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●『歌麿をめぐる五人の女』
『日本三景展』のチケットを余分に入手したので、それで観た。『日本三景展』は後期の展示替えとなり、蕪村や呉春の作品が展示されていた。



呉春の作品展示は平安画廊で前もって観た図録で知っていたが、この展覧会に行った大きな理由は蕪村や呉春といった江戸期の画家の作品が展示されるためであった。だが、蕪村はいいとして、呉春は直接には天の橋立には関係がない。訪れてもいないし、描いてもいないはずだ。ただ蕪村の弟子というだけで作品がついでに展示されたようなものだ。さて、文化博物館は「映画の中のきものを-女優の和装美」という企画で4作が上映されている。どの作品を観ようかと考え、出かけられる日を考え合わせて土壇場でこの作品と、そしてもう1本『細雪』を観ることにした。この映画はタイトルからして歌麿が5人の女を相手にして騒動を起こすものかと想像したが、実際は歌麿と女たちは色恋沙汰の関係を結ぶことはなく、歌麿の周囲で繰り広げられる女同士のドラマだ。主人公は歌麿ではなく、むしろ女たちだ。その意味で企画のタイトルとなった和装美は的を射ている。もちろん男たちもキモノ姿であるので、女たちばかりに焦点を当ててのタイトルではないかもしれないが、きらびやか、艶やか、そして端正といったあらゆる女性のキモノやその着こなしが映し出されて、見るほどに感心することしきりであった。これはキモノがよく似合う体形の女優がまだ多かったからだ。今は欧米人並みに体形が変化し、足が長くなった分、キモノ姿は一種異様に映る場合がよくある。昔の反物の幅ではもはや間に合わなくなっていることからもそれはよくわかる。映画やTVで見慣れる俳優が実際は意外に小柄であることを時として知って驚くことがあるが、俳優がどう映るかはその所作が当然としても監督やカメラマンの手技も大きく影響する。それに洋服とは違って、着こなし次第である程度どうにでも見えるキモノの場合は、着つけを指導する人も重要だ。そのほか細かいことを言えば、髪や化粧、それにどんな文様のキモノにするかといった問題も関係して来る。現代に比べて資料に乏しい江戸時代を画面で再現するには、それなりに時代考証をしっかり出来る人物を抱えなくては、俳優や監督その他の人々の努力も生きては来ない。今は時代劇が昔に比べてうんと少なくなっているが、それはロケをするにも適当な場所がもうほとんどない事情や、時代考証を正しく行なえる人物が存在しないことも理由にあるだろう。昔ならモノクロの画面でよかったから、ある程度はごまかしが効いたが、今ではカラー、そして画質が向上し、たとえば昔のキモノを再現したつもりでも、いかにも現代のおそまつな技術の物を伝えてしまいかねず、たとえ時代考証がしっかり出来ていても、見るべき人によっては笑われてしまう事態がある。今は実際そうした作品ばかりと言ってよい。そこは割り切って、どうせ現代における200年、300年前の架空の世界を表現するのであるから、多少は現代の安っぽさが表われたところで仕方がないと開き直るしかない。
 そんな代表は60年代後半から日本でも大ヒットしたイタリア製のカウボーイ映画だ。マカロニ・ウェスタンと言って二流扱いされたものだが、本場アメリカにはない面白さがあったので、それはそれとして歓迎された。このマカロニ・ウェスタンの中に、第二次世界大戦で使用された機関銃が登場したことがある。これは時代が合わないのでいくら何でもやり過ぎだが、時代考証などどうでもよくて、ストーリーが面白ければよいというわけだった。だが、ストーリーはどれも似たりよったりで、そこにのみ見所があったとは思えない。別のマカロニ・ウェスタンでは、室内の場面でゴヤやレンブラントなどの有名絵画をふんだんに壁にかけていた。まさかそんな絵がゴールド・ラッシュ時代のアメリカの荒野のとある部屋にかかっているはずはないから、これも噴飯ものとしてよく記憶している。とはいえ、それと同じことはケン・ラッセルの初期のモノクロ作品『ディーリアス』でもあった。イギリスの有名な音楽家の後半生を描くこの映画では、室内にムンクの油彩画が何点もかかっていた。これまたあり得ない話だ。ディーリアスが複製をかけていたかもしれないという意見があるかもしれないが、全くあり得ない。映画は作りものであるので、そうした厳密な時代考証をするのはさほど重要ではないという考えもあるかもしれない。リアリズムばかりが作品の表現手段ではないからだ。あえて小道具を誇張することで強烈な印象を与えればよい場合もある。