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●『パウラ・モーダーゾーン=ベッカーとヴォルプスヴェーデの画家たち』
今日は神戸方面に出かけて3つの展覧会を観る予定だったが、ふたつだけに終わった。出かけたのは午前11時。もう2時間早く家を出ていれば3つこなせたが、小雨が降り始めたのに傘を持っていなかったし、それに体力が持たなかったかもしれない。



●『パウラ・モーダーゾーン=ベッカーとヴォルプスヴェーデの画家たち』_d0053294_1544418.jpg今夜はふたつ目に観たこの展覧会について書く。副題は『素描と版画1895-1906』で、これはパウラ・モーダーゾーン=ベッカーに関してのことだ。パウラに関しては2年ほど前に京都市中央図書館で評伝を借りたが、最初の方を少し読んだだけで返却し、その後図書館にぷつりと行かなくなったので、全部読み通していない。著者は女性で、発売されてまだ間もなかった。こうしたマイナーな画家に光が当てられるのは珍しく、それで見つけてすぐに借りたのだった。パウラの油彩画は複製で昔に観ているが、今回は素描と版画だけやって来た。油彩画は11月から宮城県立美術館で『パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展』としてまとめて展示されるようだが、残念ながら関西には巡回しない。パウラは画集では大抵ドイツ表現主義の先駆者のひとりとして挙げられている。女性というのが珍しいが、31歳で夭折しているので作品は多くはない。にもかかわらず、ブレーメンでは彼女の名前を冠した美術館がある。女性画家の名前を持った美術館としてはドイツで唯一らしい。今回の展覧会は同じ内容で世界中を巡回しているもので、ちょうど今年と来年が「日本におけるドイツ」であるため、それに合わせたような形で、前述の本格的な展覧会とともに、日本でも展覧されることになった。図録が3000円と高かったので買わなかった。伊丹市立美術館2階のふたつの部屋を使用しての展覧で、作品数は多くなく、パウラに限ればさらに数えるほどだ。休日にもかかわらず、入場者はまばらであった。モーダーゾーン=ベッカーの名前を聞いて即座にその作風が思い浮かべられる人は、昨日書いたホルスト・ヤンセン以上に少ないかもしれない。油彩画が1点も来なかったので、本当の才能を感じるには物足りない展覧会であったが、パウラがモーダーゾーン=ベッカーと名乗ることになる結婚をするのは、ブレーメン近郊の沼沢地のヴォルプスヴェーデに滞在したことがきっかけであるし、同地にはアカデミズムに反旗を翻して集まった若い画家たちが住み、4年前に日本で大きな展覧会が開催されたハインリッヒ・フォーゲラーもその中のひとりであったことなどから、ヴォルプスヴェーデの画家たちの作品と一緒にパウラの作品がこうして小展覧会として開催されるのは、彼女の特異性を理解するにはかえってよいかもしれない。
 ヴォルプスヴェーデは標高56メートルの見晴らしの利く小高い丘があって、そこから周囲を見わたすと、ずっと平原が広がる牧歌的な田舎だ。現在人口約9300だが、交通と観光用の鉄道が整備されたのは1910年以降で、38年に橋が架けられる以前はわたし舟しかなかった。この地を最初に発見して定住を決めた画家は北ドイツの小さな村に1866年に生まれたフリッツ・マッケンゼンで、ハンス・アム・エンデやオットー・モーダーゾーンといった同世代の画家と1894年にヴォルプスヴェーデ芸術家協会を結成する。今回この3人の銅版画が数点ずつ展示されていたが、みなよく似た作風で、最若手として同協会に参加したフォーゲラーの緻密な技法と共通している。