藺草と書くことを先ほどネットで知った。畳の材料となる「イグサ」は雑草のように勝手に生えているものと思っていたが、栽培するらしい。

今は特に家のリフォーム・ブームで、その広告をあちこちで見かけるが、畳敷きの和室を板張りに改造することはあってもその反対はめったになさそうで、畳はますます生活から縁遠いものになりつつある。畳屋も昔に比べて減少一途のはずだが、畳が少なくなればイグサの栽培もそれに比例する。イグサを育てるよりもっと儲かるものの方がいいのはあたりまえで、イグサが希少になるにつれて畳の価格が上がり、畳を捨てて板張りにしようという家庭が増える。どちらが先なのか知らないが、相乗の悪循環となっているのは確かなようだ。日本でイグサが育てにくいとなれば、外国産を使うしかない。たぶん中国産あたりが幅を利かせているのだろうが、畳は消耗品であるから、畳を愛好する人がいる限り、イグサと畳屋はなくならない。昔は畳の表を変えることがよく行なわれていて、風物詩でもあった。その費用は思ったほど高くはなかったのだろう。どの町にも畳屋の2,3軒はあった。需要が多いと商品の価格は下がる。物価と畳の値段の上昇がどの程度比例しているのかどうか、畳部屋が少なくなるにつれて畳の価格は上昇し、昔より割高になっているのではないか。隣家をリフォームするに際して、2階の2間を元の畳部屋にするつもりでいる。現在は1間のような形になって面一で板が張られている。そのごく一部が実験台に取りつけた洗い場の水漏れの影響で半ば腐っていたので、先日そこを切り取った。すると7センチほどの深さがあって、下はコンクリートであった。漏れた水はそこを浸透し、その下すなわち1階の天井である石膏ボードを汚していたが、水は案外たやすくコンクリートに染み込む。実験台は全部細かく粉砕して処分したので、2階ではもはや水を使うことがない。板張りのままでもいいようなものだが、床の間がついているので畳を敷くに限る。そこでぽつぽつと畳の価格を調べ始めているが、先日中京で通りかかった畳屋に価格表があったので1枚もらって来た。畳1枚が税抜きで特等5万円、以下3万、2万と続き、縁なし半畳が1万円よりとある。特等は無理でも普通品がいい。1枚2万円として、2階2間で12畳半、25万円、税込みで約30万か。その前に板を全部剥がし、根太を取り除かねばならない。また、襖を新調して取りつける必要もあって、そのための敷居鴨居の工事も欠かせない。

ヨドコウ迎賓館は洋館であるから、畳敷きの部屋はないと思っていたが、大正時代ではまだ畳は欠かせなかったのか、3部屋ほど連続して畳が敷き詰められている階があった。阪神大震災以降の修復工事の際にそれらは新調されたはずだが、戦後の一時期、たとえば外国人が所有していた頃はそれらの部屋はどうなっていたであろう。畳は定期的に畳表を変える必要がある。外国人にそうした手間をかけてもこの建物に住みたい思いがあったかどうか。面倒なので畳の上に絨毯を敷き詰めていたかもしれない。あるいは畳を取り去って板張りにしたか。フランク・ロイド・ライトの設計では畳部屋が考えられていたであろうか。何度も来日したから畳のよさは知っていたはずで、ヨドコウ迎賓館では建った当時から畳はあったに違いない。それは今日の3枚目の写真に見える床の間を思わせる花瓶を置いた棚の窪みからもわかる。また、2枚目の写真の奥に少し見えるように、床の間も設けられている。襖を外せば細長い大広間になるのは日本の家屋と同じで、そうした伝統を守りながら、風通しと採光のための連続した小窓を取りつけたり、また正方形の銅板による装飾は玄関を入ってすぐの大広間と同じ考えに基づき、和室と洋室が違和感なく共存出来るように工夫が凝らされている。石工や彫金の職人技術を駆使しながら、洋室が西洋のそれとそっくりにならずにライトの個性を示し、和室も日本のそれとは一風変わったものとなっていて、また和洋折衷とは別に中南米の古代建築からの影響も感じられて、ポスト・モダニズムがすでに見えていると言ってよい。異文化の混淆は悪趣味になりがちだが、この建物がそう見えないのは、正方形の銅板装飾や正方形を45度傾けた菱型窓、それに球体の照明など、全体として使用している形の少なさによるだろう。抑制された装飾趣味によって品のよさが出ており、それは考え方によってはそれらとの調和を崩す家具調度の持ち込みが難しいことを示す。現在はいわゆる空き部屋となっていて、生活感がない。そのため、どの部屋も広々としている。これが実際に人が暮らすとなれば、建物が持つ味わいとは調和しない物で溢れる。それは数十年という短で見れば、年を重ねるごとに建物とは調和の取れない物が増える。住む人が常に流行にさらされるからだ。その結果、半世紀後には建物全体が古臭いと感じてしまい、劣化した箇所を直すついでにリフォームを著しく施してしまう。この建物もそのような歴史を辿ったあげく、ようやく元の形に戻された。

