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●『魔法の美術館』
えが悪いのかいいのか、1か月ほど前のことを思い出して書くとなると、ネタに困るかと思うことがないわけではない。撮って来た写真の中からブログに載せるために選択し、そして加工した後、その枚数が多ければ2回以上に分けて投稿するし、6枚ほどまでなら1回で済ます。



●『魔法の美術館』_d0053294_210538.jpgただし、カテゴリーにもよる。今日取り上げる展覧会は、初めて訪れた明石市立文化博物館で8月17日に見たが、これは1回分の投稿で間に合う。「明石にて、その4」という題名でもいいが、展覧会の感想に関しては別にカテゴリーを設けている。ところで、同カテゴリーへの投稿は今年に入ってからあまり熱心にはなっていない。面白い展覧会が少ない気も少しはするためか、数年前に比べると見る頻度も落ちたかもしれない。だが、1か月以上前に見たものであっても、まとめて連続投稿してもよく、今日の投稿をその突破口にしてもよいかと考えてもいる。話を戻すと、ある時を過ごしたとして、その思い出が他のどの時とも同じほど強く残るかと言えば、そうではない。粗と密があって、密なる思い出を人間は求めたがる。この粗密は、感動の度合いによるかと言えば、案外そうでもない。ある映画を見て大いに感動しても、1年経たずしてすっかり忘れることがあるし、さして感動もしていないどころか、意識すらしていなかったことが、何年経ってもひょいと思い返されたりもする。だが、何かに接して即座に感動出来るものに人間は喜んで金を支払う。そういうものが人を幸福にすることであり、また「アート」とも呼ばれるようになっている。簡単に言えば俗受けするものだ。TVの視聴率と同じようになって来た。多くの人をすぐに感動させるものが「ホンモノ」と思い込んでいる人は多いし、文化に税金を投入するにしても、そういうものが優先される。大阪市長の考えはそうと言ってよい。税金を使う立場であるので、それも仕方のないところはある。もうかなり以前だが、ヨシモトの営業を担当する有名な人物がヨシモトを辞める前だったか、「われわれはただ金が儲かればよく、芸術性云々はその筋の人が勝手にやってくれればよい」と、何度かTVで発言した。それはそれで潔い考えで、ヨシモトを辞めた後にどんな活躍をしてくれるかと思っていたところ、すぐに消えた。ヨシモトにいた時はその会社の名前で評価されても、独立すると誰も相手にしなかったのだろう。前掲の発言は金儲け集団のヨシモトを暗に批判していたのかと思えなくもないが、それは穿ち過ぎだろう。
●『魔法の美術館』_d0053294_23535983.jpg 芸術家は作品を売って生活する。そうでない人も多いが、そういう人でも理想は自作が高値で売れて、あまり製作費のことを心配せずに制作が出来ることだ。「作品が売れる」とは、作品をほしいと考える人があることだ。その理由はさまざまでも、作家の名前を知らずに純粋に作品に感動して購入する人は少ないだろう。たいていは作家が有名であることを前知識として持っている。数千円といった程度の額ならば話は別だが、ちょっとした作品では数十万はする。それほどのものを買うとなれば、資産的な価値を期待するのは人情だ。そこで、作家は有名になろうとして、公募展に出品したり、何とか会といった団体に所属したり、また個展を毎年のように開く。この有名度レースは、TVの視聴率競争と同じで、多くの人に存在を知られる者が勝ちという考えだ。だが、単に名前だけ知られて実態についてはさほどという場合は往々にしてある。たとえばビートルズだ。今でこそ、20世紀を代表するロック・アーティストと評価されているが、そのことを真顔で言う人もビートルズの全曲を知っているかとなると、そんな人は1000人にひとりもいない。周りが騒いで評価しているから、それにとりあえずは乗っておこうという主体性のなさだ。それでも当人はビートルズによってごくわずかでも楽しんでいるから、やはり有名になった存在の意義はそれなりに大きい。この有名に関してややこしいことがある。前述のように、見てすぐに感動したのに、1年経たずしてさっぱり覚えていない作品がある一方で、まだ見てはいないが古典として評価されている膨大な作品だ。