『
狼とおっさん』。誰もこんな物語を面白がらないだろう。『狼と少年』の話を学んだのは小学生に2年生だったか、3年生だったか。ともかく道徳の授業であったと思う。狼が来たと普段から嘘をつく少年は、すっかり人々から信頼されなくなり、本当に狼がやって来た時に慌てふためいて逃げ惑う。
この教訓話は、嘘をついてはしまいに信用されなくなるということで、子どもにはとても効果があったように思う。今でも同じ物語が同じように学校で教えられているのかどうか。先日TVが大地震がやって来ることを緊急で告知したが、海底に据えた地震計のデータを読み間違ってのことであった。同様のことがもう2,3度あると、誰でも緊急速報を笑って済ます。機械を信用し過ぎるとそのようなことになる。あらゆることを機械に委ねるようになった今、同様のミスはいつでも起こり得る。機械をあまり信用しないことだ。これは先ほどのTVニュースで、どこかの選挙である候補者が0票であることを不審に思った人たちが再確認を請求した。そのひとたちは0票であった候補に投票したから、機械が0票をはじき出したことに納得が行かない。選挙の開票は厳格なものであるべきで、まさか機械が誤作動した、あるいは人間が故意に票数を変えることが出来るのであれば、選挙の意味がない。0票であったのは前者であると信じたいが、それでも許されないことだ。本来数票あるいは数百票あった人が0票という結果になったことは、100万票の人が本当は0票であったことと同じで、選挙結果は全く信用ならない。よくぞ今回はそのような疑惑が浮上したが、今までの選挙でも似たようないい加減さはあったに違いない。『狼と少年』のように、子どもに正直であることに大切さを学校で教えるということは、大人の社会は正直が稀であることを意味していると考えてよい。あるいは、子どもの間に正直であることを強迫観念として植えつけ、大人になって正直なあまり、簡単に騙されてしまう人格を作るのが目的であるのかもしれない。こうなると、子どもが正直、それを忘れたのが大人と思っていいのかもしれない。あるいは、正直の意味が大人になるにつれて変わり、子ども時代の正直さをそのまま持っている人は「馬鹿」で、大人特有の打算で動く人を「正直」とする逆転現象が横行する。
さて、全く『狼とおっさん』さながらに、一昨日書いたことをすぐに覆して、今日も「梅雨明けの白花」をやる。実は昨日投稿するつもりでいた。ところが写真の出来がよくない。それで今朝撮り直しに出かけた。もう季節は秋であるから、さすがに「梅雨明け」はよくないが、台風が接近し、大雨が降りそうで、気分は梅雨時とさして変わらない。それで強引に「梅雨明け」としておく。筆者のこのブログは自分でも思うが、よくもまあどうでもいいことを毎日書いていて、読み手の胸に何かひとつでも響くことがあれば嬉しいが、書いている本人は実際のところはそんなことを考えずに、とにかく文字を連ねることだけを考えている。「話があちこち飛んで、要領が得ない」との謗りは充分に承知している。ま、面白くないと思う人は自然に読まなくなるし、それを筆者はどうすることも出来ないし、またそもそもそのようにして離れて行く読者があるのかどうかもわからない。印税をもらっているわけではなし、好き勝手を書くにはその方がよい。で、話をまた変えると、柳沢淇園が書いたように見せかけた書とされる『雲萍雑志』の巻二に興味深い話がある。筆者がそう思うだけで、誰もがということはないだろうが、江戸時代の武士の考えを知るのによい話だ。簡単に書くと、ある碁打ちの腕の評判がよく、泉州の豪商の主から勝負をさせてほしいと言われる。その棋士は元武士で、娘がひとりある。棋士と豪商が碁盤を囲んでいる時、番頭が回収して来た大金を主の元に持参する。主は後で確かめると伝えてそのまま勝負を続け、やがて棋士は帰って行く。主は先ほどの金はどこへやったのかと番頭に訊くと、確かに手わたしたとのこと。それがないとなれば、さては棋士が出来心で懐に入れて持ち帰ったか。主に言われて番頭は棋士に会いに行くと、あっさり棋士はそれを認め、数日後にそのお金を返しに来る。それで一件落着で、ここまでなら今でもよくある話だ。ところが予想外のことが続く。5年ほど経って豪商が大掃除すると、棋士と勝負していた時に失った金の包みが出て来る。主は棋士に悪いことをしたと思い、早速棋士の行方を探す。すると、その娘は遊郭で太夫になっていて、棋士は人から畑を借りて耕し、細々と生きている。その様子を見て番頭は謝り、かつてのお金を返し、また主が娘を身請けしたいと言っていることを伝える。また、なぜ本当のことを言ってくれなかったのかとも詰め寄る。すると棋士は、本当のことを言ったところで、それは信用してもらえない。ならばじたばたせずに金を用意して返すべきで、娘を遊郭に売り払った。そして、今さらお金を返してほしくはないし、娘を商人に身請けしてもらいたくもないと番頭に言った。武士とはそういうものだ。
