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●『ハートでアートこうべ2013』
害者」を「障がい者」と書いてある。障害者がまるでそうでない人の害であるかのようで、「害」はイメージが悪い。このように、漢字をなるべく使わずに表現する言葉に「子ども」がある。筆者はそう書いているが、先日政府が「子供」で統一することに決めたようだ。



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政府でなくて文部科学省か教育委員会かもしれないが、同じようなものだ。別に統一する必要はない気がする。「友達」もいつの間にか筆者は「友だち」と書くようになってが、こういうのは癖のもので、一旦そのように書き改めると、なかなか元に戻す気になれない。そして「子供」や「友達」の表記を見ると違和感を覚える。「子供」と「子ども」のどっちが正しいかなど、理屈好きな人に任せておいて、筆者は平仮名が混じっている方が優しい感じがしてよいと考える。それならば「こども」としてもいいかもしれないが、平仮名ばかりでは意味を即座につかみにくい。「供」には「神への捧げものの」の意味がある。「供え物」といった表記、あるいは「子供」以外に「供」が使われることはあまり見かけず、この漢字は小学校で教えるのだろうか。そうでないとすれば、「子ども」とすべきように思う。ま、これには賛否があって、使用が定まっていないので、「子供」にすると達しがあった。どっちでもいいように思うが、絶対にそれを許さないという人があって、今後も論争が続くだろう。で、「障害」については以前このブログに書いたことを記憶するが、「障碍」と書く人がある。戦前はそうであったらしいが、「碍」はあまり見慣れない漢字で覚えにくい。それで「障害」が使われるようになった。「害」は使いたくないという人があって、今では「障がい」の表記が目立つが、これは「子ども」と違って、何となく収まりが悪い雰囲気がある。「がい」は「外」を連想させもするから、「しょうがい」という言葉がまずいのではないか。「障害物競走」といった言葉はいいとして、「障害者」は別の新たな言葉を考えた方がいい気がする。そう言いながら、一般公募してもいい言葉が見つからないかもしれない。障害者は健常者に比べていろいろと動きに不自由するから、「マイナス」のイメージを健常者が抱くのは致し方がない。誰でも障害者になりたくはない。だが、明日何が起こるかわからないのが人生で、誰もが突然障害者になり得る。また、障害者は目で見てわかる身体の不具合があるが、病気には精神病があるから、精神の障害者もいる。そういう人たちが精神病院に入れられると昔はよく聞いた。また昔は「ノイローゼ」と言った病気が、今は「鬱病」に変わったようで、これは珍しい病では全くなくなっている。病のうちに入らないと言うと批判を浴びるが、それほど「鬱病」の文字をよく見かける。
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 これも昔書いたが、ジョン・レノンの曲に「CRIPPLED INSIDE」があって、これは目では見えない内面が不具になっていることを意味する。「精神障害者」と訳してしまうと、誤解を招く。ごく普通の人に見えながら、偏見に凝り固まっているような場合は精神の不具者とたとえてよい。そういう連中は、予想されたことだが、ネット社会になってパンドラの箱が開かれたように無数に湧いて出て、毎日ネットにそれを証明する言葉を吐き続けている。それだけならまだしも、脳が少し足りないようで、「○○を殺せ!」と叫びながら、共鳴者を集めて大都会の中をデモする。そういう連中は救いようがない。自ら好んで内面の不具者になるのであるから、「鬱病」やいわゆる「障害者」とは別に扱わねばならない。ま、そんな愚かな連中は放っておけばよい。どっち道、地獄行きであるし、その底へ堕ちても地蔵菩薩は救いの手を差し伸べない。それはさておき、今日取り上げる展覧会は、チラシに「第12回障がい者公募作品展」とあって、「とびらのむこうにひかり輝く可能性」という言葉も書かれている。