助けになるものとしてありがたいのが「孫の手」で、ここ1か月ほど毎晩使う。夜になるとなぜか背中が痒くなる。以前なら腕が背中のどの位置にも回ったのに、左手をいつどうこじらせたのか、右に比べて上がらなくなった。それに上げようとすると痛い。
還暦を越える頃にはそのようなことになるので、「孫の手」が発明されたのだろうか。また、「孫の手」とはなかなかいい名前で、孫のいない人にとってはなおさらそうだろう。筆者は息子が30になるが、結婚の兆しは絶無で、きっと生涯独身のままで、孫の顔を見ることは出来ない。ひとり息子なので、そうなると家系が途絶える。そのことはどうでもいい。それに孫の顔が見られないこともさびしいとも思わない。若者の独身が増え、孫の顔を見ないまま世を去る人は今後ますます増える。孫がかわいいのは想像出来るが、「臭くてけちなおじいちゃんは嫌い」とすぐに言うようになって、「孫の手」ほどにも役立たなくなるだろう。先ほどネット・ニュースに新潟の老夫婦が心中したとあった。89と87だったか、もう27年すると筆者ら夫婦がその年齢になる。27年はそれなりに世の中は大きく変わる。その老夫婦はまさか27年前に心中することになるとは予想しなかったろう。それがどんどん時代に取り残され、体の自由が利かなくなり、また財産も乏しくなって行く。89と87まで生きたのであるから、もう少しでお迎えが来るのに、なぜ自殺したのか。それは野暮な質問で、89になっても自分はもうすぐ自然死するとは思えないものだろう。長寿が少しもめでたくない様子がこの心中によっても気づかされる。その老夫婦には子どもや孫がいなかったのだろうか。いてもいなくても同じで、いた方がかえって孤独を味わったかもしれない。どっちにしろ、高齢になると知っている人が少なくなり、孤独を感じることは増えると思える。そうでない人は知り合いが多い有名人くらいかと思えば、先日の藤圭子の自殺からは、有名人で金がたくさんあっても世の中が面白くないことが多々あることは想像出来る。
さて、いきなり暗い話になった。急に涼しくなって、8月の歴史に残る猛暑が嘘のようだ。過ごしやすくなったので、そろそろ隣家のリフォームにまた取りかかるか、作品の製作に入るかなど、生活を変える必要を今日はようやく思った。ところが、急に生活のリズムを変えるのはかなりの決心がいる。そんな呑気なことを言っているうちはきっと顔の表情はだらけているに違いなく、たまには鏡の中をしげしげと覗き込まねばならない。ともかく、そんなことを思いながら、このブログの投稿も9月になったので、少しは衣替えをしようかと考えるが、さてどういうふうにこれから投稿して行こうかと、今朝はヤフー・ボックスに保管してある投稿用画像を眺めると、これがあまり気乗りしないものばかりで困った。それでも何かを書かねばならないから、いつも以上にどうでもいいことを日記風にすればいいと思い直し、とりあえず、題名を「9月になれば」とした。だが、これは有名な映画の題名であるし、また9月になれば何か新しいことを始めるのかと思われるので、「9月になればなったで…」と語尾に逃げ口上のようにつけ加えた。これは「9月になったはいいが、以前と変わらぬ調子」という含みを持たせているのは言うまでもない。こうしておくと、すっかり重くなった腰をまだしばし上げずに済む。季節はどんどん変化して行くのに、筆者ばかりが家の中でごろごろ転がっていてはばちが当たるが、左腕があまり上がらず、また左手の中指が折れたまま延ばしにくくなっていることなどの理由をつけて、怠惰を貪り続けている。そうそう、今日は埼玉から千葉で竜巻が通り過ぎ、家屋に被害をもたらした。屋根が吹き飛ばされると、雨が降れば家財は使いものにならなくなる。それで早速青いビニール・シートを被せた家が映った。また家の中がガラスの破片でいっぱいという何人かを紹介していて、彼らが一様に仕方ないという素振りを見せながらも、どこか陽気に見えたのは、しっかりせねばならないという自身への鼓舞によるが、それよりも片づけに追われることがそれなりに楽しいからではないだろうか。つまり、家の中でごろごろする時間がなくなり、張り切って後片づけをせねばならない。否応なしにそのような立場に追い込まれることをしばしば人間は歓迎する。筆者が涼しくなったにもかかわらず、いっこうに活発に作業しないのは、それらの作業が誰からも期待されておらず、またやらなくてもいっこうに困らないからだ。目的は持っているのに、それは必要に迫られたものではない。竜巻で家を壊された人たちは趣味で片づけをやるのではない。人間は常に必要に迫られているべきで、それが心身ともに健康を保たせる。
