凧の収集は他の郷土玩具より場所を取る。それでも好きな人はほしいし、数がまとまって来るとさらにほしくなる。あるいは置き場所がなくなりかけた頃に諦めるかだが、そうこうしているうちに死が近づくので、子どものようにかわいがった収集品の行く末を本格的に考えることになる。
どこかの機関に寄贈すれば自分の名前を冠したコレクションとなって、長年かけて集めた労苦が報われ、また何よりも作品が散逸せずに済む。それで万々歳かと言えばそうでもない。物はどれほど大事にしても風化して行く。ましてや紙製の凧は脆弱で埃も溜まりやすく、鮮やかな彩色も褪せる。それに場所を多く取る凧は寄贈先が簡単に見つかるだろうか。概して郷土玩具はよほどの珍しいもので、また多くの人が興味を持つものでなければ、公的な寄贈先が見つかっても、頻繁に展示されることは難しい。筆者は伏見人形が好きで、まだ飾ったことのないものも含めて100個以上は持っているが、これは収集としては実にささやかで、コレクションと呼べるほどのものではない。それにほかでは見かけない古作は1点もないから、筆者の没後の行先など考えたことがない。目的を持って系統立てて集めるほどに好きでもないというのではない。ほかに関心があるものがたくさんあって、伏見人形の収集だけに精力を使うことが出来ない。これはいわゆるオタクにはなれないことを意味している。筆者は何事においてもそうで、徹底が足りない。移り気と言ってもいいかもしれない。だが、一旦興味を抱いた物事は飽きてすっかり忘れることはほとんどない。そのため、それなりに集めているものはどんどんと増え、隣家を購入しても場所が足りないほどになって来ている。七夕の日には京都市役所前でフリー・マーケットが開催されていて、そこを覗いた。当日はだん王のバザーが目的で家内と出かけ、本能寺でもバザーが開かれていることを知り、市役所前と含めて3か所で買い物をした。その中で最も重かったのが、市役所前で買った伏見人形だ。40代の女性が4個並べていた。立ち止まって興味深そうにすると、十二支があると言う。値段は3000円だ。筆者は十二支の伏見人形の多くを持っているので、初めて見る形のものだけがほしかったが、相手は売れずに持って帰るのがいやで、いくらでもいいからまとめて買ってくれと言う。こっちから値段を言わなかったが、半額から今度は1000円に下がった。それで買った。状態はまあまあだが、新品では1個3000円ほどはする。新聞紙を剥がしていちいち確認しなかったが、2、3個ほど初めて見る型がある。全部で5キロはあったろう。自宅に持ち帰ってそのままにしてある。中身を確認すればいいものを、それらを広げてきれいに写真を撮る場所すらない。そんな状態であるのにまた買うのであるから病気だ。比較的大きな伏見人形12個で1000円とは、夢のように安い。売り手もそのことを知っていたはずだが、大勢の客がいてもそれに着目したのは筆者がふたり目であったそうだ。それくらい今は人気がない。

郷土玩具はほとんどそうではないだろうか。ファンがいるにはいるが、郷土玩具のあまりの多用性のため、どれかに的を絞って収集しなければ、数年で一部屋がコレクションで埋まる。凧ではなおさらで、2,3あるのは賑やかでいいが、それ以上になるとあまりに目立って日常が蛸に絡まれたように身動きが取れなくなる。数年前、大阪のある郷土玩具のコレクターが大半を手放すことになった。伏見人形専門と見られている筆者にも声がかかり、3度ほど訪問して伏見人形ばかり買い求めた。昭和40年代に購入されたもので、当時買った価格で売ると言われた。どれもほぼ新品で、今の10分の1くらいだろうか。物によっては3割くらいで、そう値上がりしていないものもある。毎回買い手は数人が集まったが、収集の対象があまりだぶらなかったこともあってほとんど捌けた。最後まで残ったものは凧だ。誰もほしがらないので、筆者は半ば無理やり押しつけられ、2個をただでもらった。ところがそれもビニールに包んだままで一度も開いていない。この調子では死ぬまでそうだろう。