この話に出て来る人はもはや日本中どこを探して絶対にいない。日本はすっかり変わってしまい、この話の武士の行動をむしろ嘲笑し、馬鹿であると断罪する。結局武士は滅びて商人が大きな力を持って明治維新へとなだれ込んだ。TPPの問題からもわかるが、国際関係とはいかに他国より金をたくさん儲けるかの競争だ。そこでは芸術も道徳も何もかもが金に換算される。精神的な裕福という言葉は敗者が使うもので、そんなものは本当は大金持ちのみに許されている。食べるのにきゅうきゅうとして何が精神が豊かだ。先の話の豪商はおそらくそんな考えを持っている。そういう世間にますますなりつつあった時代であったから、『雲萍雑志』を書いた武士はせめて矜持としてそんな話を残しておきたかった。先の話で筆者が最も感じ入ったのは、お金をそっと盗んで行ったのではないかとの疑いを番頭からかけられた時、棋士が全く反論せずにそれを認めた理由だ。そこには大金持ちの前にあっては、貧しい者は絶対に言い逃れが出来ないという恐怖だ。人はどちらの言い分を信用するか。今でも同じで、金をたくさん持っている人の方が正しく、貧しい者は出来心で金を盗むことがあると考えがちだ。棋士はそういう時代であることをよく知っていて、その現実の前に自分がしたがわざるを得ない運命に素直に身を委ねた。じたばたするほどに見苦しく、そんな自分を曝け出したくはなかった。だが、大金のために娘を遊郭に売り飛ばし、しかも自分の信用をなくして田舎で農夫となって隠遁生活を送ることに無念さはないのか。間違ったことが正義とされたまま、自分は汚名も晴らせない。だが、世の中はそういうものであるという達観がその棋士にはあったのだろう。そういうことを知っているのが武士だ。人を恨んでも仕方がない。自分が乞われるままに豪商相手に碁を打ったのがいけない。それは自分の不覚だ。おそらくそのように自分を納得させて人前から姿を消した。番頭がいくら大金を差し出そうとしても棋士は受け取らない。それをもらえば、棋士はその途端に容易に人を疑う商人と同じ人間になり下がる。民主主義の時代になって、誰もが自己主張し、権利を要求する。言った者勝ちの世の中で、どこもかしこも欲だらけ。『雲萍雑志』はあまりに道徳的過ぎる話が多いとされる。そのためか、戦前は学校で教えられた。筆者の小学校の頃は道徳の授業はあったが、今それを復活させることに反対が多い。ましてや、先の棋士の生き方など否定されるもいいところで、正しいのは豪商となる。「自分が犯人ではないと主張すべきところを、それをしなかった棋士は頭がおかしい」。これが模範的な意見だ。
白い花の写真について。今日の3枚は昨夜と今朝撮った。まず最初は「夕顔」か「夜顔」だろう。紐が3本立ててあって、そこに蔓か巻きつき、白い大きな花が咲いている。松尾駅前の小さな喫茶店の前にある。ここはアイスクリームを主に売る店で、いつか中に入ってみたいと思いながらまだその機会がない。花は昨夕はふたつ連なっていたが、今朝10時に見るとひとつはなくなっていた。そのため、夕方や夜に咲くと思える。「夕顔」や「夜顔」とするには筒型の花弁が少し形が違う気がするが、葉の形からして、ヒルガオ科であるのは間違いないだろう。昨夕はシャッターが下りるには露光時間がかかり、写真左のようにぶれて写ってしまった。実際はもっと暗かったが、加工で少し明るめにしている。写真右半分はふたつの花のうち下側を今朝撮ったもので、少しは花弁の形がわかりやすい。花の形は「ノウゼンカヅラ」に似ていて、「夕顔」や「夜顔」のように各弁の中央に筋が見えず、また先端に突起もない。2枚目はその喫茶店から200メートルほど北にあるバレエ教室のウィンドウの中にあった「アネモネ」で、昨夜撮った。切り花がブランデー・グラスのようなものに挿されている。アネモネは春の花で、今頃咲くのかどうか。造花かと思って間近に寄るとどうもそうではない。この花の前に立って目を左手に向けると、子どもたちがバレエをしている姿が見える。それは道行く人にわざわざ見せているものではなく、ウィンドウに近寄った時に、ちょっとした隙間から見えるという具合だ。であるから、ウィンドウの前に立ってカメラをかまえていると、痴漢に間違われる恐れがある。その心配をしながらさっと撮った。あらぬ疑いをかけられるような行為はすべきではない。だが、「白花」を撮影する気持ちが勝った。3枚目はバレエ教室からさらに200メートルほど北にある喫茶店の扉の脇で撮った。昨夜撮影したのに、暗くてシャッターが下りなかったようで、今朝撮り直した。葉の文様が美しい観葉植物で、「コリウス」だ。これが小さな白い花をたくさんつけた穂を何本も立てている。背景の黄色は喫茶店の壁で、これが面白い効果となった。写真だけ撮って店を利用しないのはまずいが、これらの花は歩道際に咲いていて、道行く人に顔を向けている。つまり、見るのは無料で、写真に撮るのもそう考えてよいだろう。