覆水盆に返らずの諺があるが、床にこぼれた水は全部ではなくても部分的に戻すことは出来る。何だかいじましい行為だが、一旦駄目になった大事なものを修復しようというのも人情であるし、完璧とは行かなくても、そこそこ元に戻ることはよくある。

3日前、筆者は花瓶を割ってしまった。わずか20センチほどの高さからごろりと転がっただけなのに、かなり派手に割れ、接着剤でくっつけることが出来ないほどの粉もたくさん生じた。磁器ではなく、柔らかい陶器であったので、予想以上に脆かった。20年ほど大切にして来たが元に戻らないので捨てた。東洋陶磁美術館の李朝の白磁壺は一度派手に割られたが、念入りな修復によってすっかり元の姿を取り戻した。破片を根気よく接着剤でつないだのだが、粉になった部分はなかったのだろうか。昨日書いたように、このブログに用いる画像をたくさん保存していたMOディスクが壊れ、修復は不可能になったが、最終的な手段はまだありそうだ。業者に依頼するのではない。これは一か八かの試みだが、MOを再フォーマットし、その開始直後に強制的に機器から取り出せばどうかと思っている。当然ディスクに保存している一部のファイルは壊れるが、残りはフォーマット前でしかも読み取りが可能になるかもしれない。そう思っているだけで、実際はさらに壊れて再フォーマットすら出来なくなる可能性がある。それでもわずかに復活の可能性がありそうで、フォーマットを促すボタンを押そうかどうか迷っている。今のままでは読み取り不可で、ないのも同然だ。ならば一縷の望みがある方に賭けた方がよい。その一方で業者はどのようにして壊れたディスクからデータを読み取るのか、それをネットで調べているが、見つからない。専門業者が商売にするほどであるから、素人では無理だろう。それにしても隣家のリフォームと同じで、専門業者の仕事が下手ながらもそこそこ自分で出来そうであるから、MOディスク1枚くらい、どうにか正常な状態に戻せるのではないかと思ってしまう。つまり、覆水は幾分かは盆に返すことが出来ると考える。

盆を覆す前にパソコンのデスクトップに移しておいた画像を今日は載せる。6月23日に見た大阪歴史博物館の常設展だ。松本奉時と若冲の作品を見に行くのが目的で、そのことは先日書いた。この館の常設展はいつも同じではなく、小企画展が会場の一画でいつも行なわれている。筆者が出かけた時には奉時と若冲の作品コーナー以外にもっと広いところで別の企画展も開催中で、それはポスターやふたつ折りの無料リーフレットも作られていた。この館は常設展と特別展はエレベーターが別で、しかも別料金だが、特別展を企画する人と、常設展示階での小企画展に携わる人は別なのだろう。それはともかく、この館の常設展については書いたことがなかった。写真をいくつか撮って来たので今日はようやく書くことが出来る。大阪の古代から現代までを10階から7階までを使って展示している。エレベーターでまず10階に上がり、エスカレーターで順に下の階へ進むほどに時代が新しい展示となる。10階の古代は等身大の古代衣装を着たマネキンが勢揃いしているところをまず見ることになって、大阪にこんな時代があったのかと認識を新たにさせられる。古代は奈良専門と思っているからだが、それもそのはずで、『日本書紀』に書かれる難波宮の発見は戦後のことで、その遺構が発見された場所の一画に大阪歴史博物館が建てられた。難波宮は奈良時代より前にあった宮殿で、紫香楽宮や長岡宮より100年ほど古い。福沢諭吉が大阪にあった蔵屋敷で生まれたと言っても頭から信用しない人が多い。先月だったか、大分県を芸能人が観光する番組を見ていると、彼は中津に足を延ばして諭吉の記念館を訪れ、同地で諭吉が生まれたと間違ったことを言っていた。大阪は京都奈良とは違って歴史も文化もない土地と一般には思われていて、ネットでは大阪民国という言葉も使われているらしい。大阪に来たことがない人ほどそんな偏見を持っている。ともかく、難波宮を発掘し、そこを史蹟公園とした大阪はまだどうにか歴史や文化を誇る人たちがいることを証明している。長堀の大阪市立図書館は蒹葭堂の邸宅跡に建つが、それも大阪の知識人の矜持だ。

