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●『名家の娘ソヒ-土地』
班が誰でも金持ちであったとは限らない。また、悪賢い親から生まれた子が同じような人間に育つとは限らず、親を反面教師と思ってむしろ清廉な大人になり得る。このふたつのことを中心に4代にわたる同じ村人の関係を全52話で描く大河ドラマを今日は取り上げる。



原作は女性が書いた歴史長編小説『土地』で、同じ題名で過去に2回ドラマ化されている。筆者が見たのは2004年の製作で、10年近い昔のことで、それを納得させる場面がたくさんあった。それは予算不足もあるが、脚本家や小道具係の勉強不足、それに日本人スタッフをおそらく雇わずに撮ったためで、日本から見ると珍妙な場面が特に後半部に多かった。それが残念だが、このドラマが日本以外のところで放送されてもそのことを感じる人はまずいない。欧米の映画で日本人が登場する場合、相変わらず中国的なメロディが背景に流れたりする。アメリカ映画で忍者を演じるのは、すべて韓国系アメリカ人であると先ごろのネット・コラムにあったが、日本の正しいイメージは今後も修正されないままである可能性が大きいと思う。これは日本が海外に対して自国に文化をあまり発信したがらないからでもある。それはいいとして、このドラマの製作者はドラマの後半において日本が重要な役割を持ち、たくさんの日本人や日本の街を撮影せねばならないことがわかっていながら、不勉強ゆえの失笑を買う表現をしているのは、日本人が見ることを想定していないからだろう。とはいえ、このドラマは反日的な内容と断定出来るものではない。筆者が最後まで興味深く見たのは、日本ではまずドラマに取り上げない時代と国同士の関係を真正面から描いていることだ。これは両国の学校における歴史問題の差を示しているし、また韓国では近現代にも強い関心を持っていることがわかる。韓国ドラマはトレンディものか古代の時代劇に大別されるが、本ドラマはその中間とでも言うべき時代を描き、しかも原作が小説であるので、他の韓国ドラマにはない重厚さと落ち着いた香りに満ちている。その点では韓国ドラマを頭から見ない人向けと言える。ただし、19世紀後半からの日韓の関係をドラマ化するとして、韓国の側から見たものであるので、日本としては納得が行かない、あるいは物足りない部分があるのは当然だ。にもかかわらず、日韓併合直前の韓国がどのような国であったか、また併合後に人々がどう生きたかを知るには、目下のところ韓国ドラマでは本作しか好例がないのではないか。NKHの大河ドラマに筆者は関心がないが、それは扱う時代がほとんど限られているからだ。日韓併合時代を、韓国をも舞台にして両国の関係を描くといったことは、まず日本人ははなから求めないであろうし、求めてもNHKは拒否するだろう。それにドラマを作るとして、それに使える小説がない。書き下ろしの脚本でもいいが、その才能もないだろう。それほどに日本では一種のタブーとして日韓併合前夜から敗戦までの両国関係をドラマにする考えがない。これは歴史が新しいということも理由としてあろう。だが、原爆に関する映画は戦後間もなくして撮られたのに、大陸から帰国した人たちやまたそうせざるを得なかった理由を描く映画やドラマはないだろう。あっても人気がないはずで、NHKの大河ドラマはせいぜい明治維新頃までを扱う。このことは日本の義務教育における歴史教育と連動しているだろう。敗戦した日本は出来ることならそれに至るまでの100年間におけるアジアとの関係はあまり直視したくないと思っている節がある。韓国ではそうではないことが、本作からでもよくわかる。両国の溝はこの歴史教育の差が基礎にある。
