棟方志功を連想させるような題名だが、「棟」が「宗」になっているのでかえって覚えやすい。この映画を8月30日に家内と一緒に京都文化博物館の映像シアターで見た。今年はうっかりして忘れていたが、去年同様、省エネのために同シアターは7,8月の2か月間、入場無料であった。
それをもっと早く知っていれば週に一度くらいは見に行った。気づいたのは8月下旬で、家内のつごうを訊くと30日しかない。それで今年の無料期間中では今日取り上げる1本のみ見た。感想をすぐに書くつもりでいたのに、そのことを忘れてしまった。昨日は同シアターで見た別の映画の感想を書いた。その勢いで本作についても書いておく。昨夜同様、高峰秀子特集の一作であったが、筆者は田中絹代目当てで、なるべく多く彼女の映画を見ようとしている。新藤兼人が書いた『小説 田中絹代』は隣家に置いてあるようで、深夜の今、それを探しに行くことが出来ないので、本作についてどう書かれているかわからない。新藤は同じ監督の中でも小津安二郎よりも溝口健二に断然魅せられたようで、そのことは『小説 田中絹代』にあまり小津のことを書いていないことからも想像出来る。以前このブログでも取り上げた、小津が田中を主役に起用した『風の中の牝鶏』についてもさほど説明はなかったはずで、たぶん本作も同様ではないかと思うが、題名について触れているのみかもしれない。田中は溝口の作品によってさらに飛躍し、評価を決定的なものにしたが、その前に小津が使っていたのは興味深い。女優はたくさんいるのに、よほど田中が目立ったのだろう。ちなみに、小津は1903年、田中は1909年生まれで、この年齢の開きは男女の間柄としてはちょうどよい。ただし、小津は溝口のように、田中の女としての魅力に捉えられていたかどうかはわからない。『風の中の牝鶏』を見る限り、小津は非常にサディスティックで、そういう性癖があったのかと思ってしまう。それに田中も小津から言われるがままに2階から階段を仰向けに転がり落ちることを見せるほどにマゾさがあった。いくら女優根性とはいえ、あまりに危険な演技はどうか。ましてや大女優と呼ばれていた彼女だ。今ならスタントを使うか、道具や撮影の工夫でごまかすだろう。
『風の中…』は1948年の製作で、本作はその2年後だ。昭和25年は筆者が生まれる1年前だ。『風の中…』はまだ戦争直後の雰囲気を濃厚に漂わせていたが、本作は全体にハイカラで、1960年代前半の作であっても不思議でない。筆者の生まれる前年にもうそんな洒落た空間や生活があったのかと、それが意外であったが、昭和1桁時代はそうであったはずで、戦後10年も経てば本作に描かれるような生活のゆとりは珍しくなかったのだろいう。あるいは戦争中でもそうだろう。戦争中、筆者の母は京都市内でかなり苦しい生活を強いられた。そのことを30年ほど前に、母と同じ世代の京都市生まれの女性に話すと、きょとんとしていた。彼女は戦時中、砂糖もふんだんに手に入るなど、何ら衣食住には困らなかったそうだ。つまり、戦時下の欠乏の実感がなかった。京都は空襲にほとんど遭わなかったから、そういう恵まれた人がいても当然であったのだろう。そのことはアニメ『火垂の墓』にも描かれている。同アニメ映画では、飢え死にする人がある一方、戦争のかけらも感じずに裕福に暮らす家庭があった。それはともかく、本作当時は娯楽が少なく、映画は今では想像出来ないほど人気があった。有名な俳優は豪邸に住めたし、海外に半年ほど暮らすことも出来た。高峰秀子がそうだ。彼女は本作の翌年、パリに行き、そこで半年暮らす。旅費だけでも大変だったと思うが、半年も暮らせるほどの経済力があった。田中もそうだ。『小説 田中絹代』に詳しく書かれているように、田中は普請好みで、箱根のどこだったか、豪邸を建てた。最後の豪邸は取り壊された後、その土地に今息子の醜聞で苦境にあるみのもんたが豪邸を建てたと聞いた。今は大金持ちになるには俳優よりTVのフリー・アナウンサーになってタレント業をする方がいいようだ。それほどに映画が儲からなくなった。とはいえ、筆者は現在の日本の有名俳優の年収が田中や高峰に比べてどれほどかは知らない。それはいいとして、高峰が外遊したのは田中に倣ってのことかもしれない。田中は本作の撮影に入る直前の1949年に渡米している。3か月の旅で、50年1月に帰国した。当時39歳だ。その帰国のエピソードはあまりに有名で、誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。和服で旅立った田中は派手な洋装で飛行機を降り立ち、投げキッスをした。これが人々を逆撫でし、マスコミは大いに叩き、田中は一気にトップ女優から転落してしまう。マスコミのそういうヒステリー気味の姿勢は今でも変わらない。人気者をその座から引きずり下ろす機会を常にうかがっている。つまり、芸能人や芸術家などの名声は自分たちがどうにでも操作出来ると考えている。一番偉いのは表に出る人ではなく、彼らを表に出してやる自分たちだと内心自惚れている。
