唐門の修理が終わって華麗になった姿が数日前のTVで紹介されていた。二条城の唐門で、引き続き修理は行なわれる。
「その1」の最初に載せた写真は、堀川通りでの『京の七夕』の入口で、向こうに光っているのが二条城だ。
当日は夜間に無料で内部を見ることが出来たようだ。それを知ったのは、『京の七夕』の北の端まで歩き、帰りにスーパーに立ち寄った後、二条城の前を通ったからだ。雨が降る中、たくさんの人が城門から堀川通りに出て来ていた。看板には無料公開している場所が記してあって、たぶん城の全区域ではなく、夜間に大勢の人が歩いてもさほど問題にならない庭などが主体であったろう。またそれは『京の七夕』に合わせたのではなく、現在修理中であることから一部を開放したのかもしれない。ともかく、『京の七夕』という特別の催しと同時に普段あまり見られない夜の二条城を歩き回れるのはよい。そう言えば筆者は昼間の二条城には何度か入ったことがあるが、夜はない。清水寺は夜の拝観も有名で、10年ほど前に友人のNとそそくさと見たことがある。さて、ついでに「その1」に載せた写真を説明しておくと、2枚目に青い光が点在している。これは浅い堀川のせせらぎに上流から流れたボールで、中にLEDが入っている。涼しさの演出と、川の中に歩行者が誤ってはまらないためであろう。写真右端に濃いピンク色の傘を差すのは家内だ。対岸に京都の芸術系の大学の学生たちが作った竹細工のオブジェが随所に展示されている。コンクリートの河川敷をただ歩くだけでは退屈なので、いろんな展示で楽しんでもらおうという配慮だ。どの作品も竹を使っているのは、テーマを決めたということだろう。七夕は笹の葉さらさらで、竹はふさわしい。また、七夕は7月7日であるのに、なぜ8月にこういう催しが行なわれたかだが、これは陰暦にしたがっている。今年の陰暦の七夕は8月13日で、『京の七夕』最終日の翌日がそれに当たった。7月7日の方が馴染み深くなっているが、当日はまだ夏休みではない。しかも祇園祭の本番を控えて何かと慌ただしい。それで子どもも楽しめる8月の陰暦ということにしたに違いない。とはいえ、子どもの姿は少なく、大半は若いカップルであった。
観光都市の京都が最も観光客が少ない月は2、8月で、両月を少しでも他の月並みに観光客が増えてほしいと考え、京都市はさまざまなイヴェントをしている。そのひとつにこの『京の七夕』も考えられたと思える。堀川は堀川通りの脇にありながら、水の流れはごくごく少なく、人が溺れる心配はない。また、祇園祭のようにバス通りを歩行者天国にする必要がなく、河川敷をたくさんの人に歩いてもらうことに不安はない。ただし、堀川通りからはうんと下がった河川敷をただ歩いてもらうだけでは堀川通り沿いの店の営業にはあまり貢献しない。それでも河川敷のそぞろ歩きから地上へで上がって来た人たちはどこかの店で休憩したくもなるであろうし、ジュースの1本でもコンビニなどで買う。つまり、『京の七夕』は地元経済の活性化には多少は役立っている。そして、『京の七夕』によって堀川の河川敷を歩けることを知った人は、普段でもそこを散策し、ちょっとした観光名所になるかもしれない。京都市としてはそんな思惑もあるだろうが、筆者が見る限り、『京の七夕』が終われば、誰も同じ河川敷を歩かないに違いない。それほど殺風景で、川の流れはあまりにしょぼく、また深く掘り下げられた河川敷であるから、目に入るにはひたすら無粋な背丈の倍以上もある崖の壁だ。そこに陶板の名画でも点在させればまだ歩く楽しみがあるが、予算的に難しいだろう。堀川を歩いて楽しい場所にするにはまだまだ工夫がいる。筆者は堀川通りを比較的よく歩く。その場合、たいてい川より東の歩道を行く。西は大きな堀川通りがあって、その西端となって、堀川は見えない。それに二条城が途中にあって、その濠端が何となくさびしい。ジョギングする場合はかえってそれがよく、二条城の周囲を走ったり歩いたりする人は多い。東の歩道沿いには全日空ホテルなど、大きな建物が多いが、昔ながらの木造住宅も点在するうえ、交差する東西を走る道を東へ入ると中京の町並みとなってほっとする。
