昨夜から激しい雨が降り続いた。今日は曇天の中、昼から大阪に出て展覧会をふたつ観た。その感想は後日に書くとして、今夜は別の内容にする。
それは8月16日に家族で出かけた滋賀坂本の聖衆来迎寺についてだ。書くならばこのカテゴリーかなと思いつつ、もう1か月以上経ってしまった。今朝の新聞を見ると、第1面のど真ん中のノーベル平和賞の記事の真下に、『「六道絵」全15幅 32年ぶり一挙公開』という見出しがあってびっくりした。今日から天台宗開宗1200年を記念して『最澄と天台の国宝』という展覧会が京都国立博物館で開催され始め、そこに来迎寺に伝わる「六道絵」が揃って展示されるという記事だ。3年近く前、定価では5万もする『六道絵』という豪華本をネット・オークションで落札した。いわゆる地獄絵については興味がある。同じ頃に佐伯俊男の本をかなり入手したが、平安時代の地獄絵は中国絵画で発展したものに由来するというから、中国での地獄絵もぜひ観たいものと思うが、まだ調べてはいない。清時代まで続いた罪人の体を生きたまま切り刻む刑罰などは地獄絵さながらであるし、そこには仏教における閻魔大王の裁きの思想がそのまま現実化して伝えられていたことも想像出来る。また、これはつい数日前に思ったことだが、宗達の「風神雷神図屏風」の風神雷神の面相は地獄絵に連なる鬼の表情があって、仏教は日本美術の相当奥深いところにさまざまに影響を与えていることを再確認する必要を感じる。さて、京都国立博物館では昔『六道絵』と題する小さな展覧会を開き、その図録を所有しているが、そのうすっぺらさとは違って、定価5万の豪華本『六道絵』は装丁も立派で印刷もよく、何よりクローズアップ図版が多いのがありがたい。有名な「地獄草紙」や「餓鬼草紙」の絵巻物を始め、日本や外国に流出したさまざまな六道絵が網羅されている。中でも圧巻は聖衆来迎寺に伝わる国宝の六道絵で、これだけでもカラー図版が60ページ近く収録されている。この本を手にして初めて聖衆来迎寺にそんな絵があることを知った。ネットで早速調べると、毎年8月16日しか一般公開しないという。それでその年の同日に滋賀県立近代美術館に行ったついでにこの寺に回ろうと考えた。だが、この寺がある坂本へは行ったことがなく、地図は所有していたものの、美術館から電話をかけて訊ねると、車で30分ほどの距離との返事。美術館からバスに乗って瀬田駅に出て、そこからJR、あるいは京阪電車で行ったのではもうほとんど鑑賞時間が30分もないことわかった。それで断念した。翌年も行く機会を見つけられなかった。息子が車を持ったこともあって、今年こそと考え、8月16日は思い切って、寺に行くことだけを目的にして出かけた。真夏で天気もよく、清々しい日和であった。予想したのとは違い、もっと親しみの持てる雰囲気の寺で、寺に詰めていた檀家の人々の応対もよく、気持ちよく拝観することが出来た。
ところで、このブログを初めた頃のある日、信楽のある家に骨董品を観に出かけた。以前からその話があったが、ようやく先方のつごうがついたので、車2台を連ねて赴いた。その家とは、韓国ドラマのビデオをたまに借りる近所の従姉の息子のお嫁さんの御両親の実家だが、今は誰も住んでいない。1、2か月に一度程度風を入れるために出かけるとのことであったが、庭には雑草がかなり生い茂り、建物の一部には雨漏りもしていた。蔵のある旧家でも、人が住まないと荒れるのも早い。居間に入ってすぐ、テーブルのうえに淡交社刊の有名な「古寺巡礼 近江」のシリーズの第1巻『聖衆来迎寺』があることに気がついた。1冊だけぽつんとあるのが不思議で、手に取ってぱらぱらすると、御主人が「その寺の住職に嫁に姉が嫁いだんですが、住職は亡くなりましてね。それで姉が切り盛りしています」。これにはとても驚いた。そしてこう言った。「2年前の夏にこの寺に電話したことがあるんです。その時、快活な女の人が電話口に出て応対してくれました」「あっ、それはきっと姉です」。全く意外なところで来迎寺と縁があったことになる。それで手に取っていた本は持って帰ってくださいと言われたので、今筆者の脇にある。豪華本『六道絵』にはこの寺の写真は一切ないので、寺のたたずまいを知るには貴重な、いや唯一の本と言ってよい。カラー図版は寺の見るべきものをほとんど掲載しているし、美しく撮れている。1980年の発刊であるので、写真はすでにいささか古く感じるが、それがまたよい。この本を持参して来迎寺に行ったが、寺で売られている冊子よりこっちの方がいいと話しかけて来る女性がいた。その女性はこの本のことを知っていたのだが、もう今は入手出来ないですかねと言っていた。古本なら手に入るでしょうと答えておいたが。
