捨ててしまったのか、それともチラシの山に紛れているのか、今日は先月見たコンサートについて書くつもりで、そのプログラムを先ほどから探している。日づけが変わるという深夜であるのに33度もあって、そうでなくても半狂乱になっているのに、探しものが見つからない。
なくても書くことは出来るが、用意出来るものはしたい。プログラムと一緒にたくさんのコンサートのチラシをもらって帰り、確か選り分けてプログラムはチラシの山に載せておいたように思うが、一緒に捨てたかもしれない。そのコンサートについて書くのでなければ今夜は何にしよう。急きょ思いついたのが、先月末だったか、奈良で見たワーグナー生誕200年記念展だ。生誕200年の区切り、しかも大作曲家の展覧会となると、そうとう大きな会場を使ってのものかと思えば、奈良県立美術館の通りを挟んで西隣りの文化会館での開催だ。これでおおよそどのような内容かが想像出来る。それで、この展覧会だけでは奈良にわざわざ行く気になれないので、どちらがついでかわからないが、県立美術館の企画展も見ることにした。機会があれば同展についても書きたい。さて、ワーグナーはクラシック音楽に関心を持つ人ならば一度は彼のオペラ、楽劇に夢中になるだろう。これは前に何度か書いたと思うが、筆者がワーグナーの楽劇を初めて聴いたのはNHK-FMで70年代半ばであった。毎年年末に集中的にバイロイト祝祭劇場での録音が放送された。柴田南雄の解説であった。2時間のカセットテープで録音し、それを繰り返し聴いたかと言えば、かなり退屈であった。それはどういう筋運びかわからなかったからと言うよりも、舞台の様子が見えなかったからだ。柴田の解説によっておおよその物語はわかったし、またライトモチーフの細かい解説があったりもしたので、聞きどころはわかる。ところが交響曲のようにどの箇所もじっくりと聴くという気になれない。必ずどこかでほかのことを考えてしまう。簡単に言えば最初から最後まで没入し切れないのだ。これはまだ何度も聴いておらず、またどのセリフも完全に理解していないためかと思い、セリフをすべて印刷した本を買うことにした。ワーグナーの全作品ではなかったが、『指環』に関しては4夜分の4冊を揃えた。そのようにしてワーグナーの作品をより理解しようとしたが、細かいドイツ語の文字を追いながらカセットテープを聴き続けるのは骨が折れる。それでまともに本は使わないまま棚で眠ることになった。今もそれらの本を持っているが、今はDVDの時代で、映像つきで見られるから、昔より理解しやすくなっている。
DVD時代になる前、ピエール・ブーレーズがバイロイトで指揮した時の映像がNHKの衛星TVで放映されたことがあった。わが家は衛星アンテナを取りつけておらず、隣りの家に頼み込んで深夜見せてもらった。その翌年だったか、再放送があって、それは家内の姪に頼んで録画してもらった。ところが録画して安心し、一度も見ていない。いつか時間が出来ればと思いながら、時間は自分で作るもので、つまりはその気にならねばならない。その気になれないところに、筆者のワーグナーへの関心の度合いが見えている。ワーグナーの生涯について書いた大部の本を読んだのは30代であったと思う。ワーグナーがベートーヴェンの第9交響曲に心酔したことをその本で知ったが、これが意外でありながらなるほどと思った。ワーグナーの楽劇は、交響曲に合唱を加えたベーとヴェンの作品の延長上にある。これはドイツ音楽の伝統ということだ。ただし、人類みな兄弟といった感じのベートーヴェンの第9と違って、ワーグナーの作品はあまりに神話的で、これに辟易させられる人は少なくないだろう。筆者は神話が苦手で、たとえば日本でも日本武尊と言えば現在の右翼に直結している気がするほどで、神話を利用して現在の政治をつごうよく運ぶ連中の思惑を想像してしまう。つまり、神話は政治家によってつごうよく作られ、また変えられるものという気がしている。同じことは西洋でもあるだろう。フィンランドのシベリウスも神話好きであったが、彼はロシアに対抗する国民の意識を代表して作曲し、右翼といった枠組みを越えて国民的人気を持っている。ドイツの場合はどうだろう。ワーグナーと言えばヒットラーが好み、そのことによってドイツ民族の優秀性が誇示された。ヒットラーはユダヤ人を排斥したから、ユダヤ系の人たちはワーグナーをあまり歓迎しないだろう。だが、ワーグナーにすればヒットラーは自分が死んだ後の人間で、ヒットラーに絡めてあれこれ思われるのは心外だろう。それはともかく、作品の題材に自国の神話を用いると、自国民には歓迎されるが、それを最初から目論んで神話を題材にする作家は筆者は嫌いだ。