昨日観て来た。このブログを始めて間もない頃、ホルスト・ヤンセンの名前を挙げたことがある。その時まさかこの展覧会があるとは想像しなかった。

今年と来年の「日本におけるドイツ」という企画における集中的な催しのひとつとして、ホルスト・ヤンセン展がこうして開催されるのは嬉しい。ヤンセンの名前を聞いてその作品を即座に思い浮かべられる人はそこそこの美術通のはずだが、日本ではどの程度その芸術が歓迎されるのか、大体の想像はつく。今、京都市美術館で開催されているルーヴル美術館展の100分の1も人が集まれば大々成功だ。だが、観る人が少ないからその芸術がどうでもよい小さなものということは決してない。自分の目を信ずることの出来る人は、世間の風評に関係なく、価値あるものを自ずと探り当てて行く。それは若いか年を食っているかは関係がない。だが、ある程度の経験を積まないと見えて来ないものもある。でなければ人間が老いることの意味はない。20代の若い人に「若者にはわからない」と発言すると、「そんなことを言うことはおじさんの証拠」としっぺ返しを受けるのが関の山だが、おじさんで充分であるし、そのどこが悪く、恥ずかしいことなのだろう。若者もすぐに老いるし、若さと老いが直結しているからには、老いた者の言うことを若者は多少は耳を貸すのもよい。人生において若さだけが価値あることではなく、老いにもそれなりにいいことはあるのだ。負け惜しみではなくて、若さの青臭さはもう御免という気がする。ま、いいから、そのうちにわかるって。20年、30年なんて一瞬で、誰でも醜悪な顔と体形になって口をつぐみたくなる日が来る。そんな時、本当に格好よい大人になってればいいけれど。ふふふ、「それこそがおじさんの証拠」なんて言い放つ人ほど、見るも哀れなただの老人になるのが現実だからね。
手元にヤンセン展の図録が2冊ある。それに版画展のパンフレットが1冊と、大陸の対話社が発刊した『ヤンセンの樹』という本。これが一番新しく2003年の夏至に出ている。図録の1冊は1982年5月から6月にかけて大津の西武百貨店のホールで開催されたもので、この展覧会を訪れたことはまるで昨日のことのようによく記憶している。それでももう23年経った。もう1冊の図録は1991年9月から10月にかけて塚口にあるつかしんホールでの展覧会で買ったもの。どちらの展覧会も当時のチラシが挟んであるが、後者の表紙を開くと、扉に「HORST JANSSEN(1929- )」と中央に小さく印刷されている。29の後のハイフォンの後に2桁の数字分の空白があるのが生々しい。『まだこの作家は生きています』という証拠なのだが、ヤンセンはこの展覧会の3年後に死んだ。そのためにこの2桁のブランクには、鉛筆ででも95という数字を書き込んでおくのもよい。そうすれば筆者が死んでこの図録が古本として売られた時、買った人はヤンセンが95年に死んだことをすぐに知ることが出来る。それにしてもヤンセンが死んでもう10年経つか。そうなれば今回の展覧会はちょうどよい機会とも言える。10年に1回程度展覧会が開催されれば、絶えず新しい美術ファンに名前が知られるからだ。ヤンセンの作品はそのようにして今後も伝えられるだけの価値がある。人生はつまらないが、絵画を信じたい人にとっては、ヤンセンはなくてはならない存在だ。何かひとつでも信ずるに足るものがなければこの世では生きては行けない。ヤンセンの芸術は、美をいかにも美として描いたものではないが、何が真実かをいつも考え続けた修行僧のようなところがあって、その創作全体の背後から美の奥深いものが見えている。これは画家なら誰しもそうであると言えるが、ヤンセンほど痛切に、そして常に精一杯の全力投球をし続けた者はそうざらにはいない。