話を戻す。足かけ3年にしてようやく六道絵が公開される日に来迎寺に行ったのだが、結果から言えば、実物は2点のみ、うす暗い部屋の奥の壁に吊られていた。しかもそこまでの距離が7メートルほどもあって、全く細部がわからず、鑑賞に耐える状態ではなかった。これでは家で本の図版を眺めている方がよほどよい。説明してくれた人の話によると、常は京都国立博物館に預けてあって、毎年2点だけ順繰りに寺に戻して展示公開するとのことだ。つまり、1年に1度、8月16日にのみ2点ずつ公開するので、全部見るには8年かかる計算だ。それでも間近で観ることは出来ない。これは想像外のことで失望した。だが、それだけ重要な作品ということだ。何しろ15点全部が保存がよい国宝だ。しかしこの寺が天台宗で、しかも今年は最澄が天台宗を開いて1200年という切りのよい年であるため、観たいと思っていたこの寺の六道絵が一気に全点博物館で観ることが出来る。それで今朝の新聞記事にびっくりしたのだ。32年ぶりということは、次の機会までまた同じ程度かかると考えて、もう筆者は生きていないはずだ。一生に一度の機会として明日にでも観ることが出来るのは嬉しい。『最澄と天台の国宝』のチケットはすでに入手し、今日は阪急電車の中の吊り広告などに盛んにこの展覧会のポスターを見たから、秋の観光シーズンとも重なって大変な人出になるだろう。それはいいとして、空海に並んで最澄は前から気になる存在だが、坂本には最澄ゆかりの場所がいろいろとあるというのに、息子の車で来迎寺を訪れた後は、近くの大型スーパーに立ち寄ってキャノンボールという面白い名前の、縞模様のない黒い西瓜を買って、すぐさま比叡山を越えて妹の家に走った。毎年16日は五山の送り日を妹宅の屋上で鑑賞するのが習慣になっているからだ。その日せっかく比叡山の西の麓の日吉神社の前まで行きながら、参道を車でさっさと往復したのみで、車から降りていろいろと見物することをしなかった。坂本に用事がないこともあって、次に行くのはまた何年も先になるかもしれない。そう考えると、何事も思い切る決心をしなければ、実現がいつまでも先送りになる。今年ももし息子が車を持っていなければ、ひとりで2時間以上もかけて電車を乗り継ぎ、この寺を訪れたかどうかは怪しい。
寺に着いて駐車場に車を停め、すぐに本で見覚えのある門が見えた。そこをくぐると、本堂はすぐ右前方にあった。そして本堂の陣内の軒から掛軸がずらりとかかっているのが遠目にも見え、それが目的の六道絵とわかって心が踊った。しかし、堂内に上がって近くで観ると、予想以上に新しい。絵具の色が鮮やかで、生々しいのだ。おかしいなと思って、拝観料を支払った後すぐに係の人に訊ねた。すぐと、100年ほど前の模写と言う。どおりで雰囲気が違ったのだ。国宝の原本を横に置いての模写であったようで、サイズはほとんど同じだが、子細に観ると、ほんのわずかに描かれている建物や人物の位置に移動がある。完璧に同じものを写し取るというのではなく、同じ内容がそこに描かれていればよいという意味での模写をしたようだ。この模写も数百年経てばそれなりに古色を帯びて風格が出るのだろうか。原本は13世紀後半の鎌倉時代のものとされているが、これは京都や奈良、東京の博物館にある国宝の「地獄草紙」「餓鬼草紙」に比べて100年は下るとはいえ、小さな絵巻物ではなく、びっしりと描き込んだ縦長画面の大きな掛軸であるし、15幅まとまって存在する点でも貴重だ。寺にはこの六道絵だけではなく、重要文化財の絵や仏像、建物があって、滋賀の正倉院とも言われているほどだが、説明してくれた人によれば、こうした六道絵を初めとした寺宝は、他の寺からたまたまこの寺に移され、しかも寺が焼き討ちの対象から運よく外されたこともあって伝わって来たそうだ。最初にくぐった山門も、明智光秀が築いた坂本城の城門を移築したものと言われ、しかも重文の客殿の襖絵は狩野探幽やその一門の久隅守景らが描いたものだ。これは当時寺を再興した僧正の天海の力が大きかったことによる。寺の歴史を垣間見ると、最初は最澄が790年に小さな地蔵院を建てたのが始まりで、1001年に恵心僧都(えしんそうず)源信が念仏修行の道場として「紫雲山聖衆来迎寺」と改めた。それから500年ほど経って再建されるが、その間はどうなっていたかはわからない。延暦寺が力を持っていたので廃れていたのだろう。そして1571年には織田信長が延暦寺を攻め、坂本の町屋もろとも焼いてしまうが、来迎寺の本尊など大切なものを携えて避難していた真雄上人は3か月後にはこの寺に草庵を建て、1580年には早くも本堂を再建した。その後江戸時代になって、前述の天海僧正がこの寺の再建のために、江戸を初め日本各地で寺の什物の開帳を行なう。それほどこの寺が荒れていたのであろう。明治の廃仏毀釈の際に影響を受けることはなかったのは幸いで、天海僧正の再建当時の姿がほとんどそのまま伝わっていると考えてよい。
