灘区、東灘区は神戸市にあるが、西灘区はない。だが、阪急電鉄には昔「西灘」という駅があったし、阪神電車には今もある。阪急の「西灘」は阪神の同じ駅名と紛らわしいと思ったのかもしれない。何しろ数年前に阪急と阪神のどちらに乗ってもよい1日乗車券が出来た。

もう10年になるかもしれない。阪急と阪神の「西灘」の駅は南北に1キロ弱離れているが、その間にJRの「灘」駅がある。また、これら3つの駅は山から浜へと坂がきつく、それに道が曲がりくねっていることもあって、あまり近いという印象がない。神戸は東西を往来するのはいいが、距離が短い南北はなぜか線路が3本もある割に行き来が不便のような気がするのは、この坂のせいかもしれない。それはさておき、阪急の「西灘」駅は今は「王子公園」と名前が変わって、プラットフォームの待合室には王子動物園の人気者のパンダのキャラクターが大きなシールとなって貼りつけられている。このパンダを昔一度見たことがある。雌雄2匹いるようで、待合室のキャラクターも、雄とピンクのリボンをつけた雌が一緒にいる。この大型シールは何年か前に見た時、目の部分が剥がされたりするなど、かなり酷い状態になっていた。それが先日は新品同様になっていた。いたずらされたり、風雨によって自然にダメージを受けるので、定期的に全体を貼り替えるのだろう。その先日とは、台風18号の接近で終日雨であった先週15日だ。その夜に台風が近畿を襲い、深夜2時半には桂川が氾濫して「花筏」など旅館を浸水させた。15日は天気が悪いことがわかっていたのに出かけたのは、今日取り上げる展覧会が最終日の1日前であったことと、もうひとつ見たいと思った展覧会の最終日であったためだ。本当は伊丹にも立ち寄りたかったが、出かけたのが午後からで、また体力もなかった。「王子公園」駅に下車するのは数年ぶりと思う。それに、新しく出来た横尾忠則現代美術館を見るために、同駅から山手に向かって歩いたのはたぶん10数年以来のことだ。だが、同駅から浜側に15分ほど歩いたところに新しく出来た兵庫県立美術館に行くのに、同美術館が出来た当初は同駅で下車した。しかも王子動物園の正面玄関のある西口から下りた。ただし、改札を出て右手の山側に足を向けず、左の浜側に向かった。また、大阪寄りの東口にはここ2年半の間に三、四度降り立った。そちら側にはパンダの大きなキャラクター・シールを窓に貼った待合室はない。どうでもいいことを書いているが、この駅の西口改札は独特の雰囲気がある。線路高架下がまず見え、その左手は海に向かって急な坂があり、また道が斜めに走っているので、京都や大阪では見かけない風景が眼前に広がっている。右手に進むとすぐに数段の石段があって、それを上ると阪急に沿った車道だ。それを横断して北に2,3分歩くと、王子動物園で、その斜め向かいに以前は兵庫県立近代美術館と呼んだ白い横長の建物がある。これは阪神大震災で被害を受け、修復された後、一度筆者は行ったことがあるような気がするが、記憶が曖昧になっている。兵庫県は、大震災からの復興を始め、県立近美が手狭になっていたこともあって、浜辺に新しく美術館を建てることにした。それが出来てからはそっちへ行くことになり、県立近美がどうなったのか、関心もなくなった。てっきり壊されたかと思っていたが、15日に行ってみると、県展に使われるなど、市民ギャラリーのようになった。

これも記憶が曖昧だが、県立近美は震災の何年か前に金山平三や小磯良平の絵を専門に飾る別棟を建てた。同じデザインでやや小振りであった。筆者の記憶では原田神社側、つまり本館からは南隣りだが、そうではなく、先日北隣りであることがわかった。小磯良平は六甲アイランドに専門の美術館が出来たので、県立近美の隣りには必要がなくなった。ただし、金山平三の美術館はないので、それをどうするかだが、小磯に比べると全国的に有名ではない。それでごくたまに兵庫県立美術館で回顧展を開催すればよいと判断されたのだろう。