●『伊能忠敬の日本図』
があるかないかは時間が経ってみないことにはわからない場合がある。今朝ネット・コラムに、無益な情報はゴミであり、GOOGLEの検索で調べられるような情報はみなそうだといったような、情報整理術についてのものがあった。



d0053294_012594.jpg若い人が書いたのだと思うが、話をしてもきっと面白くない人だ。確かに情報が氾濫している現在、どうでもいい情報が多いと思うが、誰しも本能的に何が無益で有益かを感じながらネット・サーフィンしているだろう。そして、普段は無益と思っていることでも、たまに何かの拍子にそういう情報に新鮮なことを気づかされることがある。心をオープンにしておくと言えばどこか胡散臭い印象を与えるが、あまり偏見を持たないようにはしておくべきで、最初から有益か無益を決めつけない方がよい。そのネット・コラムを読みながら、筆者はその文章をゴミの最たるものに感じたが、そう決めつけてはこっちも青臭いから、大目に見て今日の冒頭のネタに使う、つまり筆者にとって有益なものに変えることにした。このように、無益と思えるものでも、考え方次第で有益に転ずることが出来る。それはいいとして、情報の有益、無益を筆者は厳密に決めることがあまり出来ない。最初から丸っきり興味のない情報には近寄らないし、興味を持って知った情報はさして面白くないものでもいちおうは頭の片隅に置いておく。それがいつ何時大きくなっているかわからない。夢に形を変えて現れることもあるだろう。それに、有益、無益を言い始めると、人生そのものがどうかということになる。人生が有益と思えることの連続ばかりならばいいが、時として無益を感じることもある。自殺者は人生を総括して無益と思うだろう。人生の有益無益は永遠の哲学的命題だ。人生がそうであるからには、情報にも有益無益があるのは当然で、なるべく有益なものを摂取することにしたいのはあたりまえだ。だが、人間の頭は無尽蔵に出来ていて、ゴミみたいな無益な情報が詰まっていても、いくらでも有益な情報を取り込む余地はある。あるいは、無益があるからこそ、有益も明確にわかると言える。であるから、無益と思う情報をばっさりと切り捨て、有益のみを飲み込んで悦に入るのは、とても滑稽で人間的に余裕のなさを思わせる。人間の行動自体が無益と有益から成り立っているではないか。無駄話はそれこそ無益かもしれないが、そうした雑談が有益に大きく貢献する。
 情報の有益か無益かを考えると、自ずと筆者のこのブログを連想する。毎日投稿し、多少の読み手があるようだが、リピーターがいるならば、それは多少は無益とは思われていないと自惚れてもいいかもしれない。あるいは、無益とわかっていながら、他の有益な情報をより濃く味わうために筆者のブログが役立っていると思われているか。それはともかく、筆者は毎日2時間ほどを費やして長文を書くことを、全くの無駄と思いながらも一方では何かの役に立っているかとも慰めている。『持続は力なり』といったありふれた言い方はしたくないが、3000日も連続投稿していると、それは持続と言えるし、それなりに饒舌力は身について来ている。饒舌であるからには何の役にも立っていないと思うべきだが、人生が有益か無益かと言えば、無益も多分にあると思えるような世代には、筆者の文章はひとつの真実味をたたえていると思い込むことも許される。だが、最初に書いたような、有益な情報だけ取り入れようと主張するような人物には、まず筆者は理解されない。それに筆者も理解してほしくない。第一、理解出来るはずがない。繰り返すが、筆者にはそのコラムこそがゴミの最たるものに思えた。だが、これは謗りではない。ゴミはゴミで有益なのだ。豚に真珠、猫に小判といった諺からわかるように、ある人にはゴミでも別の人には宝であったりする。何が有益で無益かは、本人が決めるべきで、また決めたとしても将来も同じ考えのままかと言えば、そうではないのが人間の不思議で面白いところだ。かつてゴミと思っていたことに有益と開眼させられることはよくある。筆者くらいの年齢になると、以前関心がなかったことに首を突っ込もうという思いが旺盛になる。余命が少なくなって行くことが実感出来るので、今のうちに気になっていたことを納得しておきたいという本能のなせるわざだろう。これを展覧会で言えば、興味をあまり持てないようなものをわざわざ見に行くことだ。これは学ぶ意欲というほどのことでもない。単なる情報収集で、知識と言えるほどのものに至らない。だが、まずは情報に接し、関心の芽をたくさん増やしておく。