それでもこの寺を創建した源信はやはり偉大で、この人物抜きには語れない。大和葛城の当麻の出身だが、この地方は家内の両親、特に父親の里にほど近く、また当麻寺は実に素晴らしい自然環境の中にある大きく立派な寺でもあり、何だか感慨深いものを感ずる。源信の生涯はいろいろに伝えられている。そういったものを読んで、こういう偉い僧がいたという事実にたまには心を洗う必要がある。荒れた時代に偉大な僧侶が出現するのは理由に叶っているが、今が荒れた時代ではないかと言えば決してそうではないのではないか。仏教がもうかつてのように人心に力を与えられなくなっている背景に一体何が大きな原因としてあるのか、それを個人で考えるにはあまりにも問題は大きいが、たとえば地獄絵に描かれる世界が真実味を持って人に迫って来ることがないことの裏には、地獄とは反対の極楽浄土のありがたみもない、ただただうすっぺらな人生がいつまでも続くという味気なさ、つまり無常感に連なる思いを人々が日常感じ続けているためかもしれず、いつでもどこでも人々はそんな思いを覚えることが出来る性質を持つ存在である限りは、仏教は死に絶えないはずではないか。いや、確かにそうだろう。だからこそ、たとえば新興宗教が次々と勃興もする。人々の心の救いに対する欲求は減ってはおらず、それに対して旧弊の仏教が応えられていないだけなのかもしれない。人々が一見豊かな都市生活を送ることになると、あらゆるものがシステム化されて、死体もすぐに火葬にされるなど、死の忌まわしさも限りなく無機的になって実感が伴わない。来迎寺の15幅の六道絵の中の「人道不浄相」は、桜の花咲く下でひとりの女性の死体が敷物に横たえられ、それが画面下に向かって次第に朽ち果てて行く様子を描いてある。これは誰でも一度は見た覚えがある図であろう。鳥や犬、あるいはほかの獣たちがやって来て、死体を貪り、ほとんど骸骨になった姿には蛆虫が無数に列をなしている。地面から湧き出たようなその虫の隊列は胡粉で点々と描かれているが、様式化された描写ではあってもきわめて現実的に見え、人もまた土から生まれて土に帰るものであることを改めて思わせる。この絵を見せれば文盲でも僧の解く思想が伝わったであろう。平安末期から鎌倉にかけての荒れた時代であれば、こうした死体を日常的に見ることは少なくなかったはずで、人生の無常に応えるために仏教がどれほど大きな役割を果たしたか想像にあまりある。それが現在ではどうか。自爆テロなどによる突発的な事件に巻き込まれる漠然とした不安はあっても、死体はすぐさま片づけられ、蛆虫を知らない子どもが大半を占めている。不浄がなくなったのではない。見えなくされているのだ。しかし、都会のコンクリート文化などうすっぺらいもので、実際道路の舗装の皮膚のように薄いすぐ下はたっぷりとした土だ。
来迎寺に伝わる六道絵は源信とどういう関係があるかだが、この関係は無視出来ないどころか、源信がいたことによって六道絵が描かれたと考えてよい。源信は数々の著作を成した学僧で、44歳で執筆された『往生要集』は特に名著とされている。淡交社刊の前著には、「『往生要集』は…の十章から成り、その背景は現世の無常なることを認識して往生浄土を願い、浄土に往生するためには念仏が最も重要であるとするものである。この著作は、はじめて日本浄土教の確立を意味づけ、後世の浄土教の展開に大きな影響を与えたといえよう」とあって、この著作は中国にも送られ、感動と驚異の目をもって見られ、宋の真宗皇帝は深く源信を尊信したと続けられている。この『往生要集』の中の六道を主な主題として絵が15幅の六道絵なのだ。初めは源信が開基した叡山の横川霊山院の所蔵であったものが、織田信長の焼き討ちの際に来迎寺に移され、そのまま今に伝わった。無知で素朴な人々を教化するために地獄の恐ろしい様相をこれでもかというように執拗に解き、そのことで仏教集団も生き残って来たと斜めに見る向きもあるだろう。だが、世の中はそう単純に物事を割り切って考えることは出来ない。人生は意外なところで意外なつながりがある。源信という偉いお坊さんがいたことでこのような絵画が結果的に生まれたし、誰しも宗教が時に偉大な芸術を生むことを認めないわけには行かない。これはキリスト教でも全く同じだ。源信が1001年に来迎寺を創建した時、ヨーロッパでも「主の怒りの日、再臨の日」の近い千年思想が頂点に達していた。中世の暗い時代の中から立ち上って来た六道絵は、リアリズムと幻想性をない混ぜにしたような迫力で観る者に迫って来る。今後も画家にとっては絶えずイメージの源泉になるだろう。