最終日に行って来た。今まで何度シルクロード展を観たか、おそらく20回は下らないと思うが、あまりにもたびたびシルクロード展があるので、新しいチラシを見かけるとまたかという気になる。

奈良で10数年前、大規模なシルクロード展が開催されたことがある。それでとどめを刺したかと思っていると、その後も手を変え、品を変えてのシルクロード展がある。それでも大抵行くことにする。3年前に大阪歴史博物館で『シルクロード 絹と黄金の道』が開催された。これは観に行かず、チラシだけ手元にある。そこには「日中国交正常化30周年記念 大阪歴史博物館開館1周年記念 中国新疆に花開いた西域美術の精華、特別公開」と銘打ってあって、裏面を見ると今回の展覧会の出品と少々だぶっている。今回は副題が「幻の都 桜蘭から永遠の都 長安へ」となっていて、1年の準備期間を要して開催に漕ぎつけたそうだが、最終日にもかかわらず大勢の人が来ていて、宣伝がよく行き届き、また中国美術に関心のある人が少なくないことを示していた。それは主催が兵庫県立美術館のほかにNHKがでんと控えており、TVでも盛んにこの展覧会が紹介されたことにもよる。それに、NHKのシリーズ番組でシルクロードが採り上げられていたこともあって、用意は万端に整っていた。それでもNHKが主催者として名を連ねると、大抵中身は思ったほどでもないことが多い。宣伝が大きいと中身もそのように勘違いするが、そうとは限らない。だが、今回はまずまずの内容であった。新しい発掘の成果が初公開されたこともあって、シルクロード・ファンでなくてもいろいろと考え込んでしまう作品があった。ちょうど奈良では正倉院展が開催中だが、日本にあればすぐに国宝になるような古いものがいくらでも中国には埋まっていて、国交30数年という短い間にもかかわらず、中国の考古関係を含む展覧会は無数に開催され続けており、この調子では、ただし日中の間が剣呑な雰囲気にならない限り、永遠に日本での展覧会の内容には事欠かないはずだ。前と同じような内容とわかっていながらも、少しずつ見応えのある新しいものが展示されるので、相変わらず足を運ぶことになる。
それでもシルクロードと聞くと、何かわかったような気がしながらも、漠然とした何かが思い浮かぶ。それは日本からヨーロッパを両端に持つ広大な地域を占め、どこに焦点を当てるかで出品がそれぞれ異なって来ることにもよる。今回は東は西安までと限定された中央アジアの新疆ウイグル自治区を中心にしたものであったが、タクラマカン砂漠を挟んで来たと南のシルクロード沿いにいくつもの遺跡や墓地があって、しかも時代もさまざまであるため、出土品を一斉に並べても、あるひとつのイメージに結集しにくい。また、この地域では紀元前からさまざまな国が勃興し、それぞれに特徴のある文化を残し消えて行ったが、新たに発掘品がもたらされても、それがどういう用途で使用されていたか明確にわからないこともあったりするため、謎めいた部分がいつまでも残ったままになっていることにもよる。発掘品は埋葬された墳墓の中から副葬品として出て来ることがほとんどだが、当時の生活用具や祭祀のための道具など、みな正倉院にあるような工芸品として分類されるもので、どれもぱっと見は似ているということもあって、あまり関心のない人には変化に乏しいものに思える。美術というより、生活用具であって、それらは広大であっても風土が似ていれば、仮に時代が1000年程度経っても、基本は同じようなものにしかなりようがない。それでも文様ひとつ取って見ても時代や地域の変化は如実にあるし、乾燥した砂漠の下から発掘されるので、よくぞこれだけ残っていたと思わせるものが多い。かつて桜蘭王国の美女とか言って、発掘されたミイラが大いに話題となり、NHKの番組でも採り上げられたが、そのミイラを目玉に展覧会が開催されたこともある。今回のもミイラやそれに属するものが見物で、最も印象に残った。
