階段がきっと天国まで続く気がするほど長いはずで、富士山の頂上を上る人はあべのハルカスの階段で体力作りをすればいいだろう。最上階に展望台が出来るから、地上1階から直通のエレベーターは設置されると思うが、停電の場合を考慮して全階をつなぐ階段もあるはずだ。
300メートルの高さとなると、総段数はどれほどになるのだろう。一段差当たり15センチの高さが標準であるから、2000段という計算になる。わが地元の法輪寺は、山門から本堂に至るまでの石段数はほぼ100段だ。それを上るのでさえも息を切らせるから、その20倍となると途中で休憩なしでは無理だ。また、細い塔とは違って地上からてっぺんまで通じる階段が設けられることは考えにくく、それに変な人がうろうろされては困るから、途中のフロアで一般人は利用出来なかったりするはずだ。こうした巨大なビルは庶民からはいやでも目に入るし、外側は丸見えであるのに、内部は入ることが許されない部屋が多いはずで、そのことが縁遠い存在に思わせる。またそう考えると、このように目立つ建物は、封建時代の殿様のお城ならまだしも、現代では一種の暴力にも思える。都市の景観を考えた場合、その美しさは飛び抜けて目立つ建物がないことだろう。ヨーロッパではそれが教会である場合が多かったが、宗教の力が大きかったからだ。江戸時代の城下町では城を別にすれば火の見櫓程度で、そのほかの建物の屋根の高さはだいたい揃っていた。現在ではホテルや銀行、ビジネスのビルが高層化し、最も偉そうな顔をしていることになる。庶民からすれば、高い建物が近くに聳えることは目障りであり、また都市の美観も何もあったものではなく、勝手なことをするなと文句を言いたいところだが、法律や条例によって大企業は優先され続ける。そして、庶民は高層ビルが建つことに街の自慢の種が増えたと思い込んでしまいもする。自然の山の上から見下ろされるのはまだしも、高層ビルから見下ろされていると思うのは気分のいいことではない。というのは、わが家の裏庭の向こうに去年家が建て込んだが、これを書いている3階からはそれらの家の屋根を少し見下ろす形になっている。相手は2階建てであるからだ。これが見下ろされる格好ならば、筆者の日々の気分はがらりと変わったと思う。ということは、それら2階建ての住民は自分たちの背後に3階建てがあることが鬱陶しいだろう。このように、ごくわずかな差でも、見下ろされるのはあまり気分のいいことではない。超高層ビルはごくたまに繁華な街に出て一瞥するからいいようなものの、そのすぐ下で生活するならば、きっと落ち着かない。
高層ビルが目立ち始めてから日照権の問題が世間を騒がせた。それは日照りという問題もさることながら、そもそも自宅の近くに終始見下ろされる背の高い建物があることの一種の不安による。今カフカの『城』を思い出した。城の内部に入ることが許されないままに終わる主人公の思いは、当時城の中に誰もが入ることは出来ず、謎めいた存在であったことを示しているようだが、それと同じことは民主主義になっても相変わらずあって、ハルカス内部に一般人が見られない部屋があるのと同じだ。つまり、現代の城は超高層ビルということのなりつつある。これは城があった時代の貧富の差が生き延びていることでもある。共産主義社会になっても事は同じで、為政者たちは城のような建物に住む。日本の超高層の建物ではまだ多少は庶民に気を使っているところがあって、最上階に展望台を設けて、お金さえ出せばそこから遥か遠くまで地上の世界が見下ろされるようにしている。これはほんの一瞬であっても王様気分にさせてあげようという優しさだが、見様によっては狡猾さでもある。展望台からの眺めはいわば富士山の頂上からの眺めに似て、征服感がある。富士山の頂上からでは、雲のために麓の家並みは見ないだろうが、それはハルカスも同じで、せっかく展望台に上ったのに、下は真っ白で高さを味わえないという苦情が多く出るのではないか。それにしても、展望台からの眺めを一度体験すると満足して、もはや超高層に文句は言わない。カフカの『城』とは違って、城のような建物内部の最も高い階は庶民に解放する。ただし、無料ではない。ともかく、その解放によって、民主主義を誰もが感得出来、超高層を建てる技術に感銘も受ける。そして、地元住民の日照権などの問題は無視してしまう。となると、超高層は原発にどこか似ているとも思えて来る。原発のような危険な匂いはないが、自宅のすぐそばにあっては困る点では同じだ。
