頂上はかなり涼しいのかと思ったが、地上と変わらぬ暑さであった。標高850メートルほどの比叡山ではそれは当然かもしれない。家内の夏休みが8月に少しあって、どこかへ行こうということになった。だが、休みがとびとびなので、日帰りしか出来ない。
どこへ行きたいかと訊くと、暑いので涼しいところ、そして比叡山に上ったことがないと言う。それで決まり。16日に行って来た。今日から数日はそのことについて書く。筆者は比叡山に車で三度上ったことがある。だが根本中堂の中には入ったことがなかったので、今回はそれを経験しようと考えた。比叡山に車で上った三度のうち、最後は息子の車で聖衆来迎寺に行った帰りだ。そのことはこのブログに書いた。今調べると、
8年前の同じ8月16日だ。比叡山に車で上るには、滋賀の坂本川と京都の北白川側とがある。またどちらにもケーブル・カーがあると言いたいところだが、京都から上るには八瀬まで行かねばならない。八瀬は嵐山に住む者からすればかなり遠方だ。車があれば京都盆地の北部をぐるりと回って行けばよいが、今回は家内とふたりで行くから車はない。どうしてもケーブル・カーを利用せねばならず、どちらの側から上ろうかと考え、坂本に行くことにした。それは比叡山の表玄関が坂本であるという理由と、8年前に息子の車で坂本から比叡山の頂に上ったことをよく覚えているからでもある。もうひとつ理由を言えば、半年ほど前だろうか、NHKの関西のちょっとした見どころを紹介したTV番組で、坂本が取り上げられ、一度歩いてみたいと思ったからだ。ところで、家内の姪は近江八幡に住んでいるが、結婚して滋賀県に住もうと決めた時、最初に家を探したのが坂本であった。次に瀬田、そして草津、ついには近江八幡となって、どんどん京都からは遠くなった。その一番大きな理由は、地価だ。30数年前は京都市内から瀬田に家を買って引っ越した知人があった。その場所は文化ゾーンまで車で10分ほどの便利なところで、価格もさほどではなかった。それがどんどん地価が上昇し、今ではとても若いサラリーマンでは新築を建てられないという。姪夫婦が坂本に住まなかったのは地価もあろうが、最初の印象がえらく陰気臭く、長く暮らすには不適と思ったからだ。
比叡山の上り口で、また日吉神社を抱える坂本は古くからの住民が大半ではないだろうか。琵琶湖が前に迫るので、新興住宅用の土地がないだろう。それで坂本よりもっと北部がどんどん開発されて来た。瀬田や近江八幡ではなく、湖西の北部でもよいように思うが、坂本を陰気と思うのであれば、それより北部も似たようなものだろう。湖西は土地が狭く、背後にすぐに山が連なるので、広々とした土地のある湖東と違って、陰陽で言えば陰に当たる。ま、筆者は滋賀県をよく知らないのでこんなことを書くのはまずい。さて、坂本はその名のとおり、琵琶湖岸から比叡山に向かってなだらかな坂が続く町で、「坂本」の「本」はどのような古い町にもある「本町」の意味合いだろう。息子の車でさっと走り抜けただけであるので、印象らしいものはないが、車が比叡山を上って行くというその矢先、右手に日吉神社の大きな朱色の鳥居が見え、そのいかにも歴史を感じさせるたたずまいが、車窓から1,2秒の間見えただけであるのに、とても強烈であった。つまり、坂本と言えば日吉神社で、その連想は間違いではない。
日吉神社に関する展覧会は大津歴史博物館で2年前に開催された。そのこともブログに書いている。となれば、せっかく初めて坂本の町を歩くのであるから、比叡山に上る前に日吉神社にお参りすべきだが、8年前にちらりと見た時と同じ角度で鳥居が100メートルほど向こうに見えた時、背後に山を控えたその鬱蒼とした雰囲気に恐れをなすと言えばよいか、とても道をわたってその鳥居の前に立ち、中に入って行く気が起こらなかった。それは比叡山に上るのが目的で、寄り道している時間がなかったからでもある。猛烈な暑さの中、あまりふらふらとあちこち歩き回るのは、まず体力的にきつい。それで、さっさとケーブル・カー乗り場に向かった。鳥居から目を逸らした途端、背後から大爆音を鳴らしながら大きなバイクが坂を上って来た。それはすぐに筆者らを追い越し、すぐに山を上って行った。頂上に向かい、それから京都側に下るのだろう。坂本はまるで音のない静かな町で、そこにバイクの轟音はいかにも場違いであった。