人気者から一夜にして転落してしまった田中だが、『風の中…』の階段から転げ落ちる場面はそれを予告していたかもしれない。だが小津はそんな田中を見捨てずにまた起用した。それが本作だ。ただし、本作での田中は最初から最後までキモノ姿で通し、妹役の高峰はその反対に洋服のみで演じる。これは新旧の大女優を使うにはわかりやすい設定だ。田中は高峰より15歳年長で、本作でもそれほどに年齢差があるように見える。高峰が20歳とすれば田中は35ということになるが、それにしては少し老けているように見える。もっとも、和服を着ると女性はぐんと大人びて見える。言い代えれば老けて見える。あるいはそれが正しいのであって、洋服では年齢をかなり下に見せることが出来る。化け度は洋服が数段上で、それで戦後は誰もが洋服を着るようになった。田中演じる節子は夫がいる。妹の満里子は独身で、3人は一緒に暮らしている。姉妹の父は笠智衆が演じるが、京大教授で京都に住み、末期の癌に冒されている。節子の夫の三村は山村聡が演じ、失業中で終始無愛想な表情だ。その姿を満里子は疎ましく感じ、なぜ結婚に耐えているのかと姉に口を尖らす。節子は戦前ではあたりまえであった「耐える女」で、満里子は新時代のドライな考えの持ち主だ。この新旧の対比は今も変わらないようだが、節子の大和撫子的生き方は今はもう絶滅しているかもしれない。その意味で本作は時代遅れの映画に思われるかもしれないが、結末は意外にも現代的で、じめじめしたところがない。それを書くと、仕事がなくて負い目を感じている三村は、いつもの安い飲み屋で酔って帰宅し、ある日ついに地方のダム建設の現場での設計に携わる仕事が見つかったと言って節子を喜ばせると、心臓麻痺であったか、ふっと死んでしまう。居場所がなかった彼は当時はまだたくさんいたはずの失業者の苦悩を代弁して切ない。そのことは今も同じだ。数日前、たまたまネットの相談室を見ていると、こんな質問があった。夫が喫茶店を経営しているが、客がなくて赤字続きで、妻である自分に甘えて金を出させる。そんな夫とは別れようかと思うがどうだろうというのだ。数十の回答があってほぼ全員が別れるべしと答えていた。夫婦であっても金の切れ目が縁の切れ目だ。それと同じことが本作でも描かれている。満里子は我慢している姉が理解出来ない。家計をどうやり繰りしているかと言えば、節子は友人が経営するバーに勤めている。三村は好んで飲んでばかりいるのではないし、仕事が見つからないのでは仕方がない。とはいえ、肉体労働でも何でもその気になれば仕事はあると人は言う。三村はかつて土木設計技師であったようで、とても肉体を酷使する仕事には就けない。だが、一緒に暮らす女を働かせることを世間は許さず、満里子のような若い世代はなおさらだ。そのように日本は進んで来て、今では前述のネット相談のように、働かない夫、稼ぎのない夫はゴミ同然と糾弾される。
三村に仕事が見つかったことは本当であったか嘘であったかは誰にもわからない。ダム建設というのがいかにも当時らしく、また話の真実味を伝える。日本がダム・ブームに沸くのはもう少し後だ。もうこれ以上ダムを造る川がないというほどに徹底してダムを造り続け、それが終息するに見えた頃、今度は原発へまっしぐらだ。それもまたやめて今度はどこへ向かうか。映画がそんな時代背景をさりげなく描くことは今ではもうあまりないかもしれない。さて、三村が妻を快く思わないことには理由がある。節子は夫と結婚する前、上原謙が演じる神戸の古美術商の田代と一時恋愛関係にあって、そのことを知っているのだ。田代は節子にほのかな思いを寄せていて独身のままだ。彼は決して声を荒げず、欲もない。そんな男を女が放っておくはずがない。いかにも裕福な女性が家を出入りし、どうも田代と結婚したがっている。満里子はその女性のつんと澄ました態度に我慢がならず、本人の前で大嫌いだと宣言する。つまり、満里子は姉が田代と結婚すればよかったと思っている。三村にすれば、田代がそういういわば完璧な人物であることが疎ましい。どう転んでも自分はかなわない。結局自分が死ぬことで周囲は丸く収まると悟ったのだろう。節子の父は末期癌ではあるが、死ぬ場面はない。いかにも笠らしいいつもの演技で、空気のような存在感だ。そういう父親を持つ節子がどういう性格かは予想がつく。一方の満里子は活発で言いたいことを誰にでもずけずけ言うが、下品にはならない。本作では高峰はあえて変な顔を見せるなど、少々演技過剰なところがあるが、それがかわいさの表現になっている。ただし、筆者は高峰の顔はあまり好みではない。そうそう、三村が飲みに行く店は、田舎出の若い女が経営する庶民性が売りの居酒屋だ。節子が手伝っているバーは、狭いながら壁にドン・キホーテの酒に関する言葉を木片で英語表記するなど、それなりのハイブラウさが漂う。ドン・キホーテのその言葉を控えておけばよかったが、訳せば「わたしは毎日飲む。しばしば理由なしに飲む」といった内容で、これが三村の生活を暗示している。この言葉に向かって満里子がグラスを投げつける場面がある。それは三村のだらしない生活への嫌悪感が反映してのことであろう。店のマスターは特攻隊員であった若い男で、戦争が終わり、生きる指針を見失しなったかのように毎日マージャンをするなどの遊び同然の生活をしている。戦争の傷跡が見えないのは田代だけだ。