 今日取り上げる展覧会は、先月2日、京都市北区の大谷大学博物館に見に行った。当日は雨で、近くにある売茶翁を顕彰するために建立された石碑も見た。午後には京都駅に出て、仕事帰りの家内と落ち合い、また展覧会を見た。それについては後日書くかもしれない。さて、伊能忠敬の地図展を見て来たと家内に言うと、昔伊能の生涯を描いた映画を一緒に見たと言う。すぐに筆者は思い出せなかった。それほどに印象のうすい駄作であったことと、伊能忠敬にあまり関心がなかった。伊能について小説家の井上ひさしが評伝を書いたことを、死んだ友人Nから昔聞いた。そして、その本を筆者がもらうことになっていたが、そのままになった。もらっても読まなかったかもしれない。Nはとても感動し、伊能の努力の壮絶さを絶賛した。それはわかる。伊能のことは小学校で学び、その時すでに筆者は人間技でないその根気の強さに圧倒された。筆者は我慢強い方と思うが、伊能のそれに比べれば小さい。昨日比叡山の千日回峰を二度達成した阿闍梨が亡くなったニュースがあった。90近い年齢まで歩き続けたその距離は伊能より多いのではないか。歩くことが健康によいことは誰でも知ってはいる。だが、ついついそれを億劫に感じ、車でさっと移動する。リニア新幹線はその思いが極端化したもので、いずれ人類は足が退化し、蛸のようになる。それはどうでもいいが、伊能の偉業が昔からわかっているのに、今ひとつ筆者が強い関心を抱けないのは、伊能が東京の人であるからのような気がする。それがと言いたいのではないが、伊能の先人は大阪の天文学者たちで、彼らの名声が伊能に比べるとあまりにも小さいのに、伊能ひとりが絶大に評価されていることに、筆者は面白くない。暦は代々京都の土御門家であったか、とにかく公家が発行する権限を持っていて、暦作りと切っても切れない天文学は上方で発達した。しかも資産に余裕のある商人がその研究に携わった。そうした者は江戸幕府が放っておくはずがなく、江戸に呼び寄せる。そこで伊能がそうした師に就いて学び、やがて途方もない計画である日本の全図の測量に踏み出す。つまり、下地を作ったのは上方、特に大阪の学者だ。これが看過されていはしまいか。その風潮はその後200年経った現在でも変わらないように思う。日本的成功を掴むには東京に出ねばならない。出世とは東京で認められることだ。筆者は東京に背を向けた富士正晴に関心があるが、その理由は言うまでもない。井上ひさしの伊能伝に大阪の天文学者たちの業績がどのように評価されているか知らないが、たぶん低いだろう。そう予想するだけに、なおさらNに本を貸せとせがむ気になれなかった。
 今回の展覧会の目玉は、チラシ裏面の説明にあるように、フランスで1970年頃に見出された「伊能中図」で現在は日本写真印刷株式会社の所有となっている。同じものは東京国立博物館に重文として収まっている。どういう経緯でフランスにわたったのかはわからない。東博本の副本で、同じ大きさをしている。どのようにして制作したかと言えば、下に紙を置き、本図の上から針で各地点を下の紙に写し取った。どちらが正本であるかどうしてわかるのは知らないが、来歴からして東博本が正本であるのは間違いないのだろう。また、針突きの方法で複製を作る場合、紙を何枚か重ねることが出来るから、あるいはさらに副本は作られたかもしれない。「中図」とは、「大図」(36000分の1)、小図(432000分の1)対して、中間の縮尺の216000分の1で、全8枚から成る。ついでに書けば「大図」は214、「小図」は3枚だ。今回の展示は、前期と後期で8枚を展示し、筆者が見た後期では幸いなことに京都大坂が含まれた。嵐山を伊能の測量隊がどのようにして測量したか、どの道を歩いたか。これに興味を持ったのはいいが、平らに置かれた地図はとても大きくて、嵐山地区はガラスの上にかなり乗り出して屈む必要があった。それに、展示室はかなり暗いのに、地図の文字は細かく、びっしりと密集している。あまり視力がいい方ではない筆者は、数分凝視し続けて、ようやく文字が読めたほどで、それでひとまずは満足して会場を出た。すると、出口の傍らにテーブルがあって、そこに「中図」のすべてを拡大して見られるノート・パッドが2,3台置いてあった。それで早速嵐山を画面中央に表示し、指を広げて地図を拡大した。初めて使うノート・パッドだが、要領はわかる。前方10メートルは入口で、女性係員がいるが、下を向いている。その瞬間筆者は手提げ袋からカメラを取り出し、画面を撮影した。それが今日の最初の写真だ。2枚目は淀川でつながった京都と大坂(摂津と河内)だ。ノート・パッドの地図を撮影することは禁止されてはいなかったと思うが、わざわざ訊いて拒否されればつまらない。見つかればその時のことと考え、咄嗟に行動した。