そのことをヤンセンはたとえば北斎に学んだ。これは美しい。おそらくこの世で最も美しいことのひとつは、この師とするに足りる人物に対しての私淑の思いだ。そこに存在する尊敬は、その人物がもはやこの世にはおらず、伝わる作品だけを前提にしたものであるゆえ、純粋に造形世界においての対話に終始する。そして自分も師のように歩み、生き、思考し、制作することで日々を費やす。それは自分が少しずつ死に接近することを肌で感じ取りながらの時間との戦いでもあり、そのスリルある、失望と歓喜が混ざった人生に作家は生きていることの実感を覚える。ヤンセンの人生はきっと充実していたはずだ。北斎を越えたかどうかは知らないが、北斎とは別の圧倒的な質と量の作品を残した。どれを取ってもヤンセンであり、1枚も、またどのわずかな線にもヤンセンらしくないものはない。これこそが真の画家の証拠。そこには照れもなければこけ脅しもない。ただただ凝視とそれを刻印しておこうとする意思が伝わる。
今回の展覧会は91年のものに比べて作品数は多くない。だが、初めて目にするごく初期の木版画が数点あって、画業の全体をおおまかに辿るにはいい機会であった。それに若い頃の姿を写したモノクロ写真もあった。これにはいささか驚いた。中年以降のよく知る太って眼鏡をかけたヤンセンとは別の人物であったからだ。スリムでしかも男前、きっと女には持てたはずだ。実際ヤンセンは4回結婚している。だが、4回とも離婚した。このことからもヤンセンが一筋縄では行かない人物であることがわかる。今回の展覧会の図録は厚さはあまりなく、買わなかったが、少し立ち読みしたところによると、ヤンセンの死までつき合った友人とでも言うべき人物の言葉があって、そこには気難しいヤンセンも人恋しく、セックスもノーマルであったことが綴られていた。きっとそうであったろう。ヤンセンにはかなりエロティックな作品が少なくないし、どの作品もぎょっとさせるほどグロテスクと言えるが、発狂寸前に自分を追い込んではいても冷めた目がなければ到底描けないものばかりだ。アブノーマルなセックスに溺れる日々であれば、あのような冷たいエロティシズムの絵はものに出来ないだろう。ヤンセン自身の日常生活は酒に溺れるなど、破綻の連続であったかもしれないが、それらは集中して制作する期間への準備に欠くことの出来ないものであって、警察沙汰になるような無頼の生活そのままが作品に持ち込まれていると見るのは、ヤンセンの本質を見失う。確かに普段の生活のあり様が作品に関係すると言えるが、ヤンセンが荒れた日常を送っていたとしても、それは表面的なことであって、内面はひたすら次の創作への醗酵を待っていたであろう。それは他人には見えないことだ。それが他人に見えるようになるのは作品が生み出された後だ。つまり、ヤンセンは自分の日常などどうでもよくて、その間に描く作品こそが本当の日常で、そして生活、自分の証と思っていた。だが、ヤンセンは日常の人間とのつき合いが苦しく、それから逃避するために制作に逃げ込もうとしたのかもしれず、もしそうであれば、少々自閉症気味の偏執狂による変わった絵に過ぎないではないかという見方も出来る。またそのようにヤンセンの絵を一瞥しただけで毛嫌うする人は少なくないだろう。