以下、「障がい」ではなく、「障害」と書くが、当然悪意があってのことではない。さて、この展覧会を見たいために、先月15日、台風の雨風の中、神戸に出かけることにした。これもまたTVでの紹介で知った。それは1分程度で、アナウンサーの「兵庫県立美術館で今月15日まで開かれています」という締めくくりの言葉を小耳に挟んだ。横尾忠則現代美術館のチケットを入手していたので、それを見た後、県立美術館に向かうことにした。そして先日書いたように、運がいいことに横尾忠則現代美術館の前からシャトル・バスが出ていた。それに乗ったことは一昨日書いた。てっきり常設展示かと思っていると、「障害者」の文字がどこにもない。アナウンサーの言葉を聞き間違えたなと思い、ほとんど諦めて、トイレに行くなど、帰る準備をし始めた。係員がいるのであるから、訊いてからにしても遅くないと考え直し、「あの、障害者の作品展が開催されているのはどこですか」「ああ、それならここを真っ直ぐに行って、左に折れたギャラリー棟だと思います」。その言葉にしたがって進むと、そうであった。ところが、すでに4時で、もう作品があちこち壁から外され始めている。開館は5時までで、最終日は搬出のために、4時頃から片づけ始める。
●『ハートでアートこうべ2013』_d0053294_148486.jpg 慌てて広い会場を見て回り始めた。会場にいたのは10分ほどだった。あまりにたくさんの作品があり、また素晴らしいものが多かった。いや、全部そうであったと言ってよい。あまりにもいいので、「写真を撮っていいのですか」と搬出作業を初めている中年の女性に訊いた。TVで紹介されたのは優勝作品で、それらは最初の部屋の最初の壁に飾られていた。だが、受賞していない作品でも遜色はない。家内は宮城まり子の「ねむの木学園」を思い出し、同学園の試みが今では全国の障害者施設で行なわれているようであることを言った。確かに「ねむの木学園」は障害者にも絵の類稀な才能があることを日本中に知らせた。その意味ではこうした展覧会は珍しくないことになるが、筆者は今回初めてこうした公募展があることを知った。もう12年目になるから、美術好きでも入手する情報は偏っている。その点、筆者は最近NHKのTV番組での紹介で知り、見たいと思うことがたびたびある。こうした入場無料の、しかも無名の人たちの展覧会は、チラシが他府県に撒かれにくく、また美術展案内にもまず取り上げられない。筆者は京都市美術館で毎年開催される「アンデパンダン展」が好きで、毎年見たいと思いながら、その情報が入って来ない。よほど注意して同美術館の催しをチェックしていない限り、それは無理だ。この障害者の公募展もその類で、「見なくてもだいたいわかっている」と思う人がほとんどだろう。それを言うならば、ゴッホやルノワールの絵こそそうであるのに、1500円もする入場券であっても、入場に行列が出来る。人がたくさん並ぶほどに、また人が集まる。その逆もしかりで、『ハートでアートこうべ2013』だけを見るために訪れた人がどれほどあろう。搬出時間でもあったので、会場は作者と彼らを世話する人たちでごった返していた。そして、そうでない人はほとんどいなかったのではないか。もったいない話だが、それが現実で、「障害者」と聞くだけで敬遠してしまう。「障害者のアート」で連想するのが「アール・ブリュット」だ。
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 それも「障害者のアート」と言ってよいが、「障害者」が具体的にどういう状態の人を指すのか、だいたい様子はわかるが、言葉にするとなると、途端にややこしい。というか、「障害者」に関してそもそも言及することが憚られるような雰囲気ないし自粛のムードがある。先に書いたように、「障害者」はさまざまで、肉体なのか精神なのか、まずそれがこの展覧会に関してわからない。それで「ねむの木学園」を引用したが、「知的障害者」ともろ書くと、彼らが本当に知的でないのかどうか、こうして書く方はまた自粛ムードが漂い始めるのを感じる。「普通一般の人のような知的さがない」とやると、「障害者」が「普通一般人」とどう違言うのかと謗りを受ける。