この時期のフォーゲラーは世紀末のユーゲントシュティールの匂いが濃厚な作風だが、先輩格の3人はもっと自然主義の側面が強調され、フランスのバルビゾン派を連想させる。マッケンゼンは農夫をモチーフにした作品が今回は主になっていたが、それはどこかしらケーテ・コルヴィッツの作品に連なるものを感じさせた。彼女はマッケンゼンの翌年の生まれで、生まれも北ドイツから近いバルト海沿いであるので、それも当然かもしれない。そう言えば昨夜書いたホルスト・ヤンセンはハンブルク生まれで、この都市はブレーメンとは数十キロしか離れておらず、フォーゲラーとは作風がどこか似ている。それはさておき、マッケンゼンにはコルヴィッツような社会に抗議する強い調子はない。もちろんアカデミズムを拒否して田舎住まいをしたので、60年代アメリカのヒッピーのようにそれなりに反骨精神はあったはずだが、作品は田舎の自然豊かな生活の中でただ充足しているように見える。一方、フォーゲラーはヴォルプスヴェーデ時代を経て1914年に志願兵となるが、40歳半ばで反戦思想が芽生え、ついにはブレーメンの社会主義者たちと接触し、やがてソ連にわたってそこで死ぬという劇的な生涯を終える。そんな事情を併せて振り返ると、ヴォルプスヴェーデの画家たち、それに同時代のたとえばケーテ・コルヴィッツの作品の位置というものもよく見えて来る気がする。
 マッケンゼンやモーダーゾーンは、芸術家協会結成の翌年にブレーメンやミュンヘンでの展覧会で成功を収め、一躍ドイツ中で有名になるが、このことによってヴォルプスヴェーデの画家たちの間で軋みが生ずる。そして1899年にグループは実質的な解散を迎える。わずか数年の協会の活動であった。現在マッケンゼンは半ば忘れ去られた画家となっているが、それは今回の展覧会を観ても何となくわかる気がした。絵がよくないと言うのではない。20世紀に入って続々とドイツ表現主義絵画の名作が生まれたから、その直前のナイーヴな自然主義はどうしても霞まざるを得ないのだ。ハンス・アム・エンデの場合も、「夏の夕べ」という横長のなかなか情緒溢れる同版画の佳作や、印象に深い少女の肖像があったが、圧倒的な力が欠けているように思えた。オットー・モーダーゾーンはパウラの夫であったことでしかもう人々の記憶に残っていないかのような画家だが、マッケンゼンとはデュッセルドルフの美術アカデミーで知り合い、アム・エンデと一緒にある年の夏にヴォルプスヴェーデを訪れ、その北方ドイツの特性を持った風土に感激して同地での定住を決めた。フォーゲラーはブレーメン生まれで、前述のブレーメンやミュンヘンでの展覧会に出品し、同年に銅版画を始めた。そして翌1896年に街道に白樺を植え、自宅を「バルケン(白樺の意)ホフ」と名づけるが、98年にフィレンツェに旅行した折りにリルケと知り合う。その後リルケはヴォルプスヴェーデにあるバルケンホフを訪問するなど、フォーゲラーとの仲が深まる。ヴォルプスヴェーデの芸術家集団には女性彫刻家のクララ・ヴェストホフもいて、やがてクララはリルケと結婚する。また、フォーゲラーは日本の白樺派からも注目され、柳宗悦は1911年から13年にかけて何度かフォーゲラーと文通し、同人誌『白樺』の表紙を描いてもらっている。同時期、日本でフォーゲラーの銅版画展が開催され、竹久夢二が熱心に鑑賞したというから、日本とヴォルプスヴェーデの関係はもう100年近く前に遡ることになる。ヴォルプスヴェーデの芸術家の中で国際的名声を得たのはフォーゲラーのみということになるが、前述したように、後半生は社会主義思想が芽生えたことによる作風の著しい変化もあって、正当な評価がなされているとは言い難い。フォーゲラーは銅版画のみならず、油彩画や工業デザイン、建築デザインにおいても卓抜な仕事を残したから、ヴォルプスヴェーデでは飛び切りの才能であったと言ってよい。だが、フォーゲラーの1910年代後半以降30年代頃までの作風は、人物像においてどこかパウラを思わせるところがある。その点でもパウラの先駆的な仕事がわかると言えよう。