大阪歴史博物館の常設展を訪れた人が最初に驚くのは難波宮の豪華な復元展示ではなく、最初にエスカレーターで階下に向かう時に大きな窓から見える大阪城だろう。城がまるで模型のようで、すこぶる見晴らしがよい。この常設展と大阪城の見学がセットになった券も販売されていて、大阪の歴史を知りたい人には親切だ。またこの館は大阪城が絶好の位置に見えるように窓の位置や大きさが設計されたはずで、絶妙の効果が発揮されていると誉めたいところだが、エスカレーターの踊り場に立った時、窓のふたつの平面がぶつかってその中央に尖り部分が出来ていて、しかもその縦線は城を見るのに少し邪魔をしている。ガラスをつながずに湾曲した1枚を用いるか、あるいは建物のデザインを少し変えてこのパノラマの窓は1枚の平面にすべきであった。せっかくの雄大な光景が中央の仕切り線によって途切れ、窓からの景色を撮影する気分を削いでいる。建物の面積を少しでも大きくするための処置だったかもしれないが、建物の角を切り取って斜めにしてもよかった。今日の最初の写真の右端にそのガラスの接続部の縦線が見えている。立ち位置を少しずらせば城が障害なく見えるとはいうものの、実際にこの場所に立てば、目の前の縦線がとても気になる。9階に降りると近世で、閉鎖となった
「なにわの海の時空館」と連結した展示と言ってよい。双方を見ればいかに近世の大阪が重要な都市で文化も豊かであったかがわかる。「海の時空館」が見られないとなれば、その展示を少しはこの歴史博物館に移すべきだろう。もうひとつこの館が他の大阪の施設と密接に関係していることを今回知った。それが3枚目の写真で、この館よりやや北部を模型で復元している。精巧なもので、それは「海の時空館」にあった湾岸に近い地域の模型以上だ。この町の一画の模型は天神橋筋商店街の六丁目にある
「大阪市立すまいのミュージアム」で体験出来る町の原寸大の復元とリンクしている。つまり、小さな模型と実物大の模型で、この歴史館の模型で興味を抱くと、次は「すまいのミュージアム」に行って実物大の町並みを見るべきで、大阪は新たな施設を作る際に既設の施設との相乗効果を考えている。あたりまえかも知れないが、そうでもないだろう。携わる人たちが違えば、他館を補完するようなことをあまり考えないのではないか。こういった他館の展示との補完性はもっと宣伝してよい。たとえば2枚目の写真は江戸時代の天神祭で使われた御座船の船以外の、つまり船に載せる上部の彫刻だが、これは菱垣廻船を見せる「海の時空館」に展示すべきものであったろうし、それが無理なら、せめて同館の紹介をこの展示物の近くにしておくべきだ。同館が閉鎖された今となっては覆水盆に返らずだが、今のところ同館はまだそのままあるから、また開館することは出来る。

さて、8階は発掘コーナーで、その疑似体験が出来るコーナーや、ミニ企画展のスペースだ。7階は近・現代で、筆者にはこれが最も面白い。大正末期の大阪は大大阪と呼ばれて大いに賑わった。その頃のモダンな大阪の繁華街の一画が原寸大で復元されている。残念ながら等身大のマネキンは10階の古代のように顔に彩色が施されておらず、見様によっては心霊かと思ってしまう。その思いがあったので、昨日は「心霊」の言葉を最初に用いた。4,5枚目はその心霊的な顔の白いマネキンと、来館者が混じっている。よく見れば本物の人間とマネキンは判別出来るが、この展示では主体は不動のマネキンで、本物の人間は絶えず移動する影のような存在で、かえって人間が心霊と化していると見ることが出来る。筆者がこの大大阪のコーナーが好きなのは、夜のネオンが灯り、全体に薄暗いところがいかにも想像の大正時代そのもので、ほとんど夢に思えるからだ。これは気味悪いことでもあるが、それを楽しむところが誰しもあるのではないか。ちょうど心霊スポットに関心を抱くことと似ている。初めてこのコーナーを訪れた時、服装は大正時代ながら、白いマネキンの顔や腕を見てぎょっとした。街角がいかにも本物らしいのに、そこに一目でわかる人形が数体立っている。これはなくてもよかったものかもしれないが、よりリアルさを演出するためには、また大正時代の服装を紹介する意味でも必要と考えられた。もっと経費をかけて白い顔ではなく、目鼻をくっきり描いて本物の人間らしくすれば、ぎょっとさせる度合いはさらに深まったかもしれないが、白のマネキンであることが夢の世界を思わせる。それはキリコの絵を見ればよい。キリコは目鼻のないのっぺらぼうのマネキンをよく描いた。その世界とこの大大阪の街角の一画は同質とは言えないが、過去を強烈に思い出させるようなところでは通じている。これを書く今の筆者は感じないが、このコーナーを見た後の数日間、大正時代には生まれていなかったのに、筆者はその時代を過ごして来た気分になり、またその気分が夢の中で覚えたものに感じられて、無性にさびしいというか、一種の憂愁に囚われた。そして現代の道頓堀のネオンを次に思い浮かべたが、大正時代とは比較にならないほどの明るさ、眩さであるにもかかわらず、現代の同地も同じようにさびしさを漂わせていると思った。繁華街はどこでもそうかもしれない。筆者は繁華街が好きだ。であるから、大阪にはよく出るし、出れば必ずと言ってよいほど人通りの多い天神橋筋商店街を歩く。それは孤独であるからそれを少しでも忘れたいためだろうか。筆者は自分を孤独とは思わないが、時として、人間ゆえの孤独といったものを感じることはある。どの人間もそれを抱えているので、人間は大都会を作って来たようにも思う。となれば、大都会は孤独の象徴だ。それが大阪で言えば大正末期から昭和初期の大大阪時代に本格的に始まった。それにしてもこの7階の道頓堀界隈の街角の復元はほかでは見られない、また体験出来ない味わいがある。大阪の古老から話を聞いて造ったものだろう。失われた過去が復元出来るはずがないとも言えるが、盆からこぼれた水は、多少はすくって元に戻すことは出来る。大阪に来た人は見て損はない。