本作は京都や奈良、箱根や東京、そして神戸と、目まぐるしく場所が変わり、その点が多少わかりにくい。それほど各地でロケしたので製作費も嵩んだのだろう。とはいえ、部屋の中での場面が8割ほど占める。田代の家は美術品が溢れ、それなりに見物だ。上原謙の演技を初めて見たが、あまりに上品で、少し痴呆症が出ているのかと思ったほどだ。裕福な人はそのようにいつもおっとりしているということだ。思い出したのでついでに書いておく。筆者は中学生の修学旅行で箱根や東京に行った。海辺のホテルに一泊したのは伊豆のどこであったろう。ホテルの窓から海岸沿いに1,2キロ先に変わった形のホテルが1棟見えた。トウモロコシの芯を高さ半分ほどにした建物で、それがかすんで灰色に見えていた。バス・ガイドが言ってくれた。「加山雄三のお父さんの上原謙さんの所有です」。リゾート・ホテルを持つほどの大金持ちであったことになるが、当時上原の名前は知るものの、その演技を映画で見たことがなかった筆者は、とにかく雲の上の人であることを納得した。それがようやく無料の映像シアターで演技に触れることが出来た。日本はそれほどに豊かになって来たのだが、貧富の差は筆者が生まれる頃と今とでは縮まったのか広がったのか、さっぱりわからない。話を戻す。筆者が驚いたのは、節子が働くバーであったかどうか、満里子がコカ・コーラを飲む場面だ。筆者が生まれる1年前にすでにちょっとした大人の店ではコーラを出していた。筆者がそれを初めて飲んだのは中1で、本作より10数年後だ。ついでに書いておくと、本作は製作費が邦画としては当時最高の5000万円であったという。現在の価値にすればその10倍以上だろう。今80円の封書が当時8円であった。製作費の半分くらいは田中や高峰のギャラに消えたのではないだろうか。そこまでは高くないとしても、かなりの額をもらわねば、半年もパリで生活出来るだろうか。
何だか三村のことをたくさん書いた。それは筆者が同じような境遇にあるからだ。三村に同情するというのではないが、三村も時代がよければあのような死に方をせず、節子と仲睦まじく暮らしたであろう。それを言っても始まらないが、監督の小津としては誰の考えに最も同意していたのか。つまり、何が言いたかったのか。三村が死んで、節子の父もやがて死に、その後の長い人生を節子はどのようにして生きるだろう。節子のような女性が男のように懸命に働くことは無理だろう。満里子なら出来る。では節子は田代と結婚するか。田代は歓迎かもしれないが、節子はそうしないだろう。では収入はどうするか。そんな心配をさせるための本作ではないと思うが、世代が違う姉妹がどう生きて行くかをあれこれ想像させるところにはあると思うことは許される。それは姉妹の考えの差であって、そのことはふたりのセリフに滲み出ている。和服対洋服というわかりやすい対照そのままに、節子は旧弊で満里子は進取だ。どちらが勝つかはどの時代でも俎上に載せられる問題で、また答えは決まっている。それはどちらにもいいところがあるということだ。古いことが新しい時代に残れば、それは古典として崇められていることを示す。古さが規範という考えはどの時代でも幅を利かす。であるからそれを否定する新しいものが生まれて来る。その新しさは古さを破壊したものとすれば、古きから新しさが生まれることでであって、古いは新しいということだ。姉はいつまでも妹より年配で、妹は生涯そのことにおいて頭が上がらない。古さの貫禄はそのように絶対的でもある。その古さを体現する田中に対し、新しい高峰を置いたところに小津の読みがある。田中の黄金時代に次いで大物女優になったのが高峰だ。日本の映画がそうした才能によって光り輝き続けることを小津は知っていた。老いて行く田中に新鮮な高峰を持って来たところに、小津のサディスティックな思いが見え透く気もするが、アメリカ帰りでバッシングの嵐に遭っていた田中を起用し、古い存在の代表を演じさせたことは田中への思いやりだろう。本作の後、溝口とのコンビで田中は次々と代表作に恵まれる。高峰には有名なエッセイ本がある。もう少し高峰の作品をたくさん見てからそれを読んでみよう。