それがマカロニ・ウェスタンでの機関銃やヨーロッパの巨匠絵画となるのであろうが、俳優その他、画面に映るほかの大部分の要素がリアルなものであるから、そんな中に突飛に時代が合わないものが混じると、やはり違和感は生ずる。舞台ならまだましかもしれない。それは観客の目の前で俳優が同じ空気を吸って演技をするが、舞台は観客のいる現実とは一線を画された別の空間だからだ。歌舞伎などはもっとそう言える。俳優たちが独特の化粧と現実離れした動きで異空間を演出し、象徴によって人々を感動させるから、小道具も現実のものとは違って大いに誇張されているべきだ。そんなわけで映画監督はどういう画面を作り上げるか選択を強いられている。文化博物館の今月下旬には内田吐夢の『恋や恋なすな恋』を上映するが、この時代劇を10年ほど前にニュー・プリントで観て、あまりに素晴らしくて驚嘆したものだ。前半は通常の映画のような実写なのだが、後半は同じ登場人物が突如そのまま歌舞伎舞台で演じて踊ったりする。つまり劇中劇に変化するのだが、舞台を固定カメラでそのまま撮影するのではなく、クローズアップを多用してカメラは自由に俳優を映す。だが、それまで普通の映画としてストーリーを追って来ていながら、急に描写方法が大きく変化するので、それまで観て来たものが夢なのか、あるいは後半が夢なのか、意識が朦朧として来る。そこが監督の狙いでもあったのだろうが、この斬新な手法には感心した。同じような映画をほかに観たことがない。半世紀ほど前までの日本映画には大変な才能が揃っていたことを今さらながらに思う。ついでに言っておくと、その映画でのヒロインは瑳峨三智子で、あまりの色気にすっかり参ったのをよく記憶している。女性がこんなにどきどきさせる存在であり得るのかと初めて知ったと言ってよいほどだ。それも全部演技なのだが、演技とはいえそんな表情やしぐさをしてみせることの出来る俳優は今はすっかりいなくなってしまった。同じ俳優の貫祿をこの映画でも感じた。
 5人の女のうち、主人公は田中絹代が演ずる茶屋の女おきただ。5人はそれぞれよく描き分けられていたが、モノクロであるし、また顔のクローズアップが皆無に等しいため、なかなか顔によって判別することが難しかった。おきたは最後に近い場面で恋仇の女を刺し殺し、そこで初めて上半身がクローズアップされるが、その女優の顔はさほど美人とも思えないものであったが、キモノ姿の女っぽさはまるで絵からそのまま抜き出て来たような粋さと色気に溢れていた。ちょうど竹久夢二の絵によく出て来る女を思えばよい。いやそれ以上に江戸時代の女はこんなに色気があったのかとぎょっとした。うなじひとつをどう見せるか、どう隠すかで自在に女は自己表現したが、今はへそ丸出しのジーパンが女性にはやるなど、どんどん素肌を見せて色気も何もあったものではない。隠すから色気が出るということを完全に忘れてしまった現代の女性ファッションだ。もう江戸時代のキモノ文化に戻ることは絶対にないし、また前述したように体形がキモノに合わなくなってしまっている。そのためにへそ出しジーパンが流行するのもやむを得ないのだろうが、江戸時代の遊女が見ても腰を抜かすような短いスカートを履いた女子高校生の数人が電車の中で大声で話しながら、だらしなく足を広げて座っているのを見ると、もう日本もおしまいかとおおげさでなくて思うことがよくある。話を戻して、この映画を観ようと思ったのは、画家、つまり江戸時代の絵師をテーマにしている点であった。韓国のTVドラマではよく絵を描いたり、ピアノを演奏したりする場面がある。これは今の日本のドラマにはほとんどないことのように思う。韓国ドラマにおけるこの美術や音楽の登場は、監督の単なる好みとは言い切れないものがあるのではないだろうか。国民全体がそういうものを心のどこかで欲している証拠だと思う。そしてそういう美術や音楽をたくさんの人々が観るドラマに描かなくなった日本というものをどう考えるかだが、明確な答が見つからない。映画監督はすべて画家ほどの絵の技量があってしかるべきと筆者は考えるが、そうではない監督が今は多いのではないか。つまり美術を知らずに映像を撮っている。マカロニ・ウェスタンと同じことと言える。面白ければよいというわけだ。だが、面白いのもいろいろなレベルがある。ある人には笑われているような作品でも大多数が面白ければ文句はないと主張する創作者が増えているのかもしれない。筆者の思う理想はそうではない。あまり物事がわからない人が観てもそれなりに面白く、また専門家が観ても感心するというものが名作の条件ではないだろうか。
