らは一番乗りした。すると、60代だろうか、Tシャツ姿の騒々しい女性がふたりやって来た。どうも様子からして常連らしい。近所に住んでいるのかもしれない。やがて午前の部の上映が終わり、ぞろぞろと人が出て来た。ふたりはいつの間にか筆者らの前に陣取り、真っ先に中に入り、一番よく見える最前列中央に座った。本来ならそこは筆者らが座った。家内は背が低いので大柄の女性ふたりが前に座ると画面の下半分が見えない。図々しい連中はどこにでもいるが、彼女らはよけいに醜悪に見えた。映画が始まるまでの会話のうるさいこと、下品なこと、よくぞドイツ文化センターの催しにやって来るなと思った。荒神橋の同センターのホールではそんな人はやって来ない。ま、それはいいとして、筆者らはその女性の背後の席に座った。やはり前が見えないので、家内は映写機のすぐ際、筆者の左に座ろうとした。そこにはチラシが2枚置いてあった。午前の部を見た者が忘れて行ったのか、あるいは午後の部も見るために席を確保するために置いていったのか。たぶん後者だが、午前と午後は違うプログラムであり、総入れ替えだ。予約席などない。そう思ってチラシを映写機の脇に立て、家内は座った。映画が始まって10分ほどして、ひとりの若い男がやって来た。家内はチラシを取りに来たとばかり思ってそれを取って手わたすと、その席は自分のものだと言う。みんな静かに映画を見ている。普通なら空いている席を探す。実際それはいくらでもあった。だが、その図々しい男は自分を特別だと思っているようで、最もよくスクリーンが見える席に座りたいのだ。家内はまた筆者の右に座り直した。筆者は怒りに震えた。「早い者勝ちで予約席なんかないぞ、空いている席に座れよ」とよほど言ってやろうと思ったが、暗い中で男を横から見ると、眼鏡顔で安物のシャツをズボンの中に入れ、ベルトをきつく締めている。そのダサい格好を見て「こりゃ駄目だ」と思った。それに、いつかそいつは誰かにこっぴどく注意されるに決まっている。それに、筆者が言葉を発すると、それでなくてもその男の言動で映画がぶち壊しになっているとみんなが思っているから、上映が中断するかもしれない。映画の始まる前であれば、堂々と言ってやったが、そこはぐっと我慢をした。それにしても、人の質が落ち、傍若無人が大人にも蔓延している。
さて、東ドイツの映画は初めて見た。カラー、107分で、画質はよくない。だが、いかにも70年代前半で、西欧の服装の流行が東欧にも広がっていたことがわかる。この映画が西ドイツで紹介されたのはベルリンの壁が崩壊した1990年だったと思う。名作とされたのか、あるいは東ドイツの生活を知るにはとてもよいと考えられたのか、そのどちらでもあるだろう。物語は割合単純だが、時代の推移にしたがって描写されず、何度も過去の様子が突如始まったり、また細部を描くかと思えば、大胆に年月をカットしたりで、筋を追うことに困惑することが多い。それでも主人公の30代の女性マルギットの人生が少しずつ浮彫りになって来て、社会主義国家であっても、西欧圏と全く変わらない問題があることに気づかされる。映画の最初、白黒画面で計算機センターの場面がある。そこで興味深いのは、月収が3段階に分かれていることで、その説明をマルギットは受ける。3段階はそれぞれ100マルクずつ差がある。最高が650マルクとすれば、550、450で、最高と最下位は倍も違わない。いかにも社会主義だ。だが能力に応じて収入に差をつけている。最高月収の人は今で言うプログラマーで、それには数学の知識も欠かせない。最下位の人はいわば雑用係だ。日本では最も高度な仕事をする人と、雑用とでは何倍の収入の開きがあるだろう。東ドイツでは1倍半ほどしか変わらない。これでは高度な能力を持った人がやる気をなくし、その結果国の経済は停滞し、やがて東ドイツは西に飲み込まれたのだと説明する人がいる。実際そうかもしれないが、旧東ドイツに住んでいた人は、東西統一前の方がよかったと回顧する場合がままある。先の脱北者の帰還と同じで、新体制の何でも金次第の社会に馴染めないのだ。そういう人を敗者とみなすのは、収入が多く、自由経済の恩恵を被っている人たちだ。マルギットは賢い女性で、学生時代から化学や数学に関心があり、母を亡くしてから各地を転々としてひとりで苦労するが、今は計算機センターで最上のクラスにいる。この点は資本主義社会と変わらず、女でも優秀であれば、高収入を得ることが可能だ。