ハルカスは昨日載せた建築中の写真からもわかるように、形がやや複雑だ。真下に行って仰ぎみると、「山」の漢字の象形文字のように尖りが3つあった。ざっと言えば三連の直方体が密着した形で、六本木ヒルズのようにシンプルではない。これは単に建物の美的な設計によるものかと思えばそうではなく、中に入る会社の権利関係のようだ。そのことを示す看板がハルカスが面するあべの筋を越える陸橋の上にあった。その写真を今日は3枚目に載せる。3つの尖りのうち、一番背の低いものは以前のように近鉄百貨店が入る。2番目に低い中央棟はオフィスで、最も高い、すなわち最南部に位置する塔はホテルだ。これらは商業性の優劣から決まったことで、きわめて現代的で、封建時代の城のような無駄は一切ないに違いない。経済性から畳半分の面積に至るまで計算され尽くして建てられたもので、その意味では精密機器と同じだ。そのように無駄がないことはさらに庶民には気の遠くなる別世界を思わせる。城の内部ならば見てみたいと思うが、こうした合理一辺倒の建物は味も素っ気もないない。そのことはハルカスの外観に滲み出ている。誰のデザインか知らないが、現代の城とはこういうものだという典型となっている。精神的潤いといった無駄としての美は最初から認められるはずがない。まずあったのは、どうせ建てるのであれば大阪の名を世界に広めるにふさわしい巨大さで、狭い日本、大阪のことであるから、敷地面積的には無理で、高さを競うしかない。また、敷地がいくらでも広く取れたにしても高さを目指したはずで、今はどこにも負けない超高層を自慢することが自治体の願いにもなっている。やがてハルカスを遥かに超える高いビルがどこかに出来るし、そうなればまたどこかの都市がその上を目指す。まるでバベルの塔だが、現代の建築術はそれを可能にしたと建築家は自負している。そこでまた原発を思うと、地震頻発国の日本ではもともと原発はふさわしいものではなかったという意見がある。もっともな話だ。同じことは超高層ビルでも言えるが、ここ2、30年の免震設計の進歩には目覚ましいものがあると建築家は主張する。だが、揺れを妨げることは出来ず、超高層では上の階ほど長く大きく揺れる。「いやいや、そのように設計したのでありまして、絶対に倒れませんから、大地震の時は遊園地の乗り物に乗った気分で楽しんで下さい。わっははは!」
今日の2枚目の横長写真は、一部工事中で、それがバベルの塔を思わせる。また写真左端に、陸橋の高さに合わせてハルカスの東側の壁面に文字が貼りつけられているのが見える。拡大写真でわかるように、「HARUKAS」の文字の右にたくさんの点が見える。これは5月下旬頃にはまだ文字が貼りつけられていなかったためだ。おそらく「ABENO」の文字と思うが、これらの文字が超高層であるにもかかわらず、普通のビルと同じく、比較的低い場所に設置されているところが面白い。ハルカスから阪堺線を越えて西側の建物に陸橋が取りつけられるはずで、その陸橋の人通りの多さを見越して文字板を取りつけた。この文字のデザインはまあまあで、建物に似合っている。ハルカスが今後どれだけ長期にわたって存在するのかわからないが、ヨドコウ迎賓館のように重文指定になることはまずない。そのような建物を現代は欲していない。どこまでも経済性重視で設計、建築されたはずで、一風変わった面白さや遊びといったことには気配りはされなかったであろう。それは現代社会の宿命とも言えるかもしれず、また大阪ではなおさらと見られるだろう。さて、今日は気分が影響しているのか、辛口ばかり書いて来た。来春のグランド・オープン後は展望台にも上ってみたい。そのことを「その3」として書くつもりでいる。筆者は富士山にはさっぱり興味がないから、せめて登山気分をハルカスで味わう。そうそう、富士山が見える地域というのがあって、先日奈良のどこかから撮影した人がTVで紹介されていた。その撮影場所は、富士山が撮影出来るほとんど限界らしい。大阪から富士山は見えないが、それは金剛山や生駒山が邪魔をしているからか。そうではないはずで、生駒山から見えるならばとっくの昔にそんな富士山を撮っている人がいる。筆者がハルカスで思ったのは富士山でもあって、ハルカスの展望台から富士山が撮影出来れば話題が増えて面白いと思った。だが、生駒や金剛山でも無理ならが、ハルカスでは低過ぎる。そう思うと、ハルカスの名称が何となく惨めで、どうせなら3000メートルのビルを建てて世界一を目指すべきであった。そのビルの中に大阪市民を全員住まわせ、他の土地はみな田畑と森林に戻す。3000メートル級のビルが夢ではないことを大手ゼネコンが数年前に発表していた。筆者は見られないが、いずれそんなビルも珍しくなるだろう。そうそう、今日の4枚目の写真はハルカスとその西向かいの、去年の夏はまだなかった商業ビルとの間に立って見上げたものだ。まるで建物の森だ。下の横長写真は同商業ビルの内部で、先日書いた駄菓子屋の様子だ。下町が少なくなり、街の中心地のこのような最新の建物の中に子どもが集まるような店が出来る。冗談ではなしに、どうせなら店主は人生の階段の最上段近くにいる老人に任せてほしい。