 本作の面白さはたくさんあるが、19世紀末の李王朝時代の農村が、まるで数百年前と変わらないようであることだ。日本も幕末までは江戸初期と大差ない部分がそれなりにあったと思うが、本作を見る限り、朝鮮はあまりに世界の動きから取り残されていたように見える。実際そうであったのだろうが、その一番の理由は両班が農民を支配し、無為徒食を貪っていたからであろう。身分制度が強固で、ごく少数の大金持ちが大多数の無学文盲の人たちを支配していた。そして世界がどのように変化して来ているかを知らず、また知りたいとも思わなかったため、たちまち明治維新を成功させた日本に飲み込まれるようになった。ただし、朝鮮内部に惰眠を貪っていた両班に批判的な人たちがいなかったわけではない。そのことは本作でも最初から描かれ、本作の主人公たちの運命に深く関わっている。朝鮮を開化しようという動きは両班の中にもあったが、本作ではそうした精力とは違って、慶州出身のある人物が興した東学の思想に焦点を合わせる。これは西学に対するもので、西学は西洋の学であるから、それとは違う朝鮮独自の思想とその勢力を増やそうという人たちの集団で、その朝鮮独自とは両班が支配する儒教社会とも異なるものだ。当然それは両班から否定され、東学は弾圧される。こうしたことひとつ取っても日本では全く馴染みがないし、また関心を抱く人もほとんどいないから、本作は最低限そうした歴史を知る、あるいは知らなくても興味を抱く人向けと言える。東学は身分社会を否定したから、その点では日本の敗戦すなわち朝鮮の独立を先取りして夢見た。本作はまさにそのことに焦点を合わせた内容で、主人公のソヒの祖母は東学党の筆頭と通じてその子を孕む。その子は非嫡子として育ち、ソヒが幼少の頃に屋敷にやって来て下男になる。ソヒの祖母は自分の子と知っていて、屋敷に幽閉された彼を逃がしたりする。この男は後にソヒの夫も同調する身分社会をなくす運動に加わるが、思い半ばで死んで行く。このドラマは登場人物がとても多い分、次々に人が死んで行く。しかも天寿をまっとうして幸福に生きるというのではなく、ほとんどの人が呆気なく、また恨みを抱いたまま死ぬ。それはさておき、東学党がソヒの祖母と関係するところに、原作者の戦後の民主主義をありがたいものと考える思いがあるだろう。ただし、朝鮮半島の歴史は日本の敗戦後にさらに複雑化する。朝鮮戦争が始まるからだ。その芽も本作には描かれているが、半島が南北に分かれたことまでは原作の小説には描かれないのだろう。そのため、本作は最終回を見た後、解放感や安堵感はない。むしろその直後に登場人物たちが新たな災難に巻き込まれて行ったであろうことを想像させられ、胸が痛む。
 日本との関係はどのように描かれているかと言えば、日韓併合時代に自由に満州、半島、そして日本を行き来出来たから、本作の登場人物たちはあまりに頻繁と言うにふさわしいほどにグローバルに動く。その点もまた日本の大河ドラマにないスケールの大きさで、また朝鮮が中国と日本に挟まれた半島であることを再認識させる。中国、日本だけではなしに、ロシアも描かれ、街角のセットはみなそれなりに建物や看板をそれぞれの国らしく作られている。それは当然とはいえ、1,2秒のカットであっても、道行くエキストラにしかるべき服装をさせていて、製作者の熱意が伝わる。ところが、前述したように、最もたくさん出て来る日本人及びその街角などは資料に基づいている努力の跡は伝わるが、監修者に日本人を最低ひとりを雇うべきであった。残念なことは日本人を演じる俳優の日本語だ。これは全くおそまつで、それは韓国の視聴者にもわかったはずだ。
 原作は『土地』という題名で、1969年から25年間書き続けられたという。完結しない間に2回ドラマ化され、3回目の本作は小説が完結して初めてのものだ。そのためと言おうか、つまり扱う歴史が長すぎるため、登場人物が他の韓国ドラマの倍から3倍に膨れ上がった。しかも子ども時代、青年時代、そして大人になってからも描くため、同じ人物を3人が演じる場合がある。これは似た顔の俳優を3人使えばいいが、それは難しいだろう。本作では子役と大人を演じる俳優があまりに体格も顔も似ていないため、全体に散漫で、またドラマがどうしても作り物めいて見える。この点、顔や身なりを想像するしかない原作の小説は有利だ。したがって、小説を書くこととは別の大きな労力を本作に費やす必要があった。とはいえ製作費には限界がある。その範囲で収めるには、そこそこおかしくない程度であればいいだろうといった見切り発車で撮影に臨む場合が少なくなかったはずだ。両班の娘である主人公ソヒは使用人ギルサンと結婚するのだが、彼は禅寺の和尚に絵の才能を見込まれている。