ほしい人に譲るのが一番だが、郷土玩具好きの知り合いがいない。ならばネット・オークションに出すかだが、買った時に転売厳禁と言われた。それはそうだろう。ネット・オークションに出せば10倍くらいで売れそうなものばかりで、売り手にすれば、他人の金儲けのために長年集めたものを放出するつもりはない。あくまでも手元に置いて愛玩してほしいためだ。その収集家は子どもがおらず、経済的に全く困っていないが、70代半ばになってコレクションの今後を考えたのだ。全部を手放したのではなく、TVを置いてある居間には最も好きなものを並べている。その中に筆者がほしいものが1点あった。それを分けてもらえまいかと訊くと、自分が死ねば連絡するから取りに来てくれと言われた。奥さんより早く死ぬと思っているのだ。コレクターもさまざまで、研究を深める人とそうでない人がある。後者は文献も集める。そういう人はあまりいないのではないか。

先月23日に大阪歴史博物館に行った。建物に入る直前、通りに面した掲示板のガラス窓の中に大きなポスターが貼ってあって、「大阪の凧」とある。常設展のチケットで見ることが出来る。そして松本奉時と若冲の作品を見た後、その展示を見ることにした。8階の3分の1ほどの面積を使っていたろうか。写真をたくさん撮り、ブログ用に1週間ほど前に加工、それらをMOに保存していたのに、その読み取りが不可能になった。せっかくの写真がなくなったのであるから、この企画展について書かないでおこうかとさきほどまで迷ったが、カメラに使うスマートメディアを確認すると、ブログに載せようと思わなかった写真が4枚残っていた。それを加工し、また会場で無料でもらったリーフレットの一部をスキャンして使うことでどうにか画像を紹介することが出来る。ただし、筆者がベストと思ったものではなく、その反対の残余物だ。この企画展のコーナーに着くと、50代だろうか、あるいは筆者くらいか、ひとりの男性が話しかけて来た。後でわかったが、木村薫という人で、この人の収集品が展示されている。自分の収集品が多くの人の目に触れる絶好の機会なので、土日くらいは会場に詰めているのだろう。筆者は凧にはほとんど関心はないが、話は弾んだ。30分ほどだ。それは、筆者以外にほとんど人がやって来なかったからでもある。会期は8月の5日までで、ここで紹介しておくと、少しは観客動員への助けになるかもしれない。氏が集めるのは日本やアジアの凧で、間口は広い。今回展示されたのは題名にあるように大阪の凧だ。それ以外にもあるはずで、となると自宅にどのように収蔵しているかが気になる。最初に書いたように、凧は大きくて立体だ。もっとも、今回の展示は畳と比較するほどの大型はなく、おそらく大阪でかつて製造販売されたものは、今回の展示のようにみな小型だろう。となると収蔵は比較的楽だが、数が多くなればそうも言っておれない。それでも今回の展示からわかるように、凧の本体すべて、つまり空に揚げられる形ではなく、両翼を除いた本体部分を中心に集めているようで、ならばもっと小型化し、しかもノートやはがきのように平らであるから、数百点でも本数冊分で済む。

今回の展示は1「描かれた凧とその再現」、2「勝間いかとその周辺」、3「泉州の凧」、「凧揚げの風景」という4つの切り口から成り立っている。氏と最も多く話したのは2だ。「勝間いか」とは何か。これは大阪の人でも知る人は稀かもしれない。2か月ほど前か、TVで「勝間いか」の紹介があった。「勝間」は「こつま」と読む。これは「こつまなんきん」で知る人が多い。筆者は子どもの頃に「こつまなんきん」の言葉をよく聞いた。これは勝間で収穫される南瓜のことだが、それと同じような、小さいが味のある女性のことを言う。そのことは知っていながら、勝間村が大阪南部のどの辺りに位置するかは長い間知らなかった。ネットで調べると現在の西成区の玉出とある。そこは大阪で有名なスーパー玉出の発祥地と思うが、少し北が天下茶屋で、阿倍野にも近い。下町で人口が多く、かつては凧の需要もそうとうなものであったのだろう。「たこ」ではなく「いか」と呼ぶのはなぜか。