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●世界は心霊だ
が写真や動画に写り込むのかどうか、昨日はヤフーのトップ画面から導かれて心霊映像なるものを立て続けに10数本見た。どれも数分にまとめた投稿もので、真偽のほどはわからない。アナログ時代の映像であっても加工は簡単に出来るから、疑ってかかるのがよい。



見た直後は、使用されている音楽やナレーション、それに映っている人たちがその後ほどなくして事故死や一家心中したといった断りが出て来るので、いかにも本物と思ってしまうが、1日経つと加工した映像という思いの方が強くなる。自分自身で撮ったものに現実ではあり得ないものが写っていることを経験すると、心霊写真は映像に俄然興味が湧くと思うが、筆者はまだそんな経験をしていない。あるいはしていても気づかないかもしれない。心霊写真と似たものにUFOがある。これも実際に見たことがない。見た人の話を直接聞いたことがあるが、とても真実らしく、筆者もその場にいたかったと思った。心霊写真や映像に映り込む人たちは死者でしかも怨念を抱いた状態にあるというのが、だいたいの考えで、このことを昔は「成仏していない」と言った。ということは昔から心霊を目の当たりにする人がごく一部にあったのかもしれない。現代の心霊写真に登場する人はみないかにもさびしげでしかも恐ろしい表情をしている。これは怨念を抱いて成仏していないのであれば当然という思いが人間にあるからだろう。笑顔の美しい女性の心霊であれば誰もそれを信じない。笑っている心霊は深刻ではなく、嘘っぽいからだ。となると心霊写真は人を怖がらせるためにあって、猛暑の頃に歓迎される。それで昨日はヤフーのトップ画面にその紹介を見つけたのだろう。心霊写真や映像はひとつのエンタテインメントのジャンルになっている。それはほとんどの人がそう思っているはずだが、一方でひょっとすれば本当に理屈では不可解なものが写り込む心霊写真や映像はあるかもしれないという思いも拭い去れない。それはともかく、筆者が突然死して現世に悔いが残れば、心霊となって誰かが撮影した写真や映像にひょっこり入り込むことがあるだろうか。そしてそんなことをして生きている人を驚かせたとして、筆者は楽しいだろうか。となれば、やはり心霊写真などに写り込む人はよほどの悔しさを持ったまま死んだことになるが、ほとんどの人は出来るならば長生きしたいから、自分の死は悔しいものだ。そうなると、誰でも心霊が現世に漂い、しばしば写真などに写り込むはずだが、そうではないところ、心霊はカメラで捕獲されないものと思いたくなる。
 これは心霊とはあまり関係ないが、後で気づくといったことがある。たとえばこんな話だ。先ほど丸1日ぶりにMOディスクを開くと、「フォーマットしますか」という画面が出てそれ以上進めない。以前にも同様のことを何度か経験しているから珍しいことではないが、このブログに使うための画像をたくさん保存しているので慌てた。2週間分ほどはあった。駅前の変化シリーズだけはヤフーのマイボックスに保存しているので助かった。フォーマットすればデータは全部消えてしまう。どうすればファイルのアイコンが表示されるかと小1時間ほどあれこれと試みたが、諦めるしかない。先ほどのムーギョへの往復で、ブログに使おうと思っていた画像のうち、また同じ場所に行って撮影出来るものとそうでないものを思い浮かべた。4分の1くらいは再撮影出来るが、それには数日かかる。そして4分の3はもう二度と得られない。壊れたMOからデータを取り出してくれるサービスがあるのは知っている。必ず復元可能というのでもなく、またそれなりに高価だろう。一昨日は去年の祇園祭に撮った写真を載せた。それらはMOに保存していたもので、この1年投稿のたびに見ていた。そのため、どういう画像がMOに入っていたかをはっきりと覚えている。筆者の頭と壊れたMOの中だけにあって、このブログの読者に見せることが出来ない。そう考えると、ブログへの投稿は画像を保存する最適な方法かと思える。いつでも画面からダウンロード出来るからだ。このことは、自分だけが密かに所有しているものは、はかない運命にあるということだ。公にして初めてそれは強固になる。とはいえ、ブログをすべて削除するとそれまでで、公にしてもさらなるはかなさが待っている。MOディスクが壊れたため、予定していた当分の間の画像が消え、新たに、また急いで別の写真を撮らねばならないが、この不慮の出来事は昨夜の投稿直後に何とはなしに感じるものがあった。それは、MOのスイッチを切った瞬間、ファイル画面を先に消していなかったことだ。順序としてはファイル画面をクリックで消し、最後にMOのスイッチを切るべきで、これを間違うと、いつもではないが、MOが壊れることがある。昨夜はスイッチを切った瞬間何となくまずいなと過るものがあった。その予感が当たった。自分で壊したようなもので、原因不明の心霊の出来事といったことではない。自分の操作ミスが招いた結果であるから、諦めも早いが、ムーギョに向かうまではかなり立腹していた。それが帰り道では収まり、懐かしいブルーな曲のメロディが口から出た。
 確かに投稿を予定していた写真がごっそりと消えてしまったのであるから、当分はネタ探しに戸惑うが、このように不慮の事故というものが人生にはつきものであることを経験するのは悪くはない。諦めてばかりでは死後に心霊となって誰かの写真に写り込みそうだが、筆者くらいの年齢になれば諦めを知ることはそれなりに必要だ。これは物事に固執しないことで、そのようにして少しずつこの世とのおさらばに慣れて行く。さて、いつも次回のブログに使う画像をパソコンのデスクトップに移動するのが習わしで、昨夜は今日用いる画像を5枚MOから移しておいた。今日はその画像に関することを書く予定でいたが、MOが壊れたことを上記のように書き過ぎた。前置きとしては長過ぎる。それで予定していた題名を別のものにし、もう少し書く。昨日わが家の裏庭でキリギリスが大きな声を鳴いていた。途中でさらに大きくなり、家の中に入って来たのだろう。何度か電話の音が鳴ったので、それ以降はまた裏庭に戻ったようで、またより離れたところに移動し、声は少し小さくなった。今日も鳴いてくれるかと心待ちすると、これがぴたりと聞こえない。庭には雀その他の鳥がやって来て、早朝から夕方まで鳴いている。鳥に見つかって食べられたかもしれない。虫にすれば恨み節のひとつも言ってやりたいであろうが、そう思うのは人間だけで、食べられた虫は食べられたことを自覚していないだろう。であるから、なおさら自分が生きていると錯覚して霊となって鳴きそうだ。そうなると、昨日聞こえていたキリギリスの声は霊かもしれない。姿が見えていてもその可能性は否定出来ない。そこからは、見えている現実すべてが霊ではないかという考えを導く。人間は虫のような短い生ではないが、数十年も地球や宇宙からすれば一瞬で虫と変わらない。この一瞬を刹那と呼ぶが、人間や生き物は刹那ほどにも足らず、切ないものだ。だが、虫と人間の生の長さが同じようなものとすれば、永遠と刹那は同じということにもなる。虫も人間も永遠に生きるということになって、昨日聞いたキリギリスは霊でありながら、永遠不滅の存在で、また現実でもある。そなると、撮った写真や画像に心霊が映ることも不思議ではない。投稿に写真がないのはさびしいので、今1枚撮った。よく見ると筆者の心霊が写っている。
●世界は心霊だ_d0053294_025319.jpg

by uuuzen | 2013-07-18 23:59 | ●新・嵐山だより
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