れっきとした証拠の「れっき」が何かと気になって今調べると、「歴」とあった。なるほど。「歴」は「はっきりしている」という意味で、「歴史」は「はっきりとしている史実」ということになる。ところが、この「はっきりとしている」はなかなか難しい。
目の前に見える「物」があればいいように思うが、それが昔の本物ではなく、贋作である可能性もある。「物」ですらこうであるから、昔の出来事など、それが本当に起こったことであるかを誰も証明出来ないと思える。だが、たとえばギリシア時代の彫刻は大勢の人が研究に携わり、本物と贋作は区別されている。つまり、専門家を信じて、ギリシア時代が存在したことを認めねばならない。その場合、ギリシア時代に作られた「物」こそが手がかりで、それらがなければギリシア時代の存在性は保証されないだろう。恐竜の化石が発見されて初めてその恐竜がかつていたことがわかる。化石が絶無であれば恐竜時代のことはほとんど何もわからない。そう考えると、ある時代に作られた「物」の大切さがわかる。「物」はないが「言い伝え」はあるという場合もある。それは「物」よりも証拠性に乏しいようだが、人間は自由に動けるとはいえ、ほとんどの人は比較的狭いところで集団生活を行ない、世代を重ねるから、「言い伝え」はある程度正確に昔のことを知らせてくれる。また、その言い伝えは紙に書かれたり、石に文字が刻まれて伝わる場合は「物」であって、「物」は人間社会にとってはきわめて重要だ。さて、話が変わる。今日は冒頭に「れ」を使った。先ほど冒頭の一字を探していると、「チ」を二度使っていたことを知った。それで二度目のその冒頭の「チ」をほかの文字に置き換えることにした。それで片仮名を「ア」から順に調べて行くと、もう未使用の文字がなかった。そこで平仮名に移って今度は反対の「わ」から調べると、「る」と「れ」が未使用であることがわかった。それで二度目使用の「チ」は「る」に換え、冒頭の文章も少し手を入れた。そして今日は「れ」だ。「れ」で始まる言葉は何かを考えると、すぐに「れっき」を思い出したが、「歴」では「れき」と読むべきで、それを「れっき」と覚えているのは大阪弁での抑揚がそうであるからだろう。それはともかく、冒頭の一字を毎日順にデスクトップのメモ帳に書き加えているので、以前に使った文字かどうかの検索はすぐだ。
それにしても「チ」を二度使っていたことを偶然知った。他にも二度使用文字があるかもしれないが、全部調べ直すのは大変なので、いつかまた運よくわかる機会まで待つ。「チ」の二度使用をたまたま知ったのと同じように、比叡山延暦寺の東塔にある「萬拝堂」の玄関脇の柱に「角大師」の版画を運よく見かけた。この貼り紙にどのくらいの人が気づくだろう。100人にひとりくらいだろうか。また、気づいたとして、それが何を意味するのか知りたい人は10人にひとりいるだろうか。いたとして、それがどこで手に入るかを建物の中に入って質問し、実際に買いに行く人は10人にひとりいるだろうか。誰でも興味あるものしか見えていないもので、たくさん学ぶ人ほど多くの物事が見える。とはいえ、そのたくさんのことが浅く広くでは雑学者と言われるのが落ちで、誉められたことでもない。筆者は浅く広くとも言えないので、そんな呼称をもらうことも無理だが、気になった物事は納得行くまで調べる方で、その気になる物事はなくなる気配がない。その点ではこれからの老後を退屈して過ごすことにはならないから半ば安心しているが、「物」が増え続けることは困る。「角大師」の版画を元三大師堂で買ったのはいいが、当日得たチラシ類に紛れ込んでいる始末で、いつかそのまま捨ててしまうことになるだろう。紙類は容易に紛れ込むので、保存に困る。数年経って探そうとしても、あまりの紙資料の多さにとても見つけられない。そしてたぶん捨てたのだろうと諦めるが、また数年後に運よく見つけることがある。そんなずぼらな生活をしているから、せっかく買った「角大師」は玄関脇に貼るのが一番だが、絵柄が不気味で、またA4サイズの大きさはあまりに目立つ。それに貼るのにふさわしい柱はない。そうでなくても変わっていると思われている筆者であろうから、「角大師」を表に貼ると「ついに来たか」と近所の噂になる。ま、それほどにこの「角大師」は京都市内でもめったに見かけない。それだけ比叡山が縁遠いのかと思うが、「角大師」の版画は今NHKの連続ドラマでも話題になっている新島譲の居宅のすぐ近くにある蘆山寺でも入手可能のようだ。この寺は御所の東中央に面し、筆者はその前を何度も歩いたことがあるのに、まだ入ったことがない。「角大師」の版画を得るのに比叡山に上らなくても、この寺で買えるのであれば、もっと早く手に入れていたものを、その知識がなかった。