戦前と戦後の暮らしにおける最大の変化は電気製品の増加だ。以前書いたように、一般家屋で使用する電線の総延長はここ数十年で倍以上になった。温暖化の影響もあって、今ではどの部屋でも夏場はクーラーがほしい。そして一般家庭でも単相200Vのクーラーも珍しくないから、リフォームに際して電気配線を増やすことはあたりまえになっている。天井や壁を一旦剥がすならばいいが、安価でリフォームを済ますのであれば露出配線になる。それが不格好と言っておられないほどに暑さが応えるのであれば仕方がない。このように、普遍と思っている風土も変わって行く。ヨドコウ迎賓館が建った頃と現在とでは電気、水道、ガスの使用は比べものにならない。そのため、主婦がこの建物を見ると、まずキッチンがどうかと思うに違いない。それに各部屋の電気のコンセントの数だ。また天井の照明も少ないと思うだろう。先日この建物のホームページを見て知ったが、電力は現在の阪急電鉄芦屋川駅から特別に引き込んで大量に消費していたらしい。今では周辺に家屋が密集してそんな必要はないが、大正時代はよほど一般家庭は電気の消費量が少なかったことがわかる。そうした中、この建物は特別で、電気代だけでも大変であったが、大型冷蔵庫や洗濯機、TVなども当然置かれたはずはないし、どの部屋にもクーラーはなく、照明の数も少ないように感じる。修復に当たって電気配線や水道管が増やされたのだろうか。全部解体しての工事ならばそれはたやすいが、壁の中の見えない箇所であるからといってライトの設計とは違うことをしていいのかどうかの問題がある。そのため、電気と水道に関しては、劣化した箇所は新しくすること以外、建った当時の姿を守ったのではないだろうか。重文になっているので、今後人が住むことはない。そのため、現在の目から見て不自由かと思える設備もそのままにしておくべきだ。現在の周辺の金持ちの豪邸の中には有名建築家に設計を依頼したものもあるだろう。「その1」で書いたように、この建物から東100メートルの山手の道を歩いた時、車が10台近く入る大きなガレージを持つ家が連なっていた。それらはたいていこの建物より居住面積が大きく、また風の通りや採光の面でももっと計算されているかもしれない。そんな建物の中から100年後に重文に指定されるものがあるのかどうか。それはライトのように歴史に名を残す巨匠がいるかどうかにも関係している。残念ながら、芦屋の大金持ちに知り合いのない筆者は、芦屋の山手の現在の望む限りの良質の豪邸なるものを、このヨドコウ迎賓館でしか想像出来ず、現在の生活から見て、どこが不便でどこに普遍性があるのかがわからない。とはいえ、各部屋の特徴ある細部を毎日感得しながら生活するのは、多少の不便はあっても大きな愉悦ではないかと思う。そして、流行に生活を合わせるのではなく、この建物の特徴に合わせた趣味を持てばよい。それほどに建築家は将来にわたって人の暮らしを規定する。それが芸術というものだ。

細長い建物で、今日の最初の写真からわかるように、畳部屋の横にはその縦軸に沿って窓からの光が入る廊下が片側だけにある。写真に見える後ろ姿の女性は家内だ。建物内部は撮影は自由だ。土日だけの開館で、ぽつぽつと来館者が続く。あまりたくさんの人が一挙に押し寄せるとあちこち汚れたり壊されたりするので好ましくない。知る人だけが訪れるというのでいいだろう。建物は斜面に沿って建っていて、どこも2階建てとなっている。玄関は最も低いところにあって、そこが建物の先端になっている。そのため、玄関から入って斜面を上る形で奥へと進み、階段を上がる。今日の4枚目の横長写真は最初の写真に見える奥から振り返ったもので、3つ連なる畳部屋は廊下から石段を3つ高いところに位置することがわかる。これは階下の部屋の天井を高くするための措置なのか、斜面の建つためかはわからない。また、最後の写真に見えるように、廊下はどこも大きな窓があるかと言えばそうはなっていない。明日書くが、建物全体の縦軸は突き当たりで少し曲がっていて、いくつかの部屋はややせせこましく、迷路のような趣がある。それはそれで単調になりがちであるところに遊び心があって面白いと言うことも出来るが、閉塞感を感じた。風通しや採光は窓を大きく、またたくさんつければいいが、海に近い山の上に建つので、風雨の激しさを最初にどの程度かを知らねば、雨水の侵入や湿気の籠り具合において、住民に不便な設計をしてしまいかねない。この点は現在ならば、丘の斜面をさっさと削って平らにし、平地と変わらぬ住宅を建てる。大正時代ではそれを可能にする重機がまだなく、人力に頼るには費用がかかり過ぎた。それで斜面はなるべくそのままに、建物をそれに合わせることにした。この方が自然でよい。山を削って住宅を建てると、よく崖崩れを起こす。日本中そういうところだらけと言ってよい。斜面にあった樹木や草を除去しての建物であるから、自然破壊と言えばそうだが、現在の考えよりもまだ自然に溶け込んでいる。建物の設計は周囲の環境との兼ね合いがあってしかるべきなのに、戦後はそのことが忘れられがちで、自分の敷地をどのように使ってもいいと思う人がいて、また都市計画もそれに合わせたように規制が緩められる。ヨドコウ迎賓館と同じような敷地があるとして、そこに木造建築を建てることは今は難しいか。田舎の山手の温泉地に行けば、そのような建物がまだいくらでもあるように思う。酒造で儲けた山邑氏が洋館にこだわったのは、ハイカラ趣味と強固な建物に憧れがあったためであろう。そのことは芦屋の豪邸では常識となっているようであるし、坂の上り降りには車が欠かせず、どこもそれ用の家(ガレージ)が門の隣りにある。ヨドコウ迎賓館は駅から近く、また山を上るというほどに坂道をたくさん歩く必要もないので、車は必要なかったようだ。