そのひとつは赤ん坊のミイラで、全体を産着で包んだような本当の赤ん坊、もしくは人形に見えたが、両眼に群青色の石をすっぽり置いてあり、また両方の鼻孔には赤い毛糸を詰め込んであるので、ぎょっとさせられる表情をしていたが、まじないか何か理由があってのことなのだろう。生まれて間もない赤ちゃんが死んだのを嘆き、それをそのままミイラにして丁重に扱うところに、人間の変わらない感情を見て心を動かされた。展示方法も特別扱いで、これも好感が持てた。遠い時代の遠い国のミイラであっても、それを尊厳を持って扱う態度が当然であるからだ。2世紀から5世紀にかけての成人男子ミイラがまとっていた衣装一式の展示もあった。これは中身のミイラは除かれているのだろうが、顔に相当する部分に仮面を被せてある。それは真っ白な顔面に目を閉じた表情に描いてあって、元の人物に似ているのかどうか知らないが、かなりの長身であることがわかり、ヨーロッパに近い人種のように思える。だが、着ている服は錦織や豪華な刺繍で作られ、鮮やかな朱を基調とした染色で、よほどの地位の高い人物であることが想像される。それは錦織の高度な技術からもうかがい知れるが、この錦織がデザイン的にもほとんどそのまま現在の日本の和装の帯にも使用されていることを知れば、当時の染織技術の高度な発達が改めてわかる。砂漠の中の国でどうしてこのような緻密な仕事が出来たかと疑問に思うかもしれないが、美しいもの、手間のかかるものを追求する人間はどんな粗末な環境でもそれなりに技術を高度に高めて行く。また、今はすっかり砂漠の下にあっても、かつては緑が豊かで、たくさんの人が生活して行けるだけの水や食材も得られた。このことを忘れがちだが、逆に言えば、今日本が緑が豊かで水が豊富だとしても、いつ砂漠化が始まるかわからない。また、ミイラと言えばエジプトを思うが、砂漠の乾燥地帯がある場所では死んだ人間をそのまま保存しようと考えるものなのかもしれない。エジプトと中央アジアにどのような文化的なつながりがあり得たか知らないが、陸続きであるので交流があっておかしくはない。そんなことを考えながらミイラを見ていると、ミイラをそのままかたどった木製のミイラの展示にぶつかった。一見すると本物のミイラに見えるが、瞼に羽毛が植えつけてあったりする。1本の木を削ってがりがりに痩せた人体を彫り、そこにいろんなものをくっつけて本物のミイラのようにしてあるのだ。これには驚いた。実際の人物の死体が得られなかったので、代わりに人形を作ったのかもしれないが、木を削った後が生々しく、あたかも現代の彫刻のように思えた。もう1体、これはもっと長身の木製ミイラだが、着せられていたはずの着衣は一切なく、木だけが人間の形をして横たわっている。そしてその木は完全に乾燥し切っているため、顔面に相当する部分は仏手柑の先をもっと派手にしたように繊維質がいくつもの束になって爆発状にささくれ立っていた。まるで表現主義的な現代彫刻を見るような気分にさせられた。これは当初はそのような形をしていなかったが、現在はそうなってしまった面白さで、鑑賞の仕方としては邪道だろうが、意外な面白さは意外なところで得られるもので、これはこれで展覧会に行った甲斐があることになる。
工芸品として見物はまず前述したようにさまざまな染織品だ。絨毯の断片、雲気文を刺繍した精緻な布、あるいは印金を施したものなど、現在とほとんど変わらない、あるいはそれ以上の見事なものがいくつもあった。金太郎飴のようにガラスの管を輪切りして作った直径7、8ミリ程度のカラフルなガラス玉は、拡大写真が添えてあったが、それを見なければわからないほど細かい作りがなされていて、西アジアに高度な技術があったことがよくわかる。こうした多色の細かいガラス細工はヴェネツィア特有のものだと思っていたが、見解を改めた。「貴石象嵌金製仮面」は4世紀から6世紀にかけてのもので死者の顔に被せてあったと想像されるものだが、その表情はずんぐりしたモンゴル人のようで、これがまた面白かった。同じような仮面は中央アメリカや南米の遺跡からはよく出土するが、アジアにも存在することは地球的規模の文化交流があってのことなのか、それとも金を崇める人間の性質による偶然の一致なのか、まだ解明されていないことは多い。貴人の墓を守る鎮墓のための獣の像は唐時代によく見られるが、これら中国の陶俑は、正倉院にある樹下美人図と共通するふっくらした例の女性像や、それに馬やラクダなど、日本でも馴染みのものが豊富に存在していて、今回もいくつか出品があった。