人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●当分の間、去年の空白日に投稿します。最新の投稿は右欄メニュー最上部「最新投稿を表示する」かここをクリックしてください。

●「SYMPHONY NO.40 IN G MINOR K.550」
屓の引き倒しにはならないと思うが、あまりに雑多な選曲になっているこのカテゴリーで取り上げると、イカモノと思われてしまうかもしれない。このカテゴリーではあまりクラシック音楽は選ばないが、今日はようやく秋らしい季節になって来たこともあって、前々からいつかはと考えていたモーツァルトのあまりに有名な交響曲第40番にする。



本当は別の曲を思っていたが、帰宅した時はそのアルバムを取りに隣家に行くには暗くなり過ぎていた。で、その曲はまた来年ということになるかもしれない。それはさておき、モーツァルトのト短調のこの曲を初めて通してまともに聴いたのは家内から借りたLPレコードによる。40年近く前のことで、そのジャケットを思い出せない。たぶんブルーノ・ワルターの指揮する上半身の写真で、モノクロであったと思う。ワルターであることは確かで、またコロンビア交響楽団の演奏だ。そのアルバムが今どこにあるかと家内に訊くと知らないと言う。実家に置いてあるはずとのことだが、とっくの昔にその部屋は姪や甥が住み、家内の持ち物は処分されたか、身内の誰かが持って行った。たぶんあそこにあるだろうと予想はついているが、わざわざ訊くのは面倒で、それを克服して訊ねても、相手が今度は面倒だ。お互い面倒を味わい、しかもないとなれば気まずい。それで筆者が40年ほど前に借りたそのアルバムはもう忘れることにする。と思いながらも、たまにネット・オークションで「ワルター モーツァルト」で検索して同じLPが出品されていないかを調べる。そんなことをここ数年続けて来た。それほど調べてもこれだというものに突き当たらない。筆者の記憶が間違っているのか、あるいはCBSが売れ筋とばかりに頻繁にジャケットを変えて販売したためか、どれが筆者が手に取ったジャケットなのかわからなくなっている。また、LPを入手するより手軽なCDがよいと思うと、これまたジャケットを変えて何種類も同じ曲が発売されている。演奏楽団が違うものもあって、それらがCD時代になって簡単に聴き比べが出来るようになっている。
●「SYMPHONY NO.40 IN G MINOR K.550」_d0053294_10124839.jpg

 家内に借りたとはいえ、当時はまだ交際中で家内ではなかった。筆者がビートルズのアルバムを貸したお返しにクラシックのアルバムを貸してくれた。ところが、驚くほどLPの盤面はどれも汚れていて、それをきれいに水洗いしてまともに鳴るようにして返したものだ。こぼれたジュースがべったりとついているなど、おそよレコードを扱う人にはあるまじき状態で、いったいどんな家に暮らしているのかと思ったものだ。ジュースは乾燥すると粘着性を帯び、とてもステレオの針がまともに進まない。なぜ盤をきれいに洗わないのかと質問すると、レコードを洗っては具合が悪いと思っていたとのことで、またジュースなどで汚れがひどくなったのは、同居していた甥や姪がレコード盤で遊んで無茶くちゃにしたとのこと。それで聴けないままに我慢していたらしい。生ぬるい湯に少し中性洗剤を落とし、その中でそっとレコード盤を洗ってやると、きれになる。そのようにしてレコードを洗っている光景をレコード屋でしばしば見かけたことがあった。元通りにどうにか聴けるようになったLPを手にして家内は嬉しがっていた。また、汚れを取り除いて聴けるようになったはいいが、悪い針で聴き続けたのか、雑音がかなり大きかった。CD時代ではその音が新鮮で懐かしい。LPは全体にこもったような音ではあったが、それはそれのよさがあった。CDは音がクリアで雑音も入らないが、昔聴いた録音と何かが違う。同じ録音なのに、再生装置の違い、また聴き手の加齢によって、違和感というほどでもないが、昔聴いたとおりの心境にはなれない場合がある。それがいやなので、筆者はワルターのモーツァルト交響曲第40番をLPで入手しようと思い続けて来た。だが、それを実現させても、違和感はあるだろう。過ぎ去ったことは二度と同じ感覚では味わえない。それがわかりながらもまた昔の思い出深いものを入手しようとする。人間は憐れなものだ。