そして、空いた別館を兵庫県が誇る現代のヒーローである横尾忠則の展示に充てようということになった。横尾専用の美術館は昔から生まれ故郷の西脇市にあった。だが、それがどこにあるかを知る人は少ないだろう。やはり人口が圧倒的に多く、たくさんの人に見てもらいたい。そう考えた県は、県立近美の別館を使うことにした。ということは、横尾にとって阪神大震災は幸運であったろう。また、横尾のファンにもよかった。兵庫県立美術館がオープンした後すぐに横尾専用の美術館として使えばよかったものを、なぜ今までかかったのか。西脇市や横尾との話し合い、また専用美術館として使うには、今後の企画展の見通しも立てておかねばならない。15日の夜、GOOGLE EARTHのストリート・ヴューでこの元県立近美の前の通りを確認すると、別館1階の角にある喫茶店らしき部分は現在とは違っている。それは4年前の撮影で、おそらくその当時から本格的に横尾の美術館として使うことが決まり、部分的な改修案も出たのだろう。その喫茶店らしき部分は、現在実際喫茶店になり、また角は丸みを帯びたデザインとなって、「パンダなんとか」といった、向かいの動物園に因んだ名前になっていた。これは、親子で来てほしいという県や神戸市の思いだろう。遊園地施設もある同動物園であるし、パンダ目的で家族連れが多くやって来るはずだ。そして、ついでに美術館にも立ち寄ってほしいという思惑だ。そのためか、この横尾忠則現代美術館と名づけられた旧県立近美別館の最初の企画展は「どうぶつ図鑑」と名づけられた。「どうぶつ」と平仮名であるのは、子どもでも読めるようにとの思いが表われているが、「図鑑」を「ずかん」とやると、全体が引き締まらなかった。それに子どもだけでやって来ることはまずなく、子どもが「ねえ、お父さん、『どうぶつ』の次の難しい漢字は何て読むの?」と訊ね、父親がそれに答えてやれる楽しみをも考慮したかもしれない。

館内に入ってすぐのフロアは通りに面して明るい。そこで子どもたちに自由に紙やペット・ボトルの部分のような廃材で動物を作ってもらうコーナーがあった。親子連れは大いに時間を潰せる。すでに大量の作品が大きなテーブルに載っていた。ひとつずつ見ると、みなそれなりに面白いが、何せ素材が安物かつ日用品の廃材ばかりで、やや遠目にテーブルを眺めると、ゴミの集積に思える。あるいは台風による洪水がもたらしたゴミの山だ。その流れ着いたゴミは見る人によっては宝の山でもある。同じように、親子連れがせっせと作った動物を模した作品は、評価しようと思えば出来る。筆者と家内がそれらをしげしげと見たのは、横尾の作品を見終えてふたたび1階に下りて来た時だ。つまり、暇潰しだ。そのフロアまでは無料で入れるから、それらの工作作品を見るためにお金を支払っていないという思いが意識せぬままにあって、熱心に見ようという気が起こらない。これがたとえば1000円徴収されるとなると、誰も見に行かないが、強制的に徴収でもされると、元を取ろうとしてそれなりに時間を長く費やして見る。見世物は有料であるべきで、無料にすると侮られる。それはさておき、この工作コーナーと同じフロアにチケット売り場と売店があって、売店はここでしか買えない横尾グッズの山積で、これを目当てに来る人もあるのではないか。売店のすぐ近くにエレベーターがあり、2、3階が展示室だ。またどちらの階にも4畳半ほどの狭い部屋がある。そこにも横尾作品が展示されているが、ちょっとした特別コーナーになっている。また、横尾は彫刻を作らず、すべて額入りの平面作品であるから、床はまるまる残る。それでは殺風景と考えられたか、展覧会の名称に合わせて、動物の剥製があちこち置かれた。それらも横尾の所蔵だと思うが、3階にあった鴛鴦の雄はかなり無残な状態になりかけていて、もう少し状態がましなものを持って来られなかったのかと思った。どちらの階のエレベーター・ホールにも白熊の剥製が置かれ、2頭は雌雄であった。これが一番大きな剥製で、珍しいものではヤマアラシがあった。子どもが理解しやすいように、動物の生態も簡単に書かれていた。なぜこられの剥製が設置されたかだが、横尾の絵画と関連づけるためだ。今回の横尾作品はどれも動物が登場するか、それに関連したものばかりが70点ほど並んだ。大半は撮影が許され、筆者も何枚か撮った。筆者以外はみなスマート・フォンやケータイで撮影していて、作品よりわずか2,3センチの距離で撮っている人も見かけた。筆者のカメラではそんな至近距離からは撮影出来ない。そんなことからもいかに筆者が時代遅れであるかがわかる。

