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●描き続ける日常、さらに
間産業という言葉がある。大企業が作る車やTV、カメラといった製品は、大々的に宣伝され、日本中あるいは世界中に商品が知られる。そうした製品を中小企業が同じ価格で製造することは無理だ。



そこで大企業が作らない、また作れない物を中小企業が作る。隙間とはよく言ったもので、大企業は中小企業に対してわずかな隙間しか残してくれない。大多数の人は大企業のおかげで性能のよい商品を安価で購入出来る。ところが、誰でも持っているようなものに興味を示さない人が一部にはある。そういう人はたとえ割高でも珍しい物がほしい。手先の器用な人なら、自分で作ってしまうことも多い。隙間産業は大企業あってのもので、元々大企業が存在しない物作りとその販売の世界では、売れる品数は少なく、またどの商品もどんぐりの背比べと思われがちで、ごく狭い範囲で少数の人に買われる。一昨日、昨日と、あまりまとまりのないことを書き、どうも気分が落ち着かないので、今日は書き損ねたことを思い出しながら締めくくることにする。グループ展や個展は毎日大量に開かれている。全国的に知られる有名な作家でない限り、そうした作品のお披露目に馳せ参じる人は、作家の身内や友人が中心で、ぶらりと画廊に入って来る人は、多くて2,3割だろう。そして、そういう人がその場で作品を気に入って買うことは、まずほとんどあり得ないに等しい。売れるとしても身内や友人が義理で買い、残った作品は作家が手元に置く。どんな画家でもそういう作品は数十や数百は持っている。いつか有名になればそれらが一気に高値で売れて、それまでの労苦が報われるが、そういう画家は1パーセントに満たないのではないか。大志万さんは絵を売りたいと考えているが、その方法はとなると、とりあえずはグループ展で見せるしかない。彼女が参加しているグループ展では、ぽつぽつと赤丸シールがついている作品があるので、大志万さんの絵も売れないことはない。だが、爆発的に売れて、製作が追い着かないといった多忙に見舞われるのは、マスコミに何度も取り上げられる一方、有名な画家たちから一目置かれるといったことが必要だ。そう考えると絵画の世界にも隙間産業的な生き方があることになりそうだが、隙間的存在の画家がそれなりに食べるに困らない程度に作品が売れるかとなると、まずそんな可能性は低いだろう。いや、筆者が知らないだけで、けっこううまく世わたりをしている、あまり有名でもない画家はたくさんいるかもしれない。
 絵は人によって好みがさまざまで、大先生と呼ばれる人の絵と、素人の絵を並べた時、前者が立派だと感じる人ばかりではない。大金を出して買う人は、その絵の作家が有名人で、その値段で買ってもいつか転売出来ると思う場合も多く、純粋に作品に惚れたのではない。だが、そういう思いは誰にも多少はあるだろう。無名の、価格などつかない画家の絵よりも、有名な画家のものを所有すると、自分もそういった価値ある人物と錯覚する。そしてそれは悪いこととは言えない。そういう作品を所有することで、生き生きした目つきや態度を保てるのであれば、絵の値段など安いものだ。戦前はそのようにして、そこそこ金も地位をある人は有名な画家の絵を買った。今もそうだと言えるかもしれないが、金や地位を他人に誇示するための道具として絵画は分が悪い。持って歩けないからだ。そこで即効的なものが求められる。車や腕時計だ。何しろ多くの人の目に触れ、高級品であれば、一目置かれる。つまり、やはり日本では画家のほとんどが隙間産業を強いられ、どんぐりの背比べを繰り広げている。毎日大量に開かれるグループ展や個展を通じて自分の才能を世間に広く伝えることは、宝くじで数億円当てるほどに稀なことで、隙間とも言えないほどだ。目の前には1万メートルの高さの絶壁が立ちはだかっていて、その向こうにある有名人世界にはどのようにして加わることが出来るかわからない。