この古典はいつでも最新の人気作として蘇る可能性を秘めているが、今この瞬間でも新作が生み出されていて、どうしてもその勇ましい姿に比べると埃を被ったようで分が悪い。そこで大阪では漫才の方が文楽より有名で価値があり、税金も使うべきだという見方が生まれる。それに、一旦有名になり始めると、評論家が待ってましたと賛辞を送り始めることもある。有名なものについて書く方がそのおこぼれに与るからで、そういう一種の寄生職業にも有名度レースがある。古典を等閑視することは、過去を忘れることで、なるほど日本らしい。その一方で国の古さは誇示したいのであるから、矛盾している。それはともかく、たいていの人にとって、有名度レースはTVの視聴率がどうでもいいことであるのと同様、関心はない。関心があるのは有名度によって生活の質が激変する芸能人や、またTVに出る文化人、政治家だ。そこでは売名のためのあらゆることが行なわれる。そして、人気の出ない者は、結局は才能がないとみなされるが、売名のための才能がないだけであったと自分を慰める手立ては残っているから、相変わらず細々と当人は活動を続ける。それを貧者の芸術と名づけてもよいが、芸術の神は太っ腹で、そんな貧者にも微笑む。
●『魔法の美術館』_d0053294_2354623.jpg

 有名になれない作家は有名になる魔法があるのかと考えることもある。オリンピックの選手がドーピングするのは、それが自分の異様な力を出させる魔法の薬であるからで、悪いこととの自覚はないのかもしれない。魔法に手を染めるとその果てがどうなるかは、西洋の古典にはよく出て来る。錬金術から化学、そして科学という道筋もあり、今では科学実験での意外な驚きを利用して子どもを勉強好きにさせようという考えも目立っている。魔法にはタネも仕掛けもあって、子どもでもそれをよく知りながら、心をわくわくさせてくれる娯楽として積極的に楽しもうとする。マジシャンは芸を見せる人で、芸術家とは言えないようだが、マジシャンの脈々とした歴史があって、最新のマジックがあるわけで、マジック全体としては芸術の域に達している。その最新のマジックは、筆者はよくは知らないが、コンピュータをあらゆるところに使っているだろう。それを使わない古典的なマジック芸はもちろんあるが、大がかりなショーとなれば照明、音響その他、コンピュータは威力を発揮する。そのコンピュータをアートに取り入れる動きはコンピュータの登場と同時に始まったと言ってよく、80年代にはコンピュータで作り出したグラフィックが流行した。その延長にそれなりに多様なアートが生まれて来たのだろうが、筆者はあまり関心がない。前置きが長くなった。今日書く展覧会は題名にあるように、魔法という言葉を連想させる。夏休みの企画であるので、親子で大いに楽しんでもらいたいという趣向だ。これはこれで悪くない。筆者がこの展覧会を見たいと思ったのは、一昨日書いたように、NHK-TVでの紹介があったからだ。やはりTVの威力はある。視聴率合戦をするのはあたりまえだ。TVでは情報番組が花盛りで、筆者も多少はそれに感化されて、実際に出かけてみようと思うことがしばしばある。これは有名度レースの仕組みにまんまと乗せられている。
●『魔法の美術館』_d0053294_23543373.jpg

 NHKの紹介ですぐに行きたいと思ったのは、これも先日書いたように、以前国立国際美術館で見た作品の新作が出ているからだ。その作家名を調べるのにとても手間取った。印象深い作品であったから、ブログに作家名を書いておくべきが、それをしなかったのは、高尚な芸術といった感じではなく、映画や遊園地を楽しむような娯楽と思ったからで、作者名はどうでもよいと思ったからだ。本展がどこで開催されているかを調べるために、どうしてもその作家の名前を知る必要があって、ようやく「クワクボリョウタ」という名前を探し当てたが、本展のチラシには「パーフェクトロン」という表記になっている。また、展示場所が国立国際美術館に比べて半分ほどだったためか、あまり感動しなかった。これは最初に見た時の感動が大きく、同じ趣向のものを見てもさほどではないからかもしれない。ここに、こうした作品の発展の難しさがある。お笑い芸人も今は一発屋がほとんどのようになっている。