では、前述の89、87の老夫婦は何か必要に迫られたことがなかったのだろうか。自分たちが消えても誰も困らないと疎外感を思い詰めていたのか、あるいは生きることに必要の意味を見出せず、「もう生きることに飽きもしたので、ちょっと死んでみようか」という気になったのだろうか。89まで生きると、必要に迫られることはほとんどなくなるかもしれない。働きに出る必要はないし、第一働かせてくれるところがない。「あなたは無用」と長らく宣告され続けていると、「なんだ、生きていても死んでも同じことか」と思うようにもなるかもしれない。生きていると確かに楽しいことはあるが、反面いやなことも同じほど多い。TVや新聞のニュースは相変わらずどうでもいいようなことや、また悲しい事件を毎日報じる。「ん? 老夫婦が自殺した? そうかそんなことでもそれなりにニュースになるのなら、自分たちも死んでみようか」と思う夫婦もいないとも限らない。そして、そんな老夫婦の心中は、それなりに波紋を広げ、そのことをネタにくだらない文章を綴る暇人もいる。はははは、老夫婦の死を無駄にしないためにも、こうして言及するのはいいことではないか。とかなんとか無責任なことを書きながら、89、87の夫婦がどういう理由で死ぬことを決めたのかとまた気になって来る。それにしても、89と87の夫婦が心中するのは仲のよいことで、きっと楽しいことも多かった人生だろう。「終わりよければすべてよし」と言うから、心中自殺は結局老夫婦の人生は全体に暗かったと思われることになりそうだが、それは本人たちのみが知る。89、87と言えば、どちらか片方が先に死んだ時、ひとり残された方はその後始末が大変だ。お互いそんなことを思い、つまり相手のことをおもんぱかって、それで心中という方法を採ったのかもしれない。ああ、また暗い話に舞い戻った。いやいや、老夫婦の心中を暗いと捉えることもないかもしれない。89と87では、本人たちはまだ何年か寿命があると思っていたにしろ、傍目には充分生きたと見える。命を自分で断ち切ったのであるから、「天寿をまっとう」と言ってはまずいが、実質的にはそうであった。
今日の投稿用に選んだ写真は3枚で、まず最初は電線に止まる燕だ。地元郵便局の近くで見かけた。お盆の少し前だったと思う。越冬のためにとっくに日本を離れて行ったとばかり思っていたので、この姿には少々驚いた。そして彼らが南方へ向かう準備を整え、電線から今まさに飛び立って行こうとしているようにも思えた。だが、日本で冬を越すツバメはいるし、お盆以降にもツバメをよく見かけたので、9月の直前に一斉に飛び立って行くとは限らない。写真のように電線に等間隔で並ぶ姿は見て楽しく、きっとツバメも仲間か親子か知らないが、そのように横並びになってしばし休んでいるのは楽しいに違いない。真下に立って見上げ、また通り過ぎて振り返っても同じ姿で佇んでいて、警戒心がなかった。そのことも何だか楽しかった。2枚目は梅津の古い2階建て木造アパートの屋根だ。そのアパートにはもう人は棲んでいないと思う。全員巣立ってしまった。10数人が同じ面積の部屋に横並びになって生活し、TVアンテナも屋根に均等に設置した。巣箱のような住まいで、今では若者はあまりそんな部屋で暮らしたがらないだろう。だが、親の金を当てにしないのであれば、誰しも若い頃はそのような生活をするしかない。そしてそんな巣箱からやがて飛び立てればいいが、時代が変わって今では結婚しない若者が多い。また結婚しても3人にひとりが離婚する。それで元の巣箱に逆戻りするかと言えば、たいてい親が金を持っているから同居する。それを以前は寄生と言ったが、今ではそんな揶揄も聞かれない。若い頃は狭い巣箱に住みながらいつかそこを脱出することを夢見るが、その頃の将来の不安はもはや若いと言えない年齢になってすっかり去ってくれるかと言えばそうではない。若者だけが住むと思っていた2枚目の写真のアパートは、実際は中年や老人もいたはずで、彼らは年齢の差に関係なく、同じ面積の部屋に隣り合わさって暮らし、夜になるとTVを見る。そのアンテナに留まるツバメはきっとそんな人生を知らない。3枚目の写真は電車の中から撮影した。電線の奥に水平線が見えている。電線で飛び立つ準備を整えたツバメたちは海を越えてはるか彼方へとわたって行く。竜巻に遭遇してとんでもない方向に吹き飛ばされるというへまは絶対にやらない。9月になったからには、やはり行動開始だ。ツバメさんの勢いよく飛び去る姿のイメージに助けられながら、もぞもぞもぞもぞ……。まるで芋虫だな。ツバメに見つかればイチコロだ。