 家内から最初に借りたアルバムが今日取り上げる交響曲であったかというと、記憶は定かではない。当時はカラヤンの人気が絶大で、クラシック音楽指揮者の代名詞になっていたほどだ。だが筆者はへそ曲がりなのか、カラヤンのアルバムを買おうとは思わなかった。当時のカラヤンの写真はどれも自分がどうすれば格好よく写るかをよくわきまえたもので、そのモデル張りの澄ました様子が嫌いであった。もっと自然にすればいいものを、カラヤンはあまりにも凡人狙いをし過ぎているように思えた。実際当時カラヤンを歓迎したのは、あまりクラシック音楽を理解しない平凡な人たちではなかったか。カラヤンとの競争に敗れて隠遁していたチェリビダッケという指揮者の存在を筆者はすぐに知ったが、彼が来日して読売交響楽団を指揮して日本のクラシック・ファンをびっくりさせたのはもっと後のことだ。長生きしたチェリビダッケにようやく番が回って来てよかったと思ったものだ。そして、彼が日本で大人気を得た頃、カラヤンの名前はほとんど聞かなくなった。近年はどうなのか。それなりに人気は固定しているはずだが、ほかにも大勢のよい指揮者がいることが日本でもわかるようになり、カラヤン人気が絶大の頃に比べると、日本のクラシック・ファンも成熟したのではないか。とはいえ、筆者はそんなに偉そうなことは言えない。また、カラヤンの指揮するものがどれも嫌いというのではなく、シベリウスなどはとてもよいと当時思い、LPを買いもした。さて、モーツァルトに話を戻すと、家内は高校の音楽クラブでヴァイオリンを担当し、モーツァルトのこの交響曲を演奏したようだ。またピアノが演奏出来るので、モーツァルトの有名なピアノ・ソナタなども弾いていた。この交響曲のアルバムを買った経緯は知らないが、学校の先生に薦められたのかもしれない。ワルターの指揮する盤に決めたのは、たまたまレコード屋でそれがあったからではないか。多くの指揮者を知り、好みの指揮者があるというほどにはレコードを聴いておらず、モーツァルトの交響曲であれば一番有名なものを買っておこうという程度であったに違いない。
●「SYMPHONY NO.40 IN G MINOR K.550」_d0053294_1013793.jpg

 交響曲第40番が、41番とともにモーツァルトの最も有名なシンフォニーであることくらいは筆者はすでに知っていたが、当時はまだクラシック音楽のファンというほどでもなく、喜んで聴くことにはならなかった。家内に感想を伝えるため、またせっかく借りたのであるから内容をそれなりに理解せねばという思いで聴いた。たぶん20回は聴いた。全4楽章で25分程度であるから、通して聴いてもさほど苦にはならない。また眠くなるような第2楽章以外はアレグロで、さっと曲が過ぎてしまう。また、慣れて来ると、ゆったりした第2楽章がそれなりに味わい深く、満月を愛でている気分になった。実際筆者はこの曲を通して聴きながら、満月の静かな夜をイメージし、それが今も変わらない。また、これはどう表現すればいいか、ワルターの演奏には独特の艶を感じた。「こく」と言ってもよい。それが他の指揮者ではどうなのかがまず気になった。そしてやがてLPを買うことにしたが、それはカール・ベームの指揮で、それを選んだのは当時のレコード屋では最も売れていたからだ。当時ベームはモーツァルトの交響曲を次々と録音していて、LPを何枚も出していた。10枚程度は買ったと思う。だがアルバム・ジャケットに印刷される指揮する姿のベームの上半身は、あまりに真面目で、そのカラヤンとは正反対の様子がまたあまり気に入らなかった。ベームはベートーヴェンよりモーツァルトを大きく敬愛し、目の前に現われると嬉しさのあまり卒倒すると語っていた。それほどの思い入れがあるから、その演奏に心が籠らないわけはない。だが、最初に聴いたワルターとは違って艶と言うかこくと言うか、味わいに乏しく感じた。これはベームの側に立ってワルターの演奏を見ると、どこか際物的で、反対にワルター贔屓でベームを見つめると、あまりにも無粋で味も素っ気もないということになって、結局はどちらを贔屓目に見るかによる。つまり、どちらもそれなりに味わいがある。そんなことを言えばどんな指揮者の演奏もそうなるが、そこはやはり熟達した腕の差や、録音の特性、どういう機器で聴くか、さらにはどういうきっかけで聴くようになったかなど、あらゆることが関係して、結局のところ、最初の出会いというものが案外大きく影響する。つまり、もし筆者が家内からベームの盤を聴かされていたならば、ベームの演奏が一番と思ったであろう。それは科学的とはあまりにも相いれない態度だが、人間とはどんなことでもだいたいそのように個人的なたまたまの出会いが大きく影響する。