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 さて、最初の大きな写真は、左が北だが、中央下に「法輪寺門前」とある。ここがわが自治会の区域だ。その右隣りは「上山田村」そして次が「松尾社」となっている。「法輪寺門前」は現在の阪急嵐山駅とみなしてひとまず差し支えない。そして「松尾社」は松尾大社で松尾駅はそのすぐ東だ。嵐山駅から同駅まで1キロ少しで、伊能は山沿いの曲がりくねった旧街道を歩いたから、もう少し距離はある。歩いた道筋は赤で示されている。また写真左下隅に向かって斜線が集中しているが、それらの線を集めるのは愛宕山の頂上だ。伊能は現在の京都市内を愛宕山を起点に各場所の方位と距離を測定した。比叡山はもっと高いが、伊能はその山頂をもっぱら湖西や湖東を測量するのに使った。もう少し写真の地図を説明すると、「上山田村」から東すなわち上に少し延びる赤線がある。途中で水色の桂川をわたる。わたった先に「西梅津村」とある。川をわたるとは橋があったためで、その橋は山田橋と呼ぶが、当時は松尾橋がなかったか、あっても山田橋より利用頻度が少なかったはずだ。「西梅津村」に向かうことがなぜ必要であったかだが、そこは旧四条通りの終点であった。現在の四条通りは松尾橋を東へとわたったバス停の松尾橋付近で、これは「西梅津村」よりを罧原堤を500メートルほど南下する。渡月橋から松尾橋までは、桂川は大きく蛇行し、また距離も長いので、その中間の山田橋があればとても便利だが、国土交通省は橋を架けるつもりはないだろう。山田橋は川幅が最も狭いところにあったはずで、そこは土砂が堆積しやすく、現在は中ノ島に匹敵する大きな中洲が出来ている。それを浚渫しなければ下流が洪水の際に浸水すると思えるが、堤防を高くしてそれを防ぐ方法で時代は進んで来た。さらに土砂が溜まればまた堤防を高くし、やがて天井川になる。はるか上空を桂川が流れ、堤防のあまりの高さに水の流れが地上からは見えないことになっても、その滑稽さに気づかないとすれば滑稽だ。地図中の赤い三角は寺院、黒丸は郡界、白丸は宿駅、星印は天測地点で、嵐山松尾間の書き込みがかなり物足りない気がするが、「中図」としての縮尺の書き込み密度の限界まで情報は詰まっている。それほどに現物は文字が微細だ。これを日本全土に適用しているが、やはり京都から大坂にかけては特に文字が小さく、また隙間なく埋まっている。これは辺鄙な田舎ほど、村名の表示が大きくてわかりやすいことを意味している。「大図」で嵐山界隈がどのように表示されているかを知りたいが、これはどこで見られるか。本展の他の展示物の、古地図好きには嬉しいものばかりだろう。伊能の記念館からは、伊能の像や測量に使った「御用旗」、日記や手紙といった国宝が10数点、それに大谷大学博物館が所蔵する蝦夷、越後、加賀、越前、美濃や伊勢などの古地図、さらには個人蔵の日本が描かれた外国の地図も展示された。それらの地図は科学的に精確ではなく、現在では地図の役目を果たさないと言えるが、無益かと言えばそうではない。無益有益は時代によって変わることがあるし、それよりも人によりけりだ。古地図に興味のない人は本展を見ないが、興味がなくても、部分的に興味を持てる場合があるし、そこからまた新たな興味がつながる場合がある。要は読み取り能力の多寡で、これは一見無益と思えることも飲み込んでいる者の方が強い。
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by uuuzen | 2013-09-24 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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