兵庫県立美術館で横尾忠則の展覧会を見たのはいつだったか。今調べると2008年夏だ。それから5年経っている。
『冒険王・横尾忠則』だ。もう5年も経ったかと思う。それだけ長く経っている割に同展はよく覚えている。個々の作品はすっかり忘れたが、全体の雰囲気がだ。横尾の作品はそんなイメージが強い。これは個々の作品の完成度は大したことはないが、作品を描く内面のきっかけは一種詩人の純粋さと言うにふさわしいもので、そこには嘘が混じっていない。ただ、残念なのは、横尾が不幸な時代に生まれたかもしれないことで、世間は作品の完成度をあまり求めない。お笑い芸人でも一発当てればすぐに消えて行く。本人たちも何となくそれでいいと思っているようなところがなきにもあらずで、その一発でそれなりに一財産を築ける。レオナルド・ダ・ヴィンチのように、生涯かけて絵画がほんのわずか、しかもそのわずかで永遠の名声を得るといった時代ではない。これは巨匠の意味が変わって来て、圧倒的な技術と時間を費やして生涯にこれぞ1点といった代表作を物にしようという画家は歓迎されなくなっている。また、そのような生き方は出来ない。名前をとにかく早く売り、稼げる間に稼いでおかねば、すぐに流行が移って行く。つまり、飽きられるのが早い。そんな時代に作品の完成度など気にしていては駄目だ。落書きでもよいので、どんどん描く。200号近い作品を年に数十は仕上げないと、個人美術館を作ってもらうことは出来ないし、また絵を売って金持ちにもなれない。30年かかって超大作を1点描きましたと主張しても、それではお話にならない。横尾が現代美術館を用意されたのは、そこで何度も企画展を開催出来るほどに作品数が多く、またあらゆる切り口で作品を集めることが出来るからだ。多作かつ多様な作品群だ。これが現代の巨匠の絶対条件で、代表作があるような画家は貧しい作家と捉えられかねない。それ1点ではすぐに飽きられるからだ。とはいえ、この1点というのがない画家はさびしいと筆者は思う。横尾にはそれがまだない。あるいは本人はそういう作品を描く気がない。また人によってはそういう作品を描く能力がないと見るだろう。

今回展示された作品はどれも映画の看板を思わせた。それは横尾を納得づくだろう。昭和2,30年代、各地にたくさんの映画館があって、その看板はスチール写真やポスターを見ながら町の看板絵描きが1,2日でさっさと描いた。筆者の子どもの頃はそんな光景が間近で見られた。そういう才能は今もある。色チョークで海外の路上にスターなどの似顔絵を大きく描く日本人がTVで紹介されたことがある。それを見て、昔の看板絵描きだなと思った。ただ、看板と違うのは、1日で消されることだ。看板の場合は1,2週間は持った。時代がそれだけ早く動くようになって来た。横尾の絵が看板絵のようでありながら、さらにそれを粗雑にしたような、あるいは下手クソにしたような味わいがある。それは、写真そっくりを目指した安っぽい看板絵ではないという矜持の表明であるかもしれない。看板絵は、写真に似せようとして、どこか似ていない部分を抱えて、それがどこか子ども心に痛々しく見えた。横尾もそう感じ取っていたのではないか。だが、一方ではそんな無名の看板絵師への温かい眼差しがある。彼らはそれなりに描くことは楽しかったはずだ。それで飯が食えるのであれば、さらに文句は言えない。横尾は幸い映画の看板絵師にならずに済んだ。だが、その絵画には昭和の思い出が詰まっている。