蔓の先端がこの先どこに絡みつこうかと周囲をうかがっているように見える。わが家の裏庭には5,6年前に食べずに埋めた山芋が毎年芽を出し、梅雨時は蔓も葉も大方成長し切る。

高さ2メートル近いプラスティックの支えを1本だけ地面に立ててあって、それに最初絡まるのはいいが、そのてっぺんに至るともう絡みつくものがない。それを見ながらロープでもつないでやろうかと思わないでもないが、「ジャックと豆の木」ならぬ「ちわゆねと山芋」ではパロディの物語にもなりそうもないし、またロープを高く伸ばせば、蔓と葉が手の届かないところまで育って、秋に出来るムカゴの収穫に苦労する。ま、そこまでは考えていないが、ともかく山芋には悪いが、繁茂してもらう範囲は毎年1本の支柱とその周囲1メートルほどで我慢してもらっている。それにしても埋めた山芋は土の中でどんな形の塊になっているだろう。一度掘り起こすのもいいが、面倒臭いので今後もしないだろう。この山芋でも大分遊ばせてもらった。いつかはステルス戦闘機そっくりの格好いい形のキイロスズメガの大きな幼虫が数匹這って、1日で葉を全部食べてしまった。その御礼か、親のスズメガはわが家の裏庭にやって来て、しばし塀に留まっていた。山芋の葉だけを食べるキイロスズメガにすれば、わが家のほんの少しのその葉で子孫が残せると考えたのだ。憐れで健気なことだ。嵐山はどんどん家が建ち、もはや山芋が自生する場所などまずないだろう。ということはキイロスズメガも生きられない。人口が減る一方の日本なのに、なぜか家屋だけは際限なく増え続ける。この仕組みは狂気の賜物で、人間はみな狂っている。まともに見える者ほどそうかもしれない。それはさておき、筆者は植物で言えば蔓性かもしれないと思う。ブログの内容がそうだ。シリーズ化しているものはまさに蔓のようにどこまで続くかわからず、そうでない単発の話題にしてもほかの投稿と部分的につながっているし、そうでなくても一投稿内で話があちこち飛びながらも意識の中でも蔓のようにつながっている。蔓と聞くと、雑草のしつこさを連想する。これが人間となればストーカーだ。男女ともにストーカーはいるが、好きでない相手に蔓のようにどこまでも追いかけられると迷惑であるから、お互い蔓性であることがわかってから交際するとよい。たとえばデートでこんな質問をする。「豆の木と山芋のどっちが好き?」「?」「あまり考えずに」「豆の木!」「じゃ、ぼくと同じ蔓性だね」「やっぱ山芋!」「それも蔓性だ」「嵌めたね」「嵌めるのはこれから」「スケベ!」

蔓のように話題がつながっているのかどうか、今日は伏見人形展について書く。どこであったか忘れたが、このチラシを入手した。ぜひ見ておきたい。それで今月の7日に人と会うついでがあったので、バスで堀川今出川まで行った。その会った人についてもいずれ書こうと思う。縁は不思議なものを地で行く話で、本来は今年1月の
「大阪の古本屋と奇遇」に書くつもりが、投稿してから思い出した。さて、展覧会の感想は去年秋からぱたりと書かなくなった。展覧会には相変わらず行っているので、書く内容には困らないのに、その気が起こらない。気分にムラがあるのか、そうであるとすればストーカーにはなれず、性格は蔓性ではない。それはともかく、伏見人形展はきわめて珍しい。これは取り上げておこうと思った。京都市考古資料館の1階特別展示コーナーで今月末まで開催中、入場無料だ。伏見人形ファンはそれなりにいる。筆者もその部類だが、京都の郷土玩具愛好家では少数派だろう。京都に住むからには、郷土玩具愛好家はすべからく伏見人形を愛好すべしと思うが、一旦興味を抱くと、あまりに身近に溢れるように思えてありがたみがなくなるのだろう。これは今も商品として作られているからだ。それで収集家は古作を求める。筆者もどちらかと言えばそうだ。ところがそういうものはとても少ない。1000個に1個もない。あちこちで1万個見てようやく1個あるかないかだ。しかもみんなそういうものを探しているから、一部破損していても2,3万円は優にする。それでもほしいのは、その時入手しておかねば、おそらく生涯同じ形のものに遭遇出来ないからだ。それほどに珍しいものが稀に市場に出る。古いと言ってもせいぜい150年ほど前だろう。あるいは200年ほどか。もっとも、伏見人形は雌型に土を嵌め込んで雄型としての人形を取り出して素焼き、それを土絵具で彩色して作るが、何世代にもわたって型を模倣し続けるため、200年前と現在の作との区別がつきにくい。明らかに違うのは彩色だ。戦後絵具はより鮮やかになった。どぎついと言ってよいほどだ。今回の展示は、市内各地で発掘された伏見人形の現品以外にその型もあって、現品は土中に長年埋もれていたので絵具は全部落ちて素焼きの肌色になってしまっているが、型は今でも使用出来るほど保存状態がよいものもあって、それらを元に人形が復元された。復元とはいえ、当時の彩色がどうであったかはわからない。そこは今も伏見人形を製作する伏見の丹嘉に一任され、今日載せる写真からわかるように、犬や猿、大黒さんなど12点が展示された。それらは一見して現在の丹嘉の作品と同じ色合いで、復元とはとても言い難い。明治初期くらいの古作はたくさん残っているから、それらを元に彩色は昔の絵具と同じものを使ってほしかった。だが、丹嘉はそれが出来なかったに違いない。丹嘉には無数の古い型が残っているから、昔のものと形は表向き同じ人形は焼くことが出来る。ところが彩色に関しては絵具をどんどん新しいものを使って来たから、今さら江戸時代の顔料と同じものを使ってということは考えも及ばない。伏見人形ファンが古作に憧れるのは、めったにない珍しい形もさることながら、何と言ってもその絵具の鄙びた色合いだ。それは現代でも表現可能のはずだが、水干絵具も原色中心となって、いかにそれらを混色して古風さを出すかは画家でも難しい。それに、わざわざ古風さを出さずとも、現代は現代の色合いでよいという考えもある。