ぶくぶく太って酒好きのヤンセンは、一旦絵画活動に入ると何日も集中して作品作りをし、目に見えて痩せ細ったという。そんな状態で生み出された絵に、簡単に模写出来るようなものは1点もないと言ってよい。そこにはヤンセン自身しか引けない線が縦横に動き、場合によっては虫眼鏡を使ってもなお細かい密度で描き込まれている。これは銅版画でも素描でも変わらない。この緻密な筆力は発狂寸前か偏執狂ならではの異常とも言える情念で観る者に襲いかかる。あまりにもびっしりと描き込まれ、どれほどの集中力と多大な時間が費やされたかとため息が出る作品がある。図録では到底そうした細部は再現出来ず、実物をごく間近に観て感得するしかないが、何か実際に存在する物を前に置いて写生したものとは思えず、かと言って全くの想像から生み出されたものとしては意外過ぎる、つまりそれほど多様な形をし過ぎているため、ヤンセンがどのようにしてそうした線の集まり、絡み、連なりを描くことが出来たのか驚嘆に耐えない。熱にうなされて、自分でもわけがわからないうちに引いた線であろうか。そうではない気がする。逆に冷静に計算してそのような不可解とも言える線の固まりを想像し得たのか。これはなお違うように思える。ここにヤンセンの絵の謎がある。これはどの画家にもないものと言ってよい。薬物の使用によれば案外そうしたものが得られるかもしれないが、持続は困難であろうし、また変化に乏しくなるだろう。だが、ヤンセンの場合は、ある一定の時期を置いた作品ごとに、この細部や、あるいは手法が違う。自画像はどれも自分を描いているので変化に乏しいように思いがちだが、よく見ればそのどれもがタッチが違い、そのためすっかり別の作品になっている。線の魔術と言うべきか、自在に線を動かすことが出来て、しかも余分なわざとらしい線がどこにもない。しかし、ヤンセンはいつも猛スピードで、迷いもなくそのような線を引いたのであろうか。この答えは会場で上映されていたヤンセンの制作活動を撮影したフィルムの抜粋からうかがい知ることが出来た。ヤンセンに似た男のモデルを目の前にして、ヤンセンは鉛筆で素描を始めるが、それは何度か消しゴムで線を消しながら、しかも思った以上にゆっくりとした作業で、ごく普通の画家の描き方と何ら変わらないと思わせた。異常と見える画面も結局はじっくりと観察して試行錯誤の果てに生み出されたものであるだろう。太ったヤンセンは100キロを越える体重であったこともあるが、それはひたすら部屋にこもって制作し続けた結果であろう。それほど制作に時間を費やしたということだ。そこには画家としての覚悟がある。
ヤンセンの描く絵の中で瓶に活けた花を描いたものが何点もある。これらはどれもよい。みな無残に枯れて花弁が下に落ちたりしているが、描いている間に枯れて行ったのか、あるいはそうして枯れた花しか描く気がしなかったのか。きっと後者であろう。枯れて醜態を晒す花は完璧な花より色も形も変化に富み、複雑な様相を呈する。描くにはそうしたものの方が難しい。醜悪なものを醜悪なままに描いて、なおその奥に真実を感じさせる。それは人によっては必ずしも美とは思えないものかもしれないが、ヤンセンの描く枯れた花はむらむらとして来るほど美しい。花はすぐに枯れるが、ヤンセン自身も太り、髪がうすくなり、歯が抜け、老化して行く自分を絶えず凝視し、そういう自分を素材に自画像を大量に描いた。手っ取り早いモデルであったからか。それもあるだろう。だが、花を描く時と同様、時が推移して存在がどのように変化するかを見届けてやろうという思いがあって、「自分が見た」という事実を刻印するために、つまりそのようにして描くことこそがヤンセンにとって人生の最大の意味で、ひたすら時の流れと競うように猛烈に仕事をして世を去った。後はどうにでも評価するがよいという感じだ。これは並みの画家では叶わない。これほど純粋に絵画に大半の人生を捧げることがどれだけの画家に可能だろうか。勲章も、そしておそらく金も不要で、ただ意識する先人に肩を並べ得る技量がどれだけ自分に獲得出来るかどうか。あっと言う間に過ぎ去る数十年で、その間にどう勝負をつけるか。ヤンセンはやり残した仕事はなかったと思う。花がすっかり枯れて、花弁が全部床に落ちてしまったように彼は死んだ。