ドラマのほとんど最終回で、人生を大きく迂回はしたが、その寺に寄進する観音像を描く場面がある。その観音像は日本のそれとは形も描き方もまるで違って、いかにもチベットにより近いことを思わせる。また、どう見ても1日で描き終わるものであるのに、四季が巡ってようやく完成という設定で、そういう点も小道具係はかなりの手抜きをしている。ソヒとギルサンは身分の違いを越えて結婚し、ふたりの男子とひとりの娘を得る。そのひとりが画才に恵まれ、日本に行って絵の勉強をする。もちろん戦前の話だ。彼が東京の街で本屋のウィンドウを覗く場面がある。そこには当時の朝鮮にはない珍しい西洋画の画集が並んでいる。これは当時の日本がいかに朝鮮より西洋の文化を多く取り入れ、また出版文化も盛んであったことを示すが、飾られている画集は集英社のヴァンタンで、これは70年代に発売だ。そのほかに見えた本はハーレクイーンの翻訳書で、もちろんこれもヴァンタンかそれ以降の出版で、日本の古書店では1冊10円程度で売られていたりする。つまり、本作を製作するに当たって、小道具係は戦前の美術書を韓国で入手することが難しかったのだろう。それであまり調べもせずに容易に手に入る安物の本を並べた。せっかくの文学の香り高いドラマであるのに、小道具の雑さ加減が目立って興醒めする。とはいえ、日本でもそういったヴァンタンの画集を知らない人は多いであろうから、あまり細かいところに文句を言うべきではないかもしれない。
 原作があまりの長編で、おそらくそのほとんどをざっと描く本作は、ここで書くべきことが多過ぎる。ソヒは年上の下男ギルサンにかわいがられて育ち、結局長じてからも自分のことを一番気遣ってくれるのが彼であることを知って結婚する。だが、周囲は身分違いであることを揶揄し、またギルサンも身分制度の矛盾を破壊すべく、東学の流れを汲む運動に身を投ずる。それは反政府行為で、ソヒにも警察の手が及ぶが、彼女は表向きは親日派を演じ、裏ではギルサンを助ける。その綱わたりの生き方が本作の大部分を占める。ソヒの家は洛東江の畔にある。本作ではセットを使わず、その地に現存する両班の家を使ったようだ。これがとても立派で、両班の威力を見せつける。洛東江は韓国の東部を南北に流れる。ソヒの家は慶尚南道の河東(ハドン)にある。そのため、本作はそこを中心に北や南と登場人物が動くが、遠い親類に屋敷を奪われたソヒは晋州に居をかまえる。この街に昔行ったことがあるが、韓国ドラマの時代劇にそのまま出て来るような石造の城塞があるなど、落ち着いた雰囲気に満ちている。その街の警察署長は日本人が赴任しているという設定で、彼は事あるごとにソヒと対立する。ソヒは献金するなどして、署長の上役と仲がよく、署長はソヒに手出しが出来ないが、戦争が激化して来ると、朝鮮の子弟にも学徒動員の声がかかり、ソヒの子どもも前線に行けとの命令が下る。結局敗戦になってこの署長はピストル自殺するが、本作で最も登場する頻度が多い日本人役がこの人物で、そこにこの原作者の日本への思いが見えていると言ってよいが、日本人すなわち悪人という単純な描き方をしていない。原作の小説が大きな人気を獲得して世界中で翻訳されているのはそのためだろう。日本人はほかにも登場する。それは朝鮮人の娘と恋に落ちる男性で、彼は彼女を求めてハルピンそのほか、各地を転々とする。民族を越えた純愛だ。ところが女には日本を許せない思いがあって、男の子を妊娠しながら、男から去る。そしてギルサンなど、自主独立を求める勢力に加担するのだが、そこからも原作者の思いがどこにあるかがわかる。