そのことと関係もあるか。展示は11で、大半は部屋を暗くして鑑賞する。というより、体験する。古典的な美術との違いは、動かない作品を目の前にして鑑賞者が移動するというのとは違って、作品そのものがめまぐるしく様相を変え、また鑑賞者の動きに反応する。参加型のアートで、遊園地に近い。あるいは今の若者にとってはコンピュータ・ゲームだ。そういう新時代の遊びを知らない老人にとっても本展は楽しいだろう。ただし、それだけで、後はマジックのタネがどうなっているのかと考えるのと同じで、仕組みに思いを馳せる。どの作品も小さな子がはしゃいでいて、そこに筆者のような世代が混じるのはかなり場違いの体験で、そっちの方が作品そのものの驚きより大きかった面もある。実際、ほぼすべてが小学生連れの親子で、会場内部は縁日のにぎやかさであった。いくつかはそのまま京都の新京極のゲーム・センターで見せればよい。11作品のうち、NHKの紹介でちらりと見て記憶に留めたのは、先の「パーフェクトロン」と、今日の2枚目の写真だ。これは、直径3,4メートルの帆布の中央部の窪み上に光を透過するカラフルなビー玉状のガラスが置かれ、帆布の下に潜って手でそのガラス玉を寄せたり散らしたりするもので、ただそれだけだが、二度と同じ形にはならず、また色ガラスの光を透けさせる効果が楽しい。
●『魔法の美術館』_d0053294_23545383.jpg 会場全体が暗く、どの作品も光を用いている。一昨日の3枚目の青い絞り模様に見える作品は、大きな壁のパネルで、人がその前に立って動くと、それに反応して部分が光り、また音を発する。これも二度と同じ形状や音は得られない。人の動きに反応するセンサーあっての作品で、タネを知れば何だと思うが、実際に装置を作るのは大変だ。こういう機械はたいてい壊れやすいが、11作品は会期中すっとトラブルを起こさずに済んだのだろうか。今日の最初の写真は、「プラプラックス」と呼び、天井からの照明が直径4,5メートルの円形の光を作り、その下に人が立つと、影が時差を遅らせていくつも出て来る。自分のその影を楽しむもので、子どもが運動するにはよい。筆者は突っ立って自分の姿を撮った。3枚目は先月中旬、白い花の写真を各地で撮って載せていたことに関連すると思って撮影した。白い羽による回転する花で、小松宏誠の「his philosophy」だ。やじろべえになっていて、息を吹きかけるなど、少しの風でよく動く。大がかりな作品が目立つ中、この作家の作品は小さな動く卓上オブジェで、子どもは面白くないかもしれない。さて、最後の2枚は、ひとりずつスクリーンの前に座ると、自分の顔が中央に映し出され、その上にランダムに落書きが重ねられる。その間隔は10秒ほどか。手で自分の顔の前を払う仕草をすると、次の新たな映像が顔に上描きされる仕組みだ。体験はひとりずつなので、この作品に最も長蛇の列が出来ていた。それでも10分ほど待てばよい。それほどにひとりずつの割り当て時間が短かった。たぶん1分だろう。家内が先に座って筆者が背後で撮影、そして交代したが、筆者夫婦のような年配者はいないので、待っている若い親子は白けていたのではないか。ま、高齢者も笑って楽しめる作品で、筆者はこれが最も印象に残った。筆者の場合だけ、どういうわけか悪魔やドクロの顔になったが、これはこれで気に入っている。残念なのはスクリーンの明るさが今ひとつで、撮影した写真は全体に暗かった。それをどうにか見られる程度に加工した。筆者も家内も本当の顔がわからないほどに作家が予め描いた顔がうまく収まっている。作品名は「happy halloween」で、これはなるほどだ。真鍋大度と比嘉了の作品だ。80年代に流行ったプリクラはその後進化しているが、それに着想を得たものだろう。魔法のようでいて、タネも仕掛けもちゃんとあって、今ではコンピュータの知識と何が面白がられるかという調査が造形作家には欠かせない。それと売り込みもあるか。
●『魔法の美術館』_d0053294_23551857.jpg

by uuuzen | 2013-09-20 23:56 | ●展覧会SOON評SO ON
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