また今回気がついたが、虫食いがあって、しかも他人の筆跡のある古い便箋のような紙に描いた作品が少々あった。それらはよくよく見ると虫食いの位置をわずかに避けて鉛筆を走らせていることがわかったが、この予めあった虫食い跡を絵の効果に利用する方法は他にも形を変えて見られた。つまり、新しい紙に描く際にも、わざと周囲のどこかを破り捨てたり、あるいは元々欠けていたのかもしれないが、いずれにしても「古い」「不完全な」イメージを作品効果に利用している。また、縁が欠けていない完全な紙に描く場合でも、絵の中の塗り潰している面のどこかに虫食いを模したごくわずかな穴、つまり描き残しをした凝った作品がある。これも「朽ち果て行く」イメージの表現であり、そうしたヤンセンの絵は、本当に時代が100年、200年経ってからの方がもっと美しく見えるのではないかと思わせた。これは枯れても、老いても、ありのままの姿が、虚飾を一切排して美しいというヤンセンの密かな思いを伝えているのかもしれない。
これも今回知ったが、ヤンセンにはハンブルクの美術学校時代に1年先輩としてヴンダーリヒがいた。ヤンセンが18、9歳の頃だ。ヴンダーリヒから銅版画を教えられたそうだが、ヴンダーリヒが銅版画には適さなかったのに対し、ヤンセンはこの技法をよく気に入った。ヴンダーリヒの教え子にシュマイサーがいるが、シュマイサーは石版画に向かったヴンダーリヒとは違って銅版画家に終始しており、その画風はヴンダーリヒよりもヤンセンにとても近い。だが、端正なシュマイサーに比べると、ヤンセンのグロテスクさはもっと明らかになる。シュマイサーにもデモーニッシュなものに対する憧れはあるが、ヤンセンはほとんど綱わたりのような人生を続けながら自己をデモーニッシュなところにどんどん追い込んだ。そうならざるを得ない性質がヤンセンにはあったのだろう。生まれや血によって芸術家の生涯は決定づけられ、後は自然のそのルートを辿って行くものだ。不幸な幼少時代であればそれなりに、幸福であればまたそれなりの芸術をやって行けばよいし、またそうでしかあり得ない。ヤンセンはヴンダーリヒやシュマイサーとは全然違った出自であったということだ。ヴンダーリヒはヤンセンのような渋い色合いの画面ではなく、もっと華麗で、形も無駄を削ぎ落とした流麗な輪郭を特徴とするが、過去の巨匠の作品の引用を頻繁にすることではヤンセンと共通している。両者はこの点で今後大いに比較されるであろう。ただし、ヴンダーリヒは日本の江戸時代の絵師の作品を引用しない。シュマイサーは奥さんが日本人であり、日本に取材した作品が多いが、ヴンダーリヒはもっぱらヨーロッパのルネサンス時代の巨匠にしか関心がないようだ。ヤンセンの北斎にインスパイアされた作品は、今回は副題で銘打たれていた割りにはほとんど展示されなかった。北斎の自画像に自分をなぞらえた作品などを展示し、もっと北斎画との関連を示さなければ、せっかくの「日本におけるドイツ」の意義に欠ける。それに、最初に触れた大陸の対話社だが、その主宰者の坂本直昭がヤンセンに提供し続けた和紙をヤンセンがどう活かしたかの説明があってもよかった。今後ますますヤンセンが日本に紹介されることを期待する。20代の若い人に「若者にはヤンセンはわからない」と発言すると、「そんなことを言うことはおじさんの証拠」としっぺ返しを受けるのが関の山だが、おじさんで充分であるし、そのどこが悪く、恥ずかしいことなのだろう。若者もすぐに老いるし、若さと老いが直結しているからには、老いた者の言うことを若者は多少は耳を貸すのもよい。ヤンセンは太ったおじさんで死んだが、その芸術は誰もまねの出来ないもので、格好よいものだ。若者がそれを本当に知るには、今よりうんと老いてみる必要はある。