 本作で最大の悪人は、ソヒと同じ村に住んでいた両班のキム・ピョンサンだ。彼は自分より身分が劣る女と結婚してふたりの男子をもうけている。ピョンサンは没落して貧しい生活を送っているが、それは身から出た錆で、博打好きであるためだ。そしてついに金に困ってソヒ一家を狙い、ソヒの下女をそそのかして、ソヒの父の子を孕ませようとする。その悪だくみは発覚してピョンサンと下女は死刑になるが、殺される寸前にふたりの子に悪いのはソヒで自分は無罪だと告げる。その言葉を真に受けたのが長男コボクだ。ピョンサンの妻は前途を悲観して首吊り自殺してしまうが、コボクは村人やソヒに憎悪を抱いて河東を離れ、弟は村人が母の墓を作って弔ってくれたことに感謝し、村に残って細々と生きる。長年顔を合わせないふたりだが、やがてコボクは晋州の警察署の刑事となってソヒに復讐する。コボクとピョンサンは同じ俳優が演じるが、このドラマの見どころのかなりの部分はこの俳優とソヒの対立にある。同じ両班であったのに、一方は没落して殺人まで犯し、その長男はやがて村人たちから撲殺される運命を辿り、一方は村人から慕われ続け、下男と結婚して財を成し、激動の日韓併合時代を生き抜いて独立の日を迎える。これは、名家の出であっても、人格には関係がないことを主張していて、同じことはソヒの財産を奪った遠縁の親類親子にも言える。ソヒを迫害する人物の代表がふたりとも両班であるのは面白い。もちろん当時の下男は相手にならなかったからだが、李朝末期の両班がいかに腐っていたかがわかる。両班は両班同士で結婚するのが普通であったのに、両班の半分はろくでもない人物であったという描き方は、現在の韓国の大半の人の思いを代弁しているだろう。ソヒの遠縁の男チョ・ジュングは妻を連れて両親がいなくなった幼いソヒの屋敷を訪れ、やがてまんまと全財産を奪ってしまう。ソヒはまだ子どもであり、周囲にたくさんの下男やその家族が見守っていても、ジュングの仕打ちに抵抗出来ない。ジュング夫婦は典型的な守銭奴で、ピョンサンに似たところがある。
 ところが、ピョンサンのふたりの息子のうち弟が、ギルサンを何度も助ける善人として育つのと同じように、ピョンサンのひとり息子は、せむしの身体で心が清い人物として登場する。彼は父が強欲であることを嘆きながら、最後に行くところがなくなって無一文になった父を引き取って山村の貧しい家で暮らす。それは儒教社会の典型的な見本で、とんでもなく悪い親であっても子どもは親を大切にするという姿だ。極悪人の子どもが純粋無垢な人間になることは珍しくないだろう。韓国ドラマではあまりそういう描き方はされないが、本作の原作者は人間の深みを表現するために、あえて悪人から善人が生まれることを強調したかった。そこには悪を許すという思想がある。それはキリスト教だけのものではないだろう。このドラマにはキリスト教は登場しない。禅僧が重要な役割を演じ、仏教と儒教が物語の根幹を成している。そのためでもないが、日本を悪そのものといった単純な見方もしていない。むしろ、原作者は親日派ではないだろうか。ソヒが表面的には親日派を演じなければ時代を生き抜くことが出来なかったことを、決して批判的に描いていない。死んでは元も子もない。生き抜いてこそで、そんなソヒは周囲から非難されるが、母として何としても子を守る決意があった。その点で、本作は男と女の生き方の差を描いているとも言える。そして原作者が女性であるからには、女は平和であろうが戦争の時代であろうが、逞しく生きて行くことを物語の中心に据えたかったと思える。ドラマの最初の回で成人したソヒが村の田畑を見ながらかつて母が話したことを思い出す場面ある。それは土地はそれを耕す人たちのもので、その人たちにしても、土地に流れる空気や香りを吸って生きて行くだけといったことだ。ドラマ後半はソヒの子どもたちの時代になるので、『名家の娘ソヒ』という題名よりも『土地』がいいと思うが、ソヒが登場しない回はないし、またソヒの存在感は圧倒的で、その大人の役を演じたキム・ヒョンジュあっての本作となっている。心温まるホーム・ドラマもいいが、たまにはこうした重厚長大な作品に触れたい。『土地』は邦訳されているのかどうか。日韓はお互いに偏見が強く、文化交流は底が浅いのではないか。このドラマと同時代の日韓を、日本から描く大河ドラマが作られ、それが韓国でも見られるようになった時に、初めてまともな相互理解が始まるような気がする。そこには両国の近現代史の共通した眼差しが欠かせない。
by uuuzen | 2013-07-25 23:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画


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