ワーグナーがそういった作家であったとは言わないが、ドイツ民族の自意識は異様に強かったと言うしかない。それはそれでいいのだが、その作品を楽しむには、ドイツの神話から始まって、あまりに多方面の知識が必要であると思わせられる。そのことにたじろいで、作品に接する前からかまえてしまう。これはポピュラー音楽のように単純に楽しめばよいと思えないからだ。わかったような気になるのは嫌であるし、本当にわかったと思えるようになるには、前述のセリフ本と音楽を逐一検討し、基本となった神話を吟味し、また楽劇の演出がどのように変わって来たかといったことまで知る必要があって、これには何年もかかるという思いがある。そしてワーグナーの作品を初めて聴いてもう40年近くなっているのに、その間に筆者のワーグナー観は少しも深まっていないのは、ほかに関心を持つ音楽がいくらでもあるからだ。
バイロイトでワーグナーの楽劇が最初に上演されたのは1876年だ。1976年は上演100年で、その記念展が同年春に日本で開催された。当時24歳の筆者が見たのは、今はない大阪北浜の三越百貨店で、買った図録が手元にある。先ほどコンサートのチラシは出て来なかったのに、今日のテーマをワーグナーにしようと思ってこの図録を探すと、すぐに見つかった。半年ほど前に棚から大量の本を下ろし、床に積み上げたままにしているが、その中から探すのが大変だなと思っていたのに、不思議だ。それはともかく、この図録はドイツで印刷されたもので、全部ドイツ語だ。苦労して読む気にはなれないので、図版を見るだけだが、バイロイトでの上演の様子がいろいろとわかって面白い。この図録と一緒に昭和54年に発売された中央公論社の『ワーグナー大全集』全5巻のLPと解説書のセットのカタログが出て来た。当時ようやくワーグナーの全貌がこうした全集でわかるようになった。今ではDVDによって舞台の様子を見ることが出来るが、それらは新演出のみで、写真でしか伝わらない上演時代がある。そして、時代はワーグナーにとって有利な方向に進んで来た。オペラは舞台を見てこそ値打ちがあるから、レコードやCDではワーグナーはあまりに敷居が高過ぎた。となると、今回の生誕200年展は待たれていたものであったことになりそうだ。だが、日本でのクラシック音楽人気は他のジャンルの音楽に比べて格別高くはないであろうし、またワーグナーとなればさらにファンは限られるだろう。その予想は今回の展覧会を見れば納得出来る。本展が他の日本のどの都市を巡回するのかは知らないが、大阪や京都で開かれないとすれば、あまりにも日本のクラシック・ファンが少ないと思わざるを得ない。今回のチラシで展示の目玉とされているのは、日本初公開のワーグナー愛用のピアノと、ワーグナーのパトロンとなったルートヴィヒ2世がワーグナーのために建てたノイシュバンシュタイン城の内部を紹介するDVDだ。前者はこうした展覧会では欠かせない。重い楽器を運ぶのは大変だが、大作曲家が使ったピアノとなると、それは本人の変わりであって、それ一台だけを持って来ても展覧会を開くことが出来る。ほかの展示は楽譜など印刷物や、パネルでの紹介文でよく、実際本展もそうであった。そうした紙資料はファンであれば本で見たり読んだことがあるものばかりで、いちおうは見るがあまりピンと来ない。これは、音楽家の本質、本体は結局音楽そのもので、音楽家の展覧会はどれも面白くないことを再認識させるだけのことだ。
せめてワーグナーのCDをBGMに流すか、あるいは楽劇のDVDを別室で放映してほしかったが、権利の関係から難しかったのだろうか。また、展覧会場の最後はお土産コーナーが設けられているのが常で、今回もそうであったのはいいが、コーヒーや紅茶、絵はがきといったものが少々並ぶだけで、CDやDVDは一切なかった。これではワーグナーが悲しむだろう。もうひとつの目玉であるノイシュバンシュタイン城の内部を見るDVDは、会場を入ってすぐの部屋で見ることが出来た。ただし、筆者より年配らしき婦人ふたりが長らく陣取って操作し続け、ほとんどの人は楽しめなかった。そのふたりはこの城を訪れたことがあるらしく、その思い出に浸りながら、また本人たちだけがわかることを話し合いながら見ていた。最後の展示まで見た筆者は最初の部屋に戻ってふたりの真横に立った。そしていかにも変わってほしそうな顔を突きつけた。ようやくふたりは交代せねばならないと察し、筆者に席を譲った。そうしながらもまだしつこく横に立ってあれこれ話していたが、筆者はすぐ近くに立っていた若い女性係員は次の人に早く譲るように注意すべきであった。