さて、元三大師堂はよく手入れがなされ、とても清潔だ。寺とはどこもそういうものだが、車の往来が多い大通りに面したところでは埃っぽいたたずまいになっていることが少なくない。さすが比叡山の横川であって、風呂上りのさっぱりした様子をまず感じた。これがよい。月並みな表現になるが、心が洗われる。普段からそのような気持ちになるには、まず身の周りの整理と家屋や庭の清掃だ。それを毎日しっかりやれば、寺並みとまでは言わないが、いつ誰が来ても内部に招き入れられる程度の清潔さは保てる。それを自覚していながら、筆者はどの部屋も「物」で散らかり放題で、それが日々悪化している。「よく学ぶ」ためにたくさんの「物」が必要と考えるのは、どこか間違っているのかもしれない。話を戻す。昨日の最後の写真からわかるように、門を入って真っ直ぐ進むと20メートルほどで本殿だ。前庭は中央の道の両側は白砂が敷かれ、そこには踏み込めないようになっている。また、本堂のすぐ前以外は植木はなく、中央の道を踏み外す人はまさかいないが、本堂に向かってのこの道を進むのは緊張感があってよい。本堂のすぐ前に来て見上げると、軒下に大津絵を描いた木製の額が左右に3点見える。麓の住民がお金を出し合って奉納したもので、「明治25年8月中旬」の文字が見える。120年ほど前のもので、奉納者は全員この世にいない。だが、奉納者の名前が記された「物」としての額が残されている。これからもよほどのことがない限り、それはそのまま保存されるから、寺へ奉納することはその人物の存在を後世に伝えることになる。そのことを知って120年前に地元滋賀県人たちが大津絵を奉納したのでもないが、この寺を愛し、何かを奉納したかったのは確かで、そういう思いを現在の人たちがどれほど持っているだろう。筆者は「角大師」の変わった絵柄に関心を抱いてその現物を1枚ほしくなっただけのことで、特別にこの寺に愛着があるのでもない。「角大師」を500円で買ったことは、わずかでも寺に貢献したことになろうが、「角大師」の護符の販売だけで同寺の運営が困窮を来さないことはないはずで、いったい どのようにして収入があるのかと妙な心配をまたもやしてしまう。
靴を脱いで上がると、左手にとても小さな売店がある。今日の最初の写真からわかるように、部屋の奥行きはきわめて短く、障子で隔てられた向こう側には入れない。売店には若い男の僧と、中年の尼僧がいて、「角大師」そのほかの記念品を扱っている。版画は二種あって、どちらも大小が用意されている。どれも500円なので、「角大師」の大を1枚買った。それで用が済んだ。ぽつぽつと人はやって来るが、「角大師」を買ったのは筆者だけだ。「角大師」の版画以外に見るものがほとんどなく、またゆっくりとする場所もない。また、版画とは厳密には言えない。1枚ずつ版木で刷っているのは蘆山寺であるらしく、本家の元三大師堂ではたくさん売れるからだろうが、完全な印刷だ。そのため、こうした歴史ある護符を収集している人には物足りない。地道のネット・オークションで待てば、戦前に刷られた木版画のものが入手出来ると思うが、そこまでの趣味は筆者にはない。「角大師」が山積みされている真上にガラスの額入り状態で昔の木版画の「角大師」があった。その写真が今日の3枚目だ。これは東京に住む人からの寄付で、同寺にも古いものが残っていないようだ。この額入りのものがいつ頃刷られたかはわからないが、江戸期のものだろう。売店とは反対の堂内右手に進むと、古いお札を処分する大きな箱が置いてあった。中を覗くと、「明石郡 清水寺」の「角大師」があった。その寺がどこにあるか知らないが、わざわざ「角大師」の本家の元三大師堂に持参して処分をお願いするのは、筆者の想像を超える信心深さだ。そのような人がいることでこの寺は健在であり続ける。「角大師」を玄関に貼る家を京都市内でほとんど見かけないが、比叡山の麓に近い北白川辺りではそうでもないかもしれない。筆者が住む嵐山からは比叡山よりも愛宕山が間近だ。そこにも有名な護符がある。「火の要慎」と書いたお札で、これの大きいものは山に上って神社で求めねばならない。そして、京都の有名な料亭を初め、この大きなお守り札を台所に貼る家は多い。台所は他人にはあまり見せないので、「火の要慎」の護符を貼りつけることに抵抗はない。一方、「角大師」は文字ではなくドクロ張りの奇妙な絵で、しかも表玄関に貼る。これでは消極的になる人は多いのではないか。筆者はそのほかの理由として、貼れば1年で効力が失せ、また元三大師堂に行って新しいものを求めねばならない手間が億劫であるからだ。だが、そんなことを億劫と言ってはばちが当たる。神頼みは真摯であるべきで、毎日思い続け、護符の効力が失せる頃には、心を改め、また新たなものを時間をかけて買いに行かねばならない。玄関に貼られて1年経つと、「角大師」は黄ばむなどするから、それが効力を失ったことは歴然とする。やはり「物」は正直だ。