これも前述したように、表向きはどこにでもいそうな人なのに、匿名で罵詈雑言をネットに吐いたり、また人種差別デモに喜んで参加する「CRIPPLED INSIDE」な人がいる。そうした人の方こそ「障害者」と呼ぶべきで、彼らに比べると、「知的障害者」は「天使」みたいなものだ。その思いを強くするのが、今日取り上げる展覧会であった。そこに並ぶ作品は、普通の子どもたちの作品とは違い、また「アール・ブリュット」にありがちは偏執さもない。普通の子どもたちの絵を、天衣無縫と評価する画家は昔から少なからずいる。だが、この展覧会に並ぶ絵や書、立体作品を見ると、子どもたちの作品以上に純粋な何かがあることを感じずにはおれない。それをどうたとえればよいかを、ここ2週間、ずっと考え続けている。そこで思い浮かぶのが、こういう話だ。たとえがとても悪いかもしれないが、一言すれば「慎ましやかさ」で、片思いのラヴ・レターをたまたま読んだ時のような思いに似ている。あるいは、学校に行きたいのに、家にお金がないため、それがかなわなず、わずかばかりのノートで自習する子どもの気持ちだ。それとも、今思い出したが、坂東妻三郎主演の『無法松の一生』の最後の場面だ。そこでは、中尉の未亡人に恋して片思いのまま死んだ無法松の遺物の中に、未亡人から受け取った心づけの金封が開封されずに全部取ってあった。そうした切なさ、純真さが、この展覧会のどの作品にも溢れていた。「うまい!」と感動するのではなく、「いじらしい」とでも言おうか、じっと見ていると泣けて来る。そういう思いにさせる絵画はほとんどない。プロの画家は全滅、普通の小学生も駄目、アール・ブリュットも少し違う。
●『ハートでアートこうべ2013』_d0053294_1485428.jpg 慌てて駆け回ったので、たくさん写真を撮ることは出来なかった。ざっと説明しておくと、最初の写真は優勝作の一部で、NHKで紹介された。右に見えるカラフルな絵は、アール・ブリュット的だが、もっと明るい。ただし、とてもていねいに描かれ、技術的な未熟さや破綻はない。2枚目は「ごめんね」がとてもよい。何でもない言葉でも、こうして書かれると、涙が出て来そうになる。この作品の書き手は誰に謝っているのだろう。神様か、世話をして戸たちか。謝らなくてもいいのに、それがこの言葉だ。何という素直な表現だ。3枚目はまるで20世紀の抽象絵画で、巨匠が描いたと言えばそれを信じる人が多いだろう。あまりに見事なのでかえって面白くないほどだ。もはや障害者の枠に嵌めて見せなくてもよい。4枚目は特に右側の女の子がよい。これはほしい。家に飾っておきたい。誰でも描けそうだが、全体に漂うどことなくはかない様子は、障害者を納得させる。これは悪い意味で言っているのではない。その反対で、「天使」のような純粋さがある。筆者ならこの絵に優勝をあげたい。5枚目は大きな絵で、また背後に壁が迫って左半分しか入らなかった。たぶん作者が男性であったと思う。出来る限り、どの写真にも作品名と作者名の札が入るように撮影、加工したが、サイズが小さいので、文字は読み取れないだろう。黒地に宝石を描き、曲線の枠はスパンコールを貼りつけてある。不思議な絵で、「アール・ブリュット」的だ。宝石は純粋な結晶だ。それに魅せられた作者は、存在の奥深いところを直観し、その神秘さをどうにかして描き留めたいと思った。それがこの絵だ。そして、作品は本物の宝石の美しさをあますところなく描き切った。どの宝石もカットの状態をていねいに線引きし、また着色もむらがない。最後は一昨日の最後に載せたチラシで、裏庭で採れたむかごを並べていたのを全部取り除いた。クレパス画で、色合いがとてもよい。鯛がマンボウのようにのどかで、見ていて楽しい。ともかく、わざわざ出かけた甲斐があり、展覧会のタイトルにあるように、ハートを感じた。それはもちろん「温かい」であって、殺伐とした世の中に稀有のことだ。
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by uuuzen | 2013-10-01 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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