それでも毎日描き続け、作品をためてはグループ展や個展でごくわずかな人に見てもらう。ネット社会になってからは、1万メートルが10分の1くらいに低くなったかのように思いもするが、それはネットで積極的に情報を発信する場合のみで、すべての画家がそういったことに得意ではない。むしろ苦手な人が多い。絵を描くことは、世間から見れば、「好きなことをする」であって、そういう一種のわがままから生まれた作品を高価で買う意識は一般庶民にはほとんどない。また、そういった人々に絵画を見る習慣もない場合がほとんどで、隙間産業としての画家はこと絵を売ることに関しては途方に暮れるしかない。大企業の製品に囲まれていればそれで充分満足で、絵を飾る場所もないというのが庶民の生活で、絵は王侯貴族がいた時代に全盛であったと思わざるを得ない。現代でもそれに匹敵する大金持ちはいるが、彼らは家や車、貴金属に浪費することは熱心でも、あるいは有名画家の作品ならほしがっても、隙間にいる半ば無名の画家にはそっぽを向く。「買ってほしければ有名になれば?」と侮蔑の眼差しを与えられるだけだ。
●描き続ける日常、さらに_d0053294_1981.jpg
 大志万さんの「渡月橋下流」を見た時、フリードヒリの「Das Grosse Gehege」を思い出した。先ほど画像を加工してわかった。この絵は大志万さんの絵と同じ縦横比で、しかも500×360ピクセルにうまく収まった。そのサイズは言うまでもなく、筆者がブログに載せる画像と同じだ。それはいいとして、「Das Grosse Gehege」と並べて「大狩猟場」という訳語が印刷されている。「ゲヘーゲ」は「囲い地」のことだ。彼女にはフリードリヒの絵のことを言わなかった。ひとつまずいかなと思ったのは、この絵の複製画をわが家では2階のトイレの背面に貼っているからだ。複製を買ったのは確か1978年だ。貼ったのはもっと後で、家を買ってからだ。長年同じところに貼ってあるので、ところどころ水の跡がつき、また皺も寄っている。この絵はトイレに立った時、筆者のちょうど目の高さに来るように貼りつけた。そしてその遠近がよく利いた絵を見ながら小便するのは気分がよい。まさかそんなことを大志万さんに言えない。それに似ていると思ったのは水平を強調し、奥行きのある構図で、地平線の高さは全然違い、「大狩猟場」は天と地がほぼ半々だ。となると、「渡月橋下流」の主役はやはり雲ということになりそうだ。雲をよく描いたのはイギリスのコンスタブルで、フリードリヒの絵に雲の印象はうすい。雲は水気であるから、湿気の多い日本で大志万さんが雲を大きく扱うのは本能的なものかもしれない。それはさておき、京都で友禅が発達したのは、きれいな水は豊富にあったからで、染色は「染みる」であって、水気が欠かせない。水がなければ染色が出来ないという意味だ。染料は水で説く。油絵は油を使うが、これも浸透するように使うことが出来るから、油絵も染色に少しは似たところがあるとは言える。油絵具ではないが、ペンキのようなものをうすく溶き、そのままキャンヴァスに垂れ流して抽象画を連作したモリス・ルイスというアメリカの画家がいる。国立国際美術館や滋賀県立近代美術館が彼の日本での大展覧会の後で作品を購入した。ルイスの絵はそれまでの絵画とは全く違った方法で製作されたもので、彼なりに隙間をどこかに見つけて、毛管現象のようにその細い隙間をてっぺんまで一気に上ることを夢想した。目論見は成功し、彼はアメリカを代表する画家となった。ルイスの絵は染色家が見れば唸りたくなる。「そんな簡単な方法で名声を得られるのか」といった思いだ。ところがコロンブスの卵で、簡単なことでも最初に方法を発見する人は偉い。ルイスの作画方法が染色に近いということで、ルイスの絵画をもっと複雑にしたものを作っても、まず評価されない。それは造形のさまざまな分野の中でも最も隙間であると言ってよい染色であり、鑑賞者は育っておらず、買い手はいないし、また評論する人もない。作家自身が理論武装したところで、たとえば油絵や日本画の世界からは鼻であしらわれる。隙間であることのほかに歴史がないという理由からでもある。実際染色を油絵や日本画と並ぶものとみなしての表現は歴史がきわめて浅い。友禅は300年ほどだ。ローケツは正倉院に作品が保管されているが、現在の日展系のローケツ染めの作家の作品とは関連がほとんどない。つまり、1000年以上の断絶がある。