 それはまた、指揮者の顔や姿も聴き手に大きな影響を与えることを意味している。前述のように、カラヤンが大変な人気を得たのは、何と言っても男優張りに男前、あるいはそのように見せかけるポーズの巧みさによる。指揮者の顔がわからない時代であれば、カラヤンの演奏があれほど人気を得たろうか。その点、ベームは大きく損をした。真面目で無口、しゃれっ気もないという顔や姿で、それで人間臭いモーツァルトの曲がまともに演奏出来るのかと考える人もあったのではないか。その点、ワルターはなかなか特徴のある服装で、しかも顔もいかにも重厚でいて優しい。その様子がそのまま演奏に滲み出ている気がする。こうなれば、表現者か顔や身なりでその作品を判断されることになるが、それは実際そうであろう。作品の素晴らしさは頭ではわかるが、どうしても顔が生理的に受けつけないと言う人はいるし、そんな考えを無碍に否定は出来ない。誰しもそのように見ているところはあるからだ。だが、男前、あるいは美女というものは、確かに顔や姿のみで判断出来る場合があるが、表現者の場合は、その作品と照らし合わせてのことで、作品がまず高い完成度を持っていることは絶対条件だ。たとえば、筆者は日本の男優で、絵を描いても人気のあるKを全く評価しないが、それはどちらも片手間にやっているように見えることと、俳優としても大したことがなく、絵画はもっとへたくそであるからだが、双方を見比べると、なるほど釣り合いが取れていて、顔も風格もとても立派とは言えない。ま、彼などは論外で、ここではカラヤンやベームといった世界的に有名な指揮者の好悪について語っている。そして、みなそれなりにいい顔をしているのだが、それでも好き嫌いがあるのは人間で、モーツァルトの交響曲となると、筆者はワルターを聴きたい。また、それほど多くの指揮者の演奏を聴いたことがないが、たとえば第40番の最も名演奏は誰のどの盤であるとされているのか、そのことも聞いたことも調べたこともない。それで先ほど戯れにGOOGLEで「ドイツの指揮者」で検索すると、ワルターはもちろんあったが、ベームの名前はない。おかしいなと思って「ベーム」で調べると、「ドイツ」ではなく、「オーストリア」とあった。これはモーツァルトと同じでなるほどだが、その一方でそうとも思えない気分が湧く。モーツァルトはドイツやオーストリアといった現代の国境があった時代の人ではない。当時はどちらも同じ国としてよく、またモーツァルトはヨーロッパ中を旅した。ベーム式ベルリン・フィルのLPを今取り出したところ、その分厚い見開きジャケットの中に2枚の古いゼロックス・コピーがあった。家内から借りたワルター盤を返す前に内ジャケットの文章をコピーしておいたのだが、てっきりそのことを忘れていた。串田孫一が解説を書いているのが面白い。当時はそれがわからなかった。発売は1968年11月で、ジャケット写真はわからないものの、「ブルーノ・ワルター選集第1集」と題されているので、家内から借りた盤が特定出来そうだ。
●「SYMPHONY NO.40 IN G MINOR K.550」_d0053294_1013286.jpg さて、モーツァルトは交響曲以外にも名曲がたくさんある。これは以前に書いたと思うが、80年代のNHK-FMで毎週日曜日に吉田秀和がモーツァルトの最初の作品から最後の作品までも順番に放送する番組が数年続いた。それを筆者は全部録音し、さらに会話をカットして2時間テープに編集し直した。全部で80本ほどだろうか、かなりの量になった。ダビングする時にも聴いているから、数年間は毎週何度かモーツァルトの曲を何か聴いていた。そして、当時モーツァルトに夢中になったかと言えば、あまりそうはならなかった。画家のリ・ウファンが書いていて、彼のモーツァルトの曲に対する思いはなかなか納得させるものがあったが、その一方で思ったのは、好きになる前に聴くことをやめてやめてしまっている態度だ。ウファンの思いは、モーツァルトの曲はあまりにも機械的に聞こえるといったことであったと思うが、それはそれほどに完璧で味気ないという意味ではなく、楽器の鳴り方がどうも人間味に欠け、整然とし過ぎていると言いたいのだろう。そのように聴こえる曲は確かに多いが、そうではないものも多く、そしてモーツァルトの個性が結局はそういうものすべてを含み、どこか謎めいているところにあることがわかれば、また聴いてみようという気になる。たとえば第40番の交響曲も、どの楽器も突如鳴り響いては途切れるといった感じがあって、その機械が鳴っているような雰囲気にとても月光を連想出来ない人はあると思う。