懐古と夢だ。この夢は、懐古と現在が遭遇して睡眠中に見る夢のことで、夢を扱う点において、横尾の絵はシュルレアリスムに属する。だが、今さらシュルレアリスムもないような気がするし、シュルレアリスムを思わせるところに横尾の絵画の時代遅れがあると言えるし、それがマラソンの最終ランナーのように、いつの間に時代のトップと紛らわしくなっているところもある。今回の展示で作品に添えられたちょっとした説明が面白かった。たとえば横尾の親類で魚屋が大阪市内にいて、たまに会いに行くと、決まって「蛸食うか?」と訊かれて、蛸の足が切られ始めたという。そして、その魚屋はある日、チンドン屋となって練り歩いたと続けられていたが、その短いエピソードがとても鮮烈でかつ夢のようであることに驚く。横尾はそういう思い出を元に絵を描く。それはきわめて個人的なことで、横尾以外には理解は及ばない。だが、横尾は理解してほしいなどとは思わず、自分が感じていることを感じてほしいのだ。とはいえ、それも無理な話だ。他者の夢を自分が見ることは不可能だ。横尾の頭の内部にいくら鮮明にある映像が浮かんでいたとしても、それを他人に見せることはほとんど不可能であるし、横尾が可能と主張したところで、その絵画を見て横尾が常に立ち返るある思いを共有出来ることはあり得ない。

したがって、夢のような光景を描いた横尾の絵に接して感じることは、他者が語る夢に耳を傾けるようなもので、それをどうでもいいと思う人の方が多いだろう。だが、人間であるから睡眠中に奇妙な夢は見るし、そうした奇妙さを絵画で表現されていることに不快を思わず、同感する人はある。「ああ、わかる、わかる」といった、作品とのごくごく微妙な内的対話だ。だが、それこそが絵画の本当の役割でもあろう。横尾の絵画が夢に基づくものが多いとすれば、子どもにもそれなりに感じ取ってもらえるものは大きい。むしろ子どもの方が敏感に反応するだろう。それは筆者の世代がかつて映画館の看板で感じたものとは大きく違って、眠っている間に見る変な夢とそっくりだ。そして、人間の世界にはそういう変なことがいっぱいあることを予感し、大人になって行く。大人になれば会社や組織に属し、あらゆる規則や規律に縛られる。そして、夢のような絵を描いて生きて行く方法があることもすっかり忘れるが、自分が親となった時、子どもをたまに美術館に連れて行き、そこで横尾の作品を見せる。会場にあった横尾の言葉に、「芸術家は自由であるべき」というのがあった。そこには、毎日通勤する会社員とは違う役割を引き受けている意志が見える。映画の看板絵師は職人で、同業者なら誰でも一定の技術を持っていたし、同じように描けた。横尾はそれでは駄目だと思う。芸術家は個性が命だ。そして横尾にとってのそれは誰も見得ない夢ということになる。ここで筆者の思いと書いておくと、個人が睡眠中に見る夢は他者にはどうでもいいことで、その夢に価値はない。ただし、その夢に影響された表現行為は、他者に感得されるので、作品と呼ぶべきものになる。だが、取り留めもない夢と同じように、その作品に完成度と呼べる何か、つまり厳格な何かが内在しない場合、それは個人の奇妙な夢と同じで、他者には何ら影響を及ぼさない。人間は永遠に夢を見るから、夢を描く絵も永遠に存在する。だからといって、そういう絵が永遠とは限らない。ゴミが永遠に生み出される。一方で宝石もそうだ。ゴミと宝石の差は、結晶の具合からも言える。絵画で結晶と言えば、そうでしかあり得ない絶対性だ。その絶対性は多作であるから生まれる確率が高いことはない。ただし、最後に書いておくと、今日の3枚目の写真の緑色の絵は、灘に沈んだかのような街角を描き、家内はそれを見ながら、2年半前の大震災の津波に遭った街のようだと言った。芸術家が何年か先に起こる大きな出来事を予感することはあり得る。そういう夢はどうでもよい個人的なものとは言えず、芸術家が社会を代表する閃きを時に持つことを証明するかもしれない。つまり、夢もいろいろということだ。