坂本の大きな特徴はなだらかな坂だけではない。むしろ日吉神社に至るまでの幅広い道だ。その両側に歩道があるが、山に向かって左、つまり南側の方が歩くにはよいのではないだろうか。そこは石畳が敷かれ、また両側から木立の枝が下がって日陰が出来ている。これが炎天の真夏ではありがたい。もっぱらその南側を歩いたので、幅広の車道の向こう側の歩道はよくわからなかったが、観光客はみな南側を歩くようで、前述のNHKの番組でもタレントは同じ側を歩いていた。ただし、日吉神社の鳥居は北側の歩道の先にある。南側の歩道の先は、右手に日吉神社の鳥居を見ながら左手に曲がると閑静で古風な民家が両側に続き、その短い区間を過ぎて右側に曲がって坂を上って行くとケーブル・カーの乗り場に至る。先の番組ではそこまでは紹介しておらず、あくまでも坂本の町のみの紹介で、その中心は坂本を特色づけている石垣であった。幅広の車道は車の通りはとても少なかったが、観光シーズンにはそれなりに多いだろう。南北の歩道際ともに、整然とした石塀や石垣が連なっていたと思うが、繰り返すように筆者らは山に向かって左手を歩いたので、通りの向こう側はあまり記憶にない。坂道に添って石組が連なるのは、斜面に家を建てるからでもあるが、「坂本」の地名は、これらの石垣に深くつながっている。TV番組で知ったが、この石垣は穴太衆という専門家たちが造ったもので、彼らは日本を代表する石垣の集団と聞いた。その発祥は延暦寺と関係がある。石はどこから持って来たものか知らないが、地元で産するのだろう。城の石垣のようにきれいに加工せず、切り出したままの荒い形のものを巧みに組み合わせて強固にしているもので、これは長い経験があっての技術だ。この穴太衆がどの程度日本各地に散らばって技術を伝達したのか知らないが、日吉神社の参道に石の塀や垣根が途切れずに見える様子は、歩道を歩いていてとても気分よくさせる。
話が前後するが、京阪の三条駅から京津線で浜大津まで出て、そこから坂本行きに乗り換えた。筆者は昔京津線の膳所から浜大津に向かい、そこで乗り換えて三条京阪まで行こうとした時、浜大津に着いたのがわからないほどに車内で眠ったことがある。そして気づいた時は電車は坂本に着いていた。そのまま同じ電車に乗って浜大津まで戻ったが、坂本から浜大津まではしっかり目を開けて窓の外の景色を眺めていたので、今回浜大津から坂本に向かう際は初めての気がしなかった。そうそう、真向いの席に女子高生がふたり並んで座っていて、どちらもスマホの画面とにらめっこしていた。仲がよさそうなのに、ついに一言もお互い話しかけず、坂本よりふたつ手前の駅でひとりが降りる時に、「じゃあね」と言った。今時の高校生はみなそのようなものなのだろうか。ケーターやスマホがない時代は、しきりに話し、そのようにして情報を交換し、また仲よくもなった。それが今では隣り同士で座っていても全く自分だけの世界に閉じこもっている。これでは社会性が身につかなくてもあたりまえで、いつまで経っても世間知らずとなる。ところが、女子高生の話はもうひとつある。坂本の駅を降りると、すぐに日吉神社の参道に出る。改札を出て左が神社、右が湖だ。時間があれば湖まで歩いてもいいが、たぶんすぐだろう。ともかく、坂を上り始めて石垣に気づき、しばし進んだところで、向こうから制服姿の女子高生がふたり下って来た。そのひとりが筆者と目を合わせた時、「こんにちは」と笑顔で言った。彼女たちの学校はすぐその先、左手にあった。私学だ。その学校では坂本を訪れる観光客に擦れ違うと、挨拶をしなさいと教えているのだろう。これを公立の学校でやると父兄から強制するとは何事かと批判が出るだろう。見知らぬ人であるから、擦れ違っても知らんぷりをするのが普通だが、挨拶されて悪い気がする人はいない。電車に乗っていたふたりの女子高生の顔はさっぱり思い出せないが、挨拶をしてくれた生徒の日焼けした笑顔はよく覚えている。さて、今日の写真について少し説明しておくと、最初は「水琴窟」で、これは前述のNHKの番組で紹介されていた。坂道を上っていると、小さな看板があって、無料でその「水琴窟」が聞けるとあった。歩道から20歩ほどだろうか、民家の庭にざくざくと入って行く。TVで見たのとは違う「水琴窟」かもしれないが、ほかには見かけなかった。竹が1本甕の底に突き刺されていて、その筒の先端に耳を当てると水が滴り落ちるきれいな音がよく聞こえる。やはりTVでの音とは少し違う気がした。2,3秒間隔で同じ単音が鳴るかと思っていたが、いくつもの音が重なって絶え間なしに鳴り響き、まるで水滴の交響曲のようであった。その大暴れする水滴の乱反射音は、途轍もない炎天にふさわしく、こっちまで気が狂いそうな気がした。