だが、音楽とは何かを考えると、指揮者の顔が浮かんだり、ましてや演奏者の姿が目の前にちらついて仕方がないというのでは困る。また機械が奏でているというイメージはもっとよくないが、とにかくモーツァルトの音楽は作曲者をイメージさせないと言えばよいか、音楽だけが鳴っているといった思いに最もさせる音楽で、ウファンは結局そういうことを言いたいのかもしれない。それは非人間的と言えるが、人間のモーツァルトが書いたのであって、それはほとんど奇跡に近いとカール・ベームは思っていたのではないだろうか。とにかく、人間のあくといったようなものが感じられず、それでいて歴然とモーツァルトの個性があって、そういう作品はモーツァルト以外にないように思える。ベーム盤の解説によると、初演日は不明で、モーツァルトはこの交響曲を聴かないで世を去ったとされる。頭の中に鳴り響いていた音楽をそのまま楽譜に吐き出すのはどの作曲家も同じとはいえ、モーツァルトの場合は完璧な形でそれが最初から宿っていて、そのことがどこか人間離れした様子につながっていると思える。苦心した跡といったものが見え隠れする作品ほど人間臭くなる。モーツァルトにはそれが欠けている。そう書いても贔屓の引き倒しにはなるまい。それほどにモーツァルトに関しては多くの人が同じようなことを語っている。で、人間臭い作品を好む人はモーツァルトに拒否反応を示すかもしれない。
 モーツァルトのほぼ全曲を聴いて来た中からどれか1曲を選ぶとなると、筆者の場合はやはり最初の思い出となった交響曲第40番だが、この曲はモーツァルトの作品の中では特異なものに属する。ま、似た雰囲気の曲はあるが、完成度の点からはこの交響曲がとどめを刺す。次の第41番は「ジュピター」と題されて、最後のシンフォニーとなったが、この2曲はLPではたいてい裏表に収録されている。甲乙つけ難く、モーツァルトにまだ数年の命があれば、この先どんなとんでもない交響曲を書いたかと思わせる。それほどにこの2曲は最晩年の曲とするにふさわしい雰囲気がある。35番の「ハフナー」、36番の「リンツ」、38番の「プラハ」など、後期の交響曲はどれも有名だが、40、41番は一段と格が上がったような風格がある。そして41番が「ジュピター」と題されるのは全く納得させられる。そこには40番にあるような一種の悲しみのようなものから解放された天上の雄大さのようなものが漂っている。だが、どちらがポピュラーになりやすいかと言えば、40番で、これは短調であるからとも言える。第1楽章が最も有名で、これをポール・モーリアのオーケストラがアレンジしてヒットさせたこともある。そっちの演奏で知っている人の方が一般には多いかもしれない。それはさておき、筆者はベームの演奏のLPを入手するよりCDがいいと考え、それで近年ボックス・セットが安価で発売されたことを知った。6枚組で2000円しない。それで第40番を聴くと、やはり昔聴いたLPとどこかが違う。ステレオが変わっているし、また音質が向上しているからそれも当然かもしれないが、全体的なまろやかさが欠ける。LPではもっとこくがあった。低音の差かもしれない。もちろん筆者の現在のステレオでは昔のそれより低音は響いているが、そういう問題ではなく、明らかにアナログとデジタルの差といったものがある。相変わらず雲の合間から輝く満月を連想させてくれはするが、昔聴いた時の落ち着きとは違う。これはたぶん筆者の方が変わってしまったからであろう。今の方が時間はたっぷりあるはずなのに、何だか落ち着きがない。それでこうして書きながら、「落ち着こう」と思い続けるのだが、そうなれないのは、また蒸し暑さがぶり返しているためか。そうそう、ベームの演奏は第1楽章はワルターのものより2,3分短かったはずだが、今見比べるとワルターが6分40秒、ベームが8分25秒となっている。これは演奏速度の違いを越えている。繰り返し部分を演奏するかしないかは指揮者の判断に任されているようだ。だが、この点は楽譜を調べる必要がある。
by uuuzen | 2013-08-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●梅雨明けの白花、その16 >> << ●『京の七夕』その2

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2025 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?