そんな中で中国特有の陶製の家屋や井戸を模したものは他の展覧会でもよく紹介されるもので、伏見人形にどこか似ていながら、もっと重厚さに満ち、墓の副葬品というものが当時の文化のあらゆる事物を伝えながら、その模型としての造形そのものがひとつの作品的価値を持っていることをよく伝えてくれる。これは古代エジプトでも同様のことで、当時の人々の生活の一端がわかると同時に、それらを作った工人の腕前や思いもわかり、支配者層だけではなく、それを支えていた名のない人々の存在が同時に浮かび上がって楽しい思いをさせてくれる。支配者がいなければ工人たちが安心してそのようなものを作ることに励むことは出来ないが、工人たちがいなければ支配者たちも自分の死後の生活が副葬品によって保証されないと思っていたから、結局は支配者も工人もどちらもそれなりに懸命に生きていたことになる。
この展覧会に行く気になったのは、平安画廊で図録を見た時、面白い壁画があったからだ。その実物を確認したかったのだ。「墓主生活図」と題するもので、かなりラフなタッチで描かれ、へたな漫画に近いと言ってよい。だが、妙にユーモラスで温かみがある。トルファン市の所蔵で、同地から出土したが、ちなみにこの町はタクラマカン山脈の北、天山南路沿いに位置し、桜蘭からは西北300キロに位置する。西晋代の3から4世紀にかけてのもので、6枚の紙を継いで描かれている。中央下に天蓋があり、その下に男の墓主がいて、上方左右には円形の太陽と月がある。その下には樹木、それに鳳凰もいて、全体に余白の多い画面で雑な仕上がりだが、それだからこそ人間的で面白いとも言えるし、この時代の絵画資料はきわめて稀少であるため、貴重なものとなっているそうだ。この1点で西晋のこの時代の絵画を代表するわけには行かないが、たまたま墓の中で見つかったこうした絵画によって、当時の生活の一端や、絵を描く際の道具といったことまでわかるのがよい。これは別の時代のものだったと思うが、古い筆も展示されていた。今と何ら変わらないことが確認出来て楽しい。さて、今回の展覧会の目玉はチケットにも印刷されている「西域のモナリザ」と称されている世界初公開の壁画の一部だ。これは「如来図」と題されていて、ある大きな壁画の端の方の断片だが、保存がよくて表情がよくわかる点で貴重だ。唐時代のもので、ダンダンウイリク(丹丹烏里克)という、タクマラカン砂漠南側の西域南道沿いの町ホータンの西100キロほどの場所で発見された。ダンダンウイリクは7から8世紀にかけて繁栄した一大仏教拠点で、東西2キロ、南北10キロの範囲に寺院址、住居址などの遺構が20か所残存し、多数の仏教関連の異物が発見されている。1896年にスウェーデンのスウェン・ヘディンが発見し、1900年にオーレル・スタインが大規模に発掘したが、後に所在不明となり、1997年に石油探査隊に同行した新疆文物考古学研究所隊が再発見した。そして2002年に日本の仏教大学との日中合同調査によって発掘がなされ、「西域のモナリザ」が発見された。ダンダンウイリクの南は崑崙山脈で、それを越えるとチベットであるので、この地域はチベット仏教の、あるいはインドのヒンズー教の影響を受けた仏像が出土するが、この「如来像」も独特な表情をしている。他にも同じ地域から出た壁画があって、それらの如来も同じ鉄線描によって同じ表情をしていた。4分の3斜めに向けた顔の奥の方の目の黒い瞳が顔面の際ぎりぎりに描かれ、それがちょっと斜視に見えるが、何だか含みのある表情で面白い。これはこの壁画を描いた画家個人の癖であったと思うが、全体的な画像は当時この地域で描かれていたものと共通するであろう。そしてこの丸い顔をした如来像を見て即座に連想したのは、村上華岳の切手にもなった「裸婦図」の顔だ。鼻も口元もほとんど同じ形をしている。そこに日本美術がシルクロードの東の終着点であることを改めて認識させるものがある。その意味でシルクロードから発掘される文物は、現在もなお日本の美術に何らかのヒントを与え続けるものを秘めていると言える。食傷気味のシルクロード展と言わずに、何度でも足を運ぶがよいだろう。