それに堀川の東のエリアは友禅関係の店が多い。染め屋や染色材料を売る店で、そうした店は30年前に比べると半分ほどに減ったが、今でも友禅を生業とする者にとっては欠かせない区域になっている。つまり、筆者は京都に出て来てすぐに堀川四条から堀川丸太町までの間の堀川から東の区域に馴染み、よく歩いた。染めた反物をキモノの形にしてくれた仮絵羽屋のおばあさん、あるいは染めた反物を湯のししてくれる店、それに染めた生地を蒸してくれる工場など、みな堀川に面した東側にあって、それらの店が今も営業していたのであれば、家の前で『京の七夕』が見られた。ところがそれらの店は30年ほど前から次々と営業をやめてしまった。それほどに京都の友禅業界は下火になってしまった。そして、それをよく知る京都市は、変わってその堀川を少しでも名所にしようという魂胆か。堀川は昔は水量が多く、その流れで友禅流しもしていた。西では桂川がもっと大きな規模でそれをやっていたようだが、昭和40年頃に河川汚濁の問題が深刻化し、染色工場に自由に河川を使わせるということになった。友禅染めは糊を使う。その糊を流れる大量の水で洗い落す必要がある。ところが昭和30年代以降の高度成長に伴って友禅染めは大量に生産され、河川の汚濁は一気にひどくなった。桂川では鮎がいる。それらの魚に友禅で使う大量の糊がいいはずがない。そして友禅工場は会社内部に人工の川を作り、それで糊を除去すべしということになった。無料で使えていた水が今度は地下水や水道水を使うから、それらの費用が業者が染め屋に請求する金額に上乗せされるようになった。それでも染め業界が潤ったのは、それほどに誰でも嫁入り道具にキモノを持参したからだ。また、蒸し工場では大量の水を一度だけ使うのは不経済であるから、糊を取り除いた後、濾過して循環使用するなどの設備を整えた。こうなると、弱小の業者は淘汰される。そして今では市内に2,3か所しか残っていないはずだ。で、「その1」の3枚目の写真だが、そこには川の流れの幅の半分以上を占める形で生地が浸されている。これはかつて堀川で見られた友禅流しのいちおうの再現だ。前述したように、友禅流しをしていた頃の堀川はもっと水深があった。ただし人間が立って糊落としの作業が出来る深さでなければならないから、せいぜい1メートルから2,30センチ上までが限度だ。
友禅染めを知らない人が100人中99人以上となった現在、「友禅流し」はさらに意味不明のものになっている。『京の七夕』で、友禅流しの模倣というにはあまりにもさびしい様子を見ると複雑な気持ちになる。まず、水に浸されていた布地は夜でも鮮やかに見えることを狙った色合いと文様はいいとして、友禅染めではない。だが、本当の友禅染めを見せてもそれがわかる人は100人にひとりもいない。ならば、とにかく派手で目立つものがよい。そう考えられたのであろう。それに、たとえば手描きの友禅染め作品を堀川の浅い水の流れに漬けてもよいという作家はまずいない。傷や汚れがつけば大変だ。そんなこともあって、写真に見るようないかにもプリントらしい生地が選ばれた。4枚目の写真は、歩く人たちの河川敷が東から西へと変わっている。これは東ばかりでは単純で面白くないと考えられたためか。夜で足元が暗く、また人で混雑する雨の中を傘を差して歩くのは安全面からは好ましくない。それで若い男女の警備員がかなり多く配備されていた。それなりに経費がかかった『京の七夕』で、であるだけにたくさんの人の楽しんでもらいたい思いであろう。この催しのメインは、上空を覆う光のトンネルの『天の川』で、これは去年堀川通りを走るバスの中からも見えた。このメイン展示が入口近くにあると、それさえ見れば後はどうでもよいと思って、河川敷から階段を上って地上に出てしまう人が多いはずで、最後の方に用意されているのは容易に想像がついた。堀川丸太町のすぐ南にそれはあって、ここで人の流れはしばし止まった。細かく編まれた竹であろうか、それに無数の小さなLEDランプがくくりつけられ、全体が青から白、そしてまた青へとゆっくり変化していた。また、この区間だけは雨が半分以上は遮られ、半ば雨宿り空間のようになっていた。ここを過ぎると上立売辺りが最終地点で、そこで青く光るボールを少しずつ流す人たちが待機し続けていたのだろう。今日の3枚目の写真の奥の暗がりが最終地点だ。地上に出て橋の上から光のトンネルを見下ろすと、青い光がせせらぎに反射して幻想的であった。それが4枚目。これほどの人が楽しむのであれば、本来は堀川の東の歩道に屋台がずらりと並んでよかったが、今年の祇園祭では明らかに屋台の数が激減し、京都市は屋台の営業を好ましく思わなくなっている。また、前述のように東の歩道沿いにはホテルなど大きな建物があって、いわばその前に屋台が並ぶことはとても許可されない。『京の七夕』は静かに楽しむもので、縁日の喧噪とは無縁のものという位置づけなのだろう。それはそれでムードがあってよいか。雨に濡れてさんざんでありながら、それがまた印象深く、家内も楽しんだと思う。来年は晴れた日に行きたい。