さて、考古館は以前一度訪れたことがある。京都は発掘すれば必ず何かが出て来るから、こういう施設は必要だ。西陣にあって、昔の西陣会館だ。それが今出川堀川に大きなビルが出来たので、不要になった。中に入ると、どこかで会ったことのある係員が応対してくれた。どこで会ったのか必死に思い出そうとしながら、今もわからない。ただし、先週土曜日に琵琶湖文化会館の傍らを歩いた時、数年前そこで会って話をした男性とそっくりであることを思った。滋賀の役人が京都で働くことはないので、たぶん別人だと思うが、それほどに似ていた。読者にはどうでもいい話で蔓を伸ばしてしまった。展示数は1000から2000だろうか、数えられないほど多かったが、どれも素焼きの色合いで、華麗さには欠ける。そこで丹嘉に一部を復元してもらって展示し、またそれとは別の丹嘉の商品も並べられた。それらは見慣れたものであり、郷土玩具ファンは一瞥のうちに素通りする。また、現在売られている商品をこうした施設でどこまで展示してよいかの問題もあるだろう。伏見人形が今ひとつ芸術と見なされて立派な展覧会が開催されないのはそこらへんにも事情がある。発掘された場所は市内10数か所で、最も多かったのは当然と言うべきか、伏見人形工房が密集していた伏見稲荷前から嘉周辺すなわち伏見の本町通りで、正確に言えば本町二十丁目だ。去年、十条通り拡幅工事の際に型がたくさん発掘された。チラシによれば、土人形の型としては日本最大数だ。伏見人形にとってはビッグ・ニュースで、それらの型から前述のように12種類を選んで丹嘉が復元した。どれも馴染みのもので、販売されているならぜひほしいというものはない。ただし、細部を見れば厳密には同じ型はないと言ってよい。特に西行法師は顔が厳しくてとてもよい。逆に尺八を吹く虚無僧はとてもかわいらしい表情だ。これら大量の型がいつ頃使われたものか。伏見人形ファンとしてはそこが知りたい。係員に質問するとわからないとの返事であった。考古資料館で展示するからには、まずいつ頃のものかを同定する必要があると思うが、近世のものは難しいだろう。それほどに伏見人形は古作のことがわからない。会場に展示されていたが、天正年間の刻印のあるものが発見されている。実際はもっと古くからあったのは確実だが、伏見の本町通りで観光土産のように量産されるようになったのは、せいぜい200数十年ほど前からだろう。そして、その頃からすでに大方の型は出揃い、現在のものと区別があまりつかない。