マルギットは母を亡くして天涯孤独になり、親類の奨めから修道院に入る。そこで尼僧となりながら、年に13000人ほど生まれる精神薄弱児の世話をする。やがてそのことが耐えられなくなるが、院長はマルギットに半年の猶予を与えて考え直せと言う。半年後、マルギットは院長に面会するが、意志は変わらない。この場面で興味深いのには、東ドイツでは修道院が社会的弱者を受け入れていたことだ。孤児のマルギットが収まる場所はそこしかなかったと言える。そして、そういう場所にいる尼僧が別の社会的弱者の世話をする。その様子は中世さながらで、日本も江戸時代はそうであったと言える。江戸時代の尼僧は、嫁に行けなかった人がなったりした。そういう人の受け皿が宗教が担ったのだ。それは世界共通のことだ。現在の日本では、宗教はそんなことはしない。孤児や精神薄弱の人たちはそれなりの施設に入る。ともかく、院長が言う、「絶対に必要で、意義ある仕事」にマルギットは拒否を示し、自分ひとりで働いて食べて行く道を選ぶ。そこで学校の科学の先生に授業補佐を受ける場面がある。マルギットにとって最初の男となり、妊娠し、出産するが、一緒には暮らさない。そのことは詳しく描かれない。男はやりたかっただけで、たぶん妊娠も出産も知らない。マルギットは化学工場に勤務しながら子育てをする。その子育ての場面はほとんどない。いきなり部屋に10代の女の子が二段ベッドで寝る場面が出て来る。妹は二番目の男との子だ。その男は酒好きで、マルギットはそれで見限った。ひとりでも育てられるほどに仕事では優秀で、幹部クラスだ。工場に気になる男がいる。そのことを女友だちに言う。ふたりで少しずつその男性の品定めをして行く。何しろ三度目の男だ。失敗は許されない。その女心が面白い。そのことがこの映画のテーマになっている。友人の女性の生活も少し描かれる。同棲している男は始末家で、1か月の給料以上のソファを1客買ったことに小言を言う。それで女は別れてしまう。価値観を共有することの難しさを描く。その友人の女性の場面で興味深いのは、TVで英語学習の番組を欠かさず見ていることだ。1972年の東ドイツではそのように英語熱がそれなりにあったのだ。その後20年してベルリンの壁がなくなる。そのことをこの映画はあちこちで予感させる。そして、それを女が主導したことを匂わせる。そうそう、主演女優はどこかジェーン・フォンダに似ていて、それも西欧からの感化や時代を感じさせる。それを言えば、ワンピースの仮縫いに女友だちと一緒に洋装店を訪れる場面がある。踝までのロングをマルギットは突如鋏を手にして膝上30センチほどに短く切ってしまう。その大胆で解放的な行為にふさわしく、理想の男を求めて一緒になろうとする。
では、マルギットは男に飢えていたのか。そうとも読み取ることは出来る。性の問題は重要だ。まだ30代半ばなら当然で、収入は問題ないとして、時に男に寄り添いたいと思うのは自然なことだ。しかも最初、二番目の理想から遠かった男ではなく、今度こそうまく行くと確信が持てる相手だ。だが、マルギットは古い慣習で育った。自分から恋を打ち明ける勇気はない。あっても、何度もする気にはなれない。ハンカチを落として気を引くという古い手法をあえてやるほど、図々しくもなく、愚かでもない。自尊心があるのだ。だが気になる男に接近はしたい。あの手この手を考え、次第に近づいて行くが、決め手がない。そんな時、友人の女性も男を好きになりかける。早く手を打たないと自分が奪うとマルギットは急かされる。それでようやく意を決して自宅に招く。そこにはふたりの娘がいる。その前でどう男を口説くか。このことがクライマックスになっている。マルギットは予定通りに行かないことに観念し、ありのままの自分を曝け出す。そこはなかなか感動的だ。それほどにマルギットは大人になっていて、ぶりっ子をしない。その言動に娘たちも心を動かされる。その後はハッピーエンドに向かう。後味のよい作品で、コミカルでもある。これは少しほのめかす程度だが、修道院で暮らしている時、マルギットは同じほどの年齢の女性と一緒の部屋で寝ている。ふたりはどうもレスビアンのようだ。そのことは、工場に勤務している時の友人の女性との関係にも続き、ふたりがキスをする場面がある。性に飢えているというより、孤独なのだ。それは社会主義に限らない。この映画は社会主義の悪い面を告発するものではない。ありのままを描いている。あるいはむしろ社会主義のいい点を伝える。それはこんな場面だ。マルギットは同じ職場の人の勤務査定をする役割を当てられている。社会主義国家の特徴だろうか、勤務評定は点数主義で、また告発によってそれが左右する。子どもが8人もいる男性があまりに働きが悪いため、マルギットや彼女が好意を寄せている男性らの前で詰問される。会議の進行役は辛辣な意見を述べる側だが、マルギットが好きな男は擁護の立場を取り、働きが悪いのは疾患のせいかもしれず、病院で診てもらうべきと意見する。そこには好んで仕事をさぼっているわけではないと見る温かい眼差しがある。もちろん社会主義国家すべてがそうだとは言わないが、これが資本主義であれば、ただちにクビだろう。体制がどうであれ、冷たいこともあれば温かいこともある。それはそうだが、経済格差が広がる一方の日本を見ていると、温かい措置の裏側に辛辣さが張りついていて冷たさばかりが目立つ気もする。最後になったが、この映画では家庭の家具調度、服装、電車の中、日常の娯楽といったものが珍しい。それに新聞を読む場面では、北朝鮮に原爆が落とされるといった話題が交わされたり、その新聞の第1面には「ラオス」という文字が大きく印刷され、社会主義はそれ同士のつき合いがあったことがわかる。