●描き続ける日常、さらに_d0053294_1937100.jpg
 創作するのに過去の歴史や技法など関係ないという立場もある。その一例はジャン・デュビュッフェが見出した無名の作家の作品で、彼はそれを「アール・ブリュット(art brut:生(なま)の芸術)」と名づけた。日本各地の美術館は、日本に持って来られる作品はほぼ出尽くしたので、何か新しいものはないかと探して、近年はアール・ブリュットに注目が集まっている。そして近江八幡にはそれ専門の美術館も出来た。デュビュッフェが収集したアール・ブリュットの画家たちの作品はもう手に入らないから、その精神を理解して、現存のそういう傾向の画家に焦点を当てる。これは作品が比較的安価でもあるからだろう。金儲けや名声に関心がないような人たちの作品で、彼らを見出した人たちがそういった世俗的なことに携わる。先月15日、琵琶湖ホールに行った時、広い玄関ホールの片隅に、アール・ブリュットの作品が2点透明なケースの中に展示されていた。そのうち1点を写真に撮ったので今日載せておく。この陶製の作品を10分ほど見ながら、あまりいい気分ではなかった。全体が棘の集まりで気持ち悪い。圧倒的な力があることは認めるが、人を幸福にするものではない。かといって現代芸術の難解は思想が籠っているというのでもない。それでも作者は毎日作り続けているのだろう。それが売れようが売れまいが、人が気に入ろうが入られなかろうが、無頓着だ。それこそがアール・ブリュットだが、デュビュッフェ本人はそういう絵画を描く人のように無垢、無欲、また無智でもなかった。彼は用意周到で、思索や作画を怠らなかった。西洋の美術の歴史はよくよく知り、その最先端で何をすべきかを絶えず考えた。そこで見つけたのがアール・ブリュットで、そのことによって、西洋美術の歴史が引っくり返ったのではなく、より豊かになった。これは西洋美術の確固とした伝統があってこそ見出された芸術で、そういう長い伝統がなければ発見もされなかったものかどうかという問題を突きつけている。筆者はそうだと思うが、アール・ブリュットは行き詰って来た西洋美術の隙間を見出す行為で、あくまでも西洋美術の文脈の中で語られるものという気がする。だが、デュビュッフェが発見するよりもっと昔に、たとえば李朝の大半の民画はアール・ブリュットでありながら、閉塞感や不気味さとは無縁の世界を繰り広げている。そして、そこに日本の染色美術を対比させたい思いもある。日本の油彩画は外国で製作活動しない限り、日本でしか知られず、また売れない。日本は日本の基準があってよいという意見があるが、それは負け犬の言葉にも聞こえる。日本に油彩画が輸入されて200年以上経つが、西洋絵画の伝統に影響を与えた画家はほとんどいない。彼らは自前でやって行くし、またそれだけの長い伝統を誇っている。その前にあっては、西洋人が模倣出来ない表現を磨くしかないと思うが、そもそも西洋の美術受容の歴史が日本のそれとは違う。そして生活が欧米化した現在、ますます生活の中に美術など不要に思う人が増えているのではないか。グループ展や個展で作品がせめて半分は売れるといった世の中になるべきで、また日本独自の造形表現が庶民レベルで理解され、そのよさが見直される必要がある。とはいえ、それはほとんど絶望であり、隙間などどこにもないと思ってしまう。ああ、やはり後味が悪くなった。それに書きたいことが尽くせなかった。
by uuuzen | 2013-07-12 23:59 | ●新・嵐山だより
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