 次はパウラについて。以下はまず会場でメモしたものをかいつまんで書く。パウラは1876年にドレスデンで生まれ、88年に一家はブレーメンに移住した。92年にロンドンの叔母の家で7か月滞在し、デッサンの授業を受けた。その後も各地で絵の勉強を続け、96年にベルリン女性芸術家協会の素描・絵画学校に学んだ後、97年夏にヴォルプスヴェーデに初めて滞在した。98年9月に同地に定住し、マッケンゼンの指導を受け、リルケの妻となるクララと親交を結ぶ。99年12月にブレーメン美術館で作品を展示するが否定的な批評を受け、パリ行きを決める。1900年はパリに滞在して学び、セザンヌの絵と出会い、クララとともにパリ万博見物もしている。6月に帰郷し、9月にモーダーゾーンと婚約。1901年1月から2月にベルリンに滞在してリルケと会い、5月に先妻の娘を連れたモーダーゾーンと結婚する。1903年から5年にかけて2度パリに出て、ナビ派やマイヨールに共感し、スーラやゴッホ、ゴーギャンのまとまった作品も観ている。1906年2月にモーダーゾーンとヴォルプスヴェーデから離別してまたパリに行くが、モーダーゾーンはパウラを追い、パウラは1907年3月に戻り、11月に娘マティルデを生む。そして18日後に塞栓症で死亡する。以上の簡単な経歴からでも、画風がおおよそ想像出来るだろう。クララと仲がよかったから、リルケとも親しかったのは当然で、リルケの肖像画も描いている。それはパウラ独特の画風によるもので、似ているかどうかを越えて、何よりおおらかさが伝わる。今回展示されていた版画や裸婦の素描はナビ派を思わせる曲線が目立ったもので、油彩画とはかなり違う印象を与えたが、単純な線で全体を把握している点では油彩に通ずるものがある。それは他のヴォルプスヴェーデの画家たちの繊細でどこか弱々しく病弱な感じもする緻密な絵とは違い、黒人芸術にあるような逞しさが感じられる。そこがまた形を変えて、たとえばキルヒナーといった後のドイツ表現主義の絵画に連なって行く味なのだが、パウラの場合は子どもを生む女性特有の健康的な強さの絵と言ってもよい。ケーテ・コルヴィッツのような社会主義とは関係がなく、またフォーゲラーにあるような耽美的な情感でもない。パウラは写真で見ると美人で、どちらかと言えば痩せていて線は細いようだが、マイヨールの彫刻のようにぽってりとした人物を描く油彩画(あくまで複製を観て)から伝わるものは、大地に根を下ろしたような明るい図太さだ。これは夫と別れてでもパリに行って自分の芸術を追求しようとする芯の強さに表われている。ヴォルプスヴェーデにずっといたままでは、写真そっくりな写実的な絵画ばかり描いていたかもしれず、そうなれば批評家が下したように、よい評価は得られなかったであろう。思い切ってパリに出たのがよかった。それは湿地が多い北方ドイツから、もっと明るい土地への憧れもあったと思うが、それが転機になってパウラの絵も変化した。だが、パリそのものではなく、あくまでもブレーメン、ヴォルプスヴェーデという土地と強くつながったところから生まれ出て来た芸術であり、そこがドイツ国内でも根強く評価されているゆえんなのであろう。会場の年譜をメモしながら、もしパウラがナチが政権を執るまで、つまり後26年生きていたならば、どういう作風に変わって行ったかを思った。その頃娘はとっくに成人し、パウラの芸術も年輪を重ね、ドイツの新しい表現主義運動の中でどのような反応をしたであろう。
by uuuzen | 2005-10-10 23:49 | ●展覧会SOON評SO ON
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