筆者は周囲にいる人に聞かせるつもりで、彼女相手にDVDの操作の仕方を教えてもらい、質問責めにしながら手際よく城の内部を進み、5分ほどでその場を後にした。DVDの映像は背後の大きな壁に投影される仕組みで、ほかの人たちは操作して自分の好きな部屋の好きな角度を見ることは出来ないものの、城の内部がどのようであるかはしばらく見ているとわかる。この城は日本からのパック・ツアーでもよく取り上げられ、それで先ほどのどう見てもワーグナーの音楽を理解しているとは思えない婦人らも観光で出かけたのだろう。筆者はルートヴィヒ2世にもこの城にもあまり関心がない。それは城の内部がよくわからなかったからでもあるが、今回のDVDによって手に取るように各部屋、また中庭の様子がわかった。このDVDは通常のものとは違って、DVD-ROMと呼ぶべきものか、たぶん通常のプレイヤーでは駄目で、プロジェクターとつながった特別の装置が必要だろう。それで市販されていないと思える。また、城の内部をカメラマンが撮影したDVDならば販売されているかもしれない。城は予想した通りで、壁画はどれも時代の新しさを感じさせた。それは仕方のない話で、どのような造形作品でも時代の色合いを内蔵する。それはともかく、壁画に見える新しい雰囲気はワーグナーの楽劇と釣り合っている。神話を題材にしてもワーグナーは19世紀人だ。それにバイロイトでは現代の衣装を着て演じる場合もあって、ワーグナーの作品はある一定の年代の囚われておらず、時空を超えている。そのことはこの城の壁画の雰囲気にも通じている。これは見方によればキッチュになりやすく、そこがワーグナー作品の退屈さにもつながる。
バイロイト祝祭劇場はワーグナーの楽劇のためだけに建てられたもので、独特の空間となっている。本展ではそのことが写真や図面とともに紹介されていた。面白かったのは、ワーグナーが建設費をけちったのか、劇場の外観のデザインにおいて、一切の装飾を排したことだ。外観は彫刻を貼りつけたり、装飾文様を刻んだりすれば、いくらお金があっても足りない。そこできわめて素朴な外観となったが、これは20世紀のモダンさを予告しているようにも見える。また、ワーグナーにすれば、音楽がこれでもかという音の多さであるし、舞台上の俳優を注視してほしい意味からも、劇場は全体に素朴で飾り気のないものにした方が効果的と考えたかもしれない。ともかく、ルートヴィヒ2世の助けが得られたことでワーグナーは専用の劇場を持つことが出来て、楽劇も陽の目を見たが、その作品の途方もない巨大さに似合う大きなパトロンを持ち得たことが、ワーグナーが天才であるゆえんだ。莫大な援助を受けるにふさわしいほどの芸術をワーグナーが持っていたからと言うしかないが、ルートヴィヒ2世の行為は狂気でもあって、ワーグナーにもそれがあったと見ることも出来る。ただしワーグナーにおいては狂気のみばかりではなく、用意周到さやはったりがあった。用意周到さは『指環』作曲の根本を成しているライトモチーフの手法からも見える。長大なオペラを書くに当たって聴き手にわかりやすい登場人物の明確化を図る必要がある。登場人物や彼らが持つ道具や役割に応じて背後で奏でる旋律を決め、それらを変容させ、また組み合わせることによって音楽をどこまでも蔓のように絡み合わせて行くのだが、このライトモチーフのアイデアによって、曲のどの部分を聴いても、どういう登場人物が歌っているかがわかり、また全体のどの辺りかも想像がつく。もちろんそれには何度も聴かねばならないが、そうしている間に特徴あるライトモチーフは覚えてしまう。そうなれば作品の魅力のかなりの部分がわかったことになる。通常のオペラのように、歌の部分と語りの部分をワーグナーは分離したくなかった。語っている間も背後にうねるような音楽が鳴りわたっている。それは無限旋律と呼ばれるが、その気が遠くなる作曲の手間をかけたところにワーグナーの根気のよさと言えばよいか、狂気と言えばよいか、あるいはきわめて明晰な方法論があって、こつこつと物作りすることが性に合っている作家は一度は大いに魅せられるだろう。また、言葉がわからなくても音楽だけを楽しむことが出来ると言えるが、歌手たちの激しい動きがCDからでもよく伝わり、物語が気になる。ところが、『指環』に関して言えば、それは簡単ではない。筆者は深く関心を持ちたいと何度も思いながら、ついにその機会がないままで、今後もあるようには思えない。それにワーグナーの作品は『指環』は捨てていいとは言わないが、それ以外のものが重くなくていい。