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●『大いなる旅路』
む思いは去らないが、3年経って遺品の整理をふたたび手がけ始めたそうで、先ほど中学生時代の友人Mの姉さんから電話があって、1時間以上も話をした。電話の要件は、遺品の中から未使用のブランドもののバッグが出て来たので、それを形見として受け取ってほしいとのことだ。



Mの死を最初にお姉さんが伝えてくれたのは、亡くなって年の喪中はがきだったと思う。それから電話で話したことが一度ある。それ以来のことだ。話題はまた自然と、亡くなる前のことや遺品のことになった。以前の電話では、仕事の道具として使っていたパソコンその他の道具は友人に全部持って行ってもらったと聞いたが、今日のその友人の名前がわかった。筆者は同じ学級になったことはないが、顔は何となく覚えている。仕事の道具として活用してもらえるのであればMも嬉しいだろう。Mは独身であったが、物を溜め込む性格であったらしく、まだ整理し切れていない物が大量にあるらしい。筆者も同類で、Mの数倍はあるかもしれない。金目のものは生きている間に自分で処分先を見つけなければならない。Mのお姉さんが送ってくれるバッグは好みに合うだろうか。不思議なもので、一昨日筆者はネットで皮のカバンをひとつ買った。去年あたりからほしかったもので、襷がけにしてバッグが背中に来るが、それが小さな弁当箱が入るほどの小型だ。これを使用すると両手が空くから便利だと思った。また、筆者はスーパーへの買い物以外では重い荷物を持って歩かない。かといってカメラやティッシュ、ハンカチ、それにたまに本や傘が必要であるから、それなりの入れ物は必要だ。2年ほど前に書いたが、百貨店のアンケートでもらった不織布の手提げがあって、いつも外出時にはそれを使う。かなりくたびれているので、家内は格好悪いので持つなとうるさい。それでもほかに代わりがない。それに何と言っても軽いのが一番だ。先ほどのMのお姉さんも同じことを言った。皮の思いバッグを持ち歩く気になれないそうだ。筆者もそうで、格好より便利さだ。とはいえ、格好もそれなりに気を使う。そこで見つけたのが、背中に担う形の小型のバッグだ。これなら皮でもよい。だが、実際に使うとなれば、いちいち背中から外して中身を取り出さねばならないから、手間がかかる。あれあれ、今日取り上げる映画とは何の関係もない話をだらだら書いてしまった。方向修正。バッグの紐を襷がけにして荷を背負う姿は、江戸時代の股旅ものを思わせる。弥次喜多に限らず、歩いて旅した昔の人たちは、荷物をどう担えば一番楽かを知っていた。少量とはいえ、筆者が荷の入ったバッグを持って出歩くのも旅の部類に入る。「人生の旅路」という言い回しがあるが、人生に入れ物は欠かせない。それが家でありバッグだ。また頭でもある。
 人生が旅であるとすれば、旅すなわち移動に欠かせないのは、その手段だ。徒歩で旅するしかなかった時代から、明治になって機関車が走るようになり、またたく間に日本中に線路が広がった。そして石炭で走る蒸気機関車の時代となった。筆者が5,6歳の頃はまだ大阪には汽車が走っていた。いつもは京阪電車で大阪から京都に行った母と筆者は、筆者が汽車を見かけたのか、それに乗せてほしいと言ったようで、母は大阪駅から東海道線を利用した。乗ってしまえば汽車も電車も同じだ。だが、よほど印象深かったのか、その一度切りの汽車で京都まで行ったことをよく覚えている。6歳として1957年のことだ。『大いなる旅路』は1960年の製作で、主役は汽車の機関士で、大正末期から昭和30年までの30年を運転し続ける。当時は55歳で定年であったから、25から55までの機関士の人生を描いている。それは汽車を運転しながらの「旅路」で、鉄道ファン必見の作であろう。運転席の様子や雪を蹴散らしながら回転する大車輪がよく映り、始まり早々から国鉄の協力があったことがよくわかる。筆者はつい先日のKBS京都でたまたま見た。解説が終わってすぐ、黒地に白抜きの文字で国鉄の協力によって製作されたことの断りが出た。その文字がどうも1960年の封切り当時のものには見えず、ビデオ商品化した時に加えたのではないだろうか。また、中島貞夫による解説では、当時の東映の社長が国鉄とつながりが、鉄道を扱った映画をよく撮ったらしい。まだテレビが本格化していなかったので、映画は国鉄にとっては大きな宣伝道具となったであろう。そう考えると、本作は国鉄のつごうのいいように撮られたもので、意図が見え透いているということになりそうだが、主役の三國連太郎の演技のために迫力が増し、また昭和前期をコンパクトに眺めるドキュメンタリー映画の雰囲気が強い。先ほど知ったが、脚本は新藤兼人だ。これはやはり見てよかったし、思い返せば新藤らしさが随所にある。
 1960年は東京オリンピックの4年前だ。まだまだ地方は戦前のままであったところが多かった。本作は盛岡を舞台にしている。東京や名古屋も少し映るが、盛岡の田舎ぶりとはかなり違い、オリンピック間近であるのがわかる。なぜ盛岡を舞台にしたのか。それは大正時代の面影を色濃く残していたことと、雪の中を疾駆する機関車を撮影するにはふさわしかったからだろう。真っ黒な機関車に雪は似合う。全編にわたって汽車がとにかく格好よく映る。その姿が主役の三國にだぶる。三國は最初岩見という若者を演じる。学校の成績はビリから数えた方が早いが、腕力には自信があって、行き着けの飲み屋で暴れたりもする。機関車の助手で、運転手の横で終日中腰になって石炭を釜に放り込む。それは全く肉体労働で、いかにも岩見を演じる三國の風格に似合っている。岩見とは同期の佐久間は優秀で、さっさと昇進し、東海道線の配属となり、最後は新橋駅の長になる。一方の岩見は生涯現役だ。ただし、運転手には昇進する。定年間近か定年時か、岩見はその他数十名とともに国鉄から表彰され、文化勲章と同じようなデザインの記念バッジを授与される。その名誉をわが事以上に喜んで賛美したのが佐久間だ。定年まで運転手一筋で過ごすことの方が偉いという率直な言葉だ。これは国鉄の大部分を支えていた人たちへの餞の言葉だろう。実際、そうした真面目に働き通した人たちがいたからこそ、国鉄は存在し得た。世界にも類を見ないほどに時間に正確でしかも安全な鉄道だ。その見本を三國が岩見という平凡な男の生涯を通して演じた。だが、実際は平凡だろうか。昭和30年までの30年は、日本の歴史上、今後もないほどの大激動であった。その30年を一篇の映画として新藤はまとめてみたかったのだろう。その思いは見事にまとめられた。ただし、政治からではなく、鉄道員の家族から見た「民衆史」と呼べるものだ。三國はこの映画より以前に前歯を10本抜いていた。老け役をするのに邪魔であったからだ。歯を抜いてまで演技するなど、狂気の沙汰としか言えないが、三國にすれば、戦争の狂気に比べれば歯を抜くことくらい何でもなかった。戦争でたくさん死んだ人のことを思うとそうだろう。三國は映画界に入るまで何をしていいかわからず、各地を放