 歌麿は実際は醜い男であったというのが現在の定評で、この映画のように痩せ型でいなせな男ではなかったかもしれない。歌舞伎役者の坂東蓑助が演じているが、さすが小気味よい演技で、京都太秦で撮影されているが、江戸の雰囲気がよく出ていた。歌麿の、絵に打ち込む生活が物語の随所に表現されていて、絵師の自負をよく伝えていた。こうした映画が今はもうほとんどない点で楽しい。絵師に限らず、職人が仕事一筋に打ち込むといった話はもうNHKでもかつての映像ライヴラリーでしか提供出来ないのではないだろうか。この道一本という人物をここ2、30年の日本は急速に冷遇し、忘れて来たと言ってよい。有名になりさえすれば勝ち、金を得さえすれば勝ちという価値観が大手を振り、名人芸に生きようとする人を嘲笑するかのような風潮するある。また、名人芸に生きたくとも、そういう場がもはやほとんどないと言ってよい。人件費の点でもう合わないからだ。だが、この映画ではそういう世知辛い事情は一切描かれない。絵の腕があれば武士でも尊敬して弟子になりたいと言ってやって来る様子を描き、最初から最後まで、名匠に栄光あれという監督の思いがよく盛られている。それに歌麿は権力に負けることをしない。自分の望む作品をものにするためにはどんな労苦もいとわないという根性がある。これは溝口監督が自身を歌麿に投影したのではないかと思える。1946(昭和21)年の撮影で、戦後すぐであるので、GHQの検閲や圧力があった。それに抵抗し、主張して出来た作品だ。そんな戦後すぐの映画でもこれだけのものが撮れたのは、まだ映画界に人材が豊富にあったからだが、今ではもう無残なものだ。この50年で日本がいかに自らを破壊して来たかがわかる。外敵の爆弾によってもびくともしなかったものが、豊かな経済生活の中で自滅して来たと言ってよいかもしれない。
 この映画の時代考証は甲斐庄楠音(ただおと)が行なっている。この点でも重要な作品だ。6年ほど前に千葉市美術館で『甲斐庄楠音と大正期の画家たち』という展覧会があった。そのチラシが手元にある。甲斐庄は1894年の京都生まれで、1978年まで生きたが、日本画家として活動を40歳前でやめて、1930年代以降は溝口監督のスタッフとして時代考証を担当した。これには衣装や道具の知識が必要だが、同じ年に同じ京都に生まれた吉川観方と同じく、明治生まれの画家には古き江戸時代のあらゆることに精通した人物が少なからずいた。歴史画を描くためにはそうした知識が必要であったため、日本画家が小道具や骨董に詳しいのはある意味では必然性もあった。そういう才能が映画作りに役立ったのは面白い。画家の時代の次に映画の時代が待っていたというわけだ。残念ながら、甲斐庄の絵はあまり観る機会がない。京都で紹介された例としては1986年の国立近代美術館における『京都の日本画1920-1930』をよく記憶している。この直後に『写実の系譜Ⅱ 大正期の細密描写』でも何点か展示されたが、80年代はちょっとした甲斐庄ブームがあった。甲斐庄の絵は土田麥僊からは「穢ない絵」と言われた。確かに平面的な着色法による土田から見れば、陰影を強調してリアリズムに徹した描写による、しかもまるで幽霊のように女性が幻想的に浮かび上がって見える絵は恐ろしく、また穢なさを感じさせたのは無理はない。だが、土田の描くまるで模様のような舞妓に比べて、甲斐庄の絵は舞妓の体臭や肌の温もりをはっきりと伝える。変な言い方だが、とことん女遊びをした者にしかこういう絵は描けない。女の不思議というものに憑かれ、その極致を見定めようとした過程において生み出された絵が甲斐庄の描く女性たちに思える。同じような路線上には4歳年長の北野恒富がいるが、甲斐庄のはもっとリアルで艶めかしく、美人をお決まりの美人としては描かず、また美人は元から扱いもしない。もっと卑近な、美人顔に惑わされない女の本質を見ようとしているところがある。そして、いくつかの絵を見ると、それはまるで映画の中の女性に思える。つまり、日本画では限界に達したような洋風の写実的立体表現であって、そこから映画への橋わたしはすぐ間近で、映画で時代考証を担当するに至るのはよくわかる気がする。転身は画壇への幻滅も大きくあったが、よりリアルな生身による表現を求めると、ついには女優とよく接し、それを使ってきものを纏わせるといったことに向くのは当然ではないだろうか。甲斐庄の絵は立体的だが、その究極は俳優の動く映像ということだ。画壇から去って画家としての甲斐庄が二流であったという証拠にはならないであろう。もっと時代が経ってみないことには見えて来ないものがあるからだ。京都画壇と京都で撮影された映画との関わりはまだまだ今後の研究で明らかにされることがあるように思う。
by uuuzen | 2005-10-06 23:30 | ●その他の映画など
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