大阪特有の反骨精神からか。あるいは凧の中央の胴体部分が縦に細長くて凧よりも烏賊に近いからか。この胴体部分が今回はたくさん展示された。中には1枚の紙に隙間なく印刷されたものもあって、カットする前の在庫を氏は入手した。ネット・オークションのことを話題にすると、どうやら氏は熱心にそこでも掘り出し物を探しているようであった。郷土玩具の収集家が出品する場合があるし、昭和レトロ商品を専門に扱っている人はたくさんいる。後者は勝間いかとは知らずに出品する場合が多いだろう。そのため、「おもちゃ」のジャンルの出品を毎日確認する必要があるが、勝間いかであるとわかる人はほとんどおらず、またわかったとしても収集家は少ないであろうから、珍しいものでも少しずつ手元に集まって来るに違いない。これは郷土玩具の収集としてはよいところに目をつけている。筆者のようにあまりに有名な伏見人形に関心を持ち、しかもそれなら何でもよいという立場であると、人に見せるような収集にはなりようがない。木村氏は現在池田在住で、勝間いかに興味を持った経緯は訊かなかったが、子どもの頃に大阪市内で凧で遊んだ記憶が強いのではないか。

勝間いかは胴体部分すなわち「凧絵」と呼ばれるものが、くびれた縦長の楕円形をしている。くびれは左右に2か所の場合もあるが、だいたいどれも高さ20センチから30センチまでだ。もっとも、もっと大きいものが作られていた可能性はある。この胴体の左右に翼となるものをつなぐ。これは赤色の無地である場合が多かったのだろう。その紙は胴体とは別に売られていたはずだ。また、全体に細い竹ひごを使わねばならず、これもおもちゃ屋か菓子屋に用意されていた。というのは、筆者は同じ竹ひごでよく飛行機を作って飛ばしたからだ。筆者の子どもの頃、凧は揚げにくかった。大阪市内はどこも電柱が多く、また筆者の家の近くには、公園はあっても大きな川の土手はなかった。そのため、凧で遊ぶことはほとんどなく、外での遊びはビー玉や飛行機、家の中でロボットやピストルを使った。そう思うと木村氏が凧に関心を抱いた理由は何であろう。色鮮やかな彩色にまず惹かれたとすれば、それは郷土玩具ファン全体に言えることだ。おそらく廃れてしまった玩具であり、しかも懐かしい色合いに、今は見られない民衆の造形感覚を認めたのだろう。凧絵は江戸時代の浮世絵に通ずる味わいがある。勝間いかは幕末から作られたとのことで、最初は木版であった。それがやがてオフセット印刷に引き継がれたはずだが、作られた当時の時代の空気を反映しているのは言うまでもない。蝶や芋虫を描いたものもあって、どこかアール・ヌーヴォー風であるのが面白い。そういう現代風なもののほかに、大阪の伝統野菜を描いたものもある。農夫が大きな蕪や大根を抱えている図で、凧絵の中央がいわば白抜きになっている。その蕪や大根の中に、企業の宣伝を印刷したらしいが、氏の所有するものにはそれら店の名前を刷り込んだものはない。それがあれば、凧絵がいつ頃印刷されたかがわかるが、書籍とは違ってこうした消耗品は製作年代を特定することは難しい。それは凧そのものに当たるより、凧が写り込んだ写真や新聞記事といった他の情報からわかることが少なくないだろう。それは根気よく過去の印刷物を調べていると出会えるもので、それこそいつも頭に凧のことを考えておかねばならない。リーフレットの説明には、「明治時代から大正時代には、若野紙凧製造所が版画による錦絵の凧を量産し、欧米を中心に輸出していました」とある。凧絵の部分がそうした地で小さな団扇に改造されたりし、それが今回展示されている。輸出は前述のように、1枚の大きな紙に10点ほどの凧絵を刷ったものであったろう。現地の人はそれが凧の胴体になるものとは知らず、千代紙のように用いたと思える。大阪南部の勝間村で西洋人が歓迎する鮮やかな錦絵が量産されていたとは面白い。大阪には戦後長らく駄菓子屋文化があって、今も細々と残っている。勝間凧は駄菓子につながりながら、一方では貸し本などの漫画印刷にも接している。上方は庶民文化が盛んな土地で、その伝統はデジタル時代になっても健在だ。