先に筆者は古作に珍しいものがあると書いた。それは同じ犬や大黒でも細部が違うという意味だ。たとえば10年ほど前に亀抱き童子の古作を東寺の弘法市で見かけた。同じ題材は今でも作られているし、またその方がはるかに完成度が高い。見かけた古作はどこか拙いながら、一度見れば忘れられない個性がある。2万円ほどで見ている間に売れたが、同じものに写真でも実物でもその後出会えない。その古作は、おそらく一時的に営業した店が、他店と同じ題材のものをと考え、新たに型を作ったか、あるいは亀抱き童子の最初期の型であろう。それがよくわからないのは、亀抱き童子はたくさん種類がありながら、9割以上は明治かそれ以降の作であるからだ。つまり、亀抱き童子という題材がどのようにして現在の完成度の高いものになって来たかがわからない。それを研究するにはあまりに明治以前の作がなさ過ぎる。あるいは日本のすべての収集家を当たればそれなりの数は集まるだろうが、誰もそんな研究をしない。しても学者は無視する。芸術家も同じだ。この昔の作の極度の少なさは、先日取り上げた『発掘捏造』における、日本の前期旧石器時代の石器とよく似る。比べるものがないので、旧石器時代から出土した縄文時代の石器であっても、それを数十万年前のもの見たがる。伏見人形にも同じようなことが言えるかもしれない。愛好家は古作を誇示したいから、せいぜい200年前のものであっても、理屈をつけて400年ほど前のものと主張したがるだろう。そのようにして古さを捏造した伏見人形はたくさんある。それほどに古作研究が行なわれておらず、また行ないようがない。そんな状態であるから、今回の展覧会には期待した。ところが、発掘からたくさん得られてもそれらの製作年代が不明だ。丹嘉に訊いてもわからないはずだ。一番いい方法は、伏見人形の古作を徹底して調査することで、ある題材の新旧を並べてみることだ。ただし、それも人によって考えが違うだろう。完成度の高い型が生まれて以降も、別の店がより拙い、古く見える型を新たに作って販売した可能性がいくらでもあるからだ。となると、伏見人形は学問の対象には値しないということになりそうだ。幸いなことに丹嘉の先代は廃業する店から大量の型を引き取り、それらを使って今後も昔と形だけは同じものが生産出来る。それにそうした型は古いものをそのまま模倣したものがほとんどであるはずで、200年や300年前の伏見人形の姿を伝える。発掘された伏見人形にあまり驚かないとすれば、それは今も伏見人形が昔のまま生きているからで、これは喜ぶべきことだ。

本町二十丁目以外の発掘場所からはみなそれなりに個性のある伏見人形が出て来た。掌に乗るような小型が多いのは、大型のものは壊れやすく、また破片の一部が見出されずに復元不可能であることにもよる。展示は撮影自由であったので、たくさん撮って来たが、どれも変わり映えしない色合いで、「その2」として続編を書いて載せるほどでもない。また嬉しいことに展示品は小さい写真ながらパンフレットに収録されている。カラー刷り8ページで、普通は100円か200円で売っていいものだが、この館に割り当てられた予算があまっていたのか、無料だ。3枚目の写真は、釉薬がかかったもので、これは土絵具を素焼きに彩色する伏見人形とは言い難いが、天神さまや犬など、一見すると伏見人形と大差ない。これは伏見本町通りとは別のところで作られたものかもしれない。庶民が消費したこのような小さな焼き物は芸術品とはみなされず、まともに研究する人もおらず、歴史にも残らない。この3枚目の写真を載せたのは、見えにくいが、左2番目で上から二つ目に、明らかに南蛮屏風に描かれるような、髭面の異国の男を表わした像があるからだ。また最上段の、器に入ったような庭園は、盆栽の焼き物のようで面白い。同じようなものは伏見人形にはない。4枚目の写真は、伏見人形の日本国中への伝播図だ。有名なもので、今さらとも思うが、いかに伏見人形が日本中の土人形その他の玩具に影響を及ぼしたかを示すうえで欠かせない。他国が偉そうなことを言っても伏見人形あってのことだ。その本家を京都が看過すればいったいどこか大切にするというのか。5枚目は、少しでも珍しい型をと思って載せる。鶏や犬、鳩、魚で、一部は笛になっているかもしれない。これらも現在作られている題材だが、よく見るとどれも全く同じ型で作られたものはない。たとえば下2段目、右ふたつ目のフクロウだ。フクロウの笛は2,3丹嘉が作っているが、この写真のものとは共通点がない。土人形は簡単に作り得る。新しい型を作っては試験的に少数作っては壊す場合もあったろうし、数百、数千と量産しても、その程度の数では、割れやすいこともあって、ひとつも今に伝わらなかった場合がほとんどではなかったか。それに、器用な人なら、古作の贋造は簡単で、それを古い地層に埋めずとも、市場に出せば飛びつく収集家はいくらでもいるだろう。筆者は贋作製造には関心はない。作るならば、独自の型だ。手初めに巻き糞か宝珠、あるいは土中にかつて埋めた
象の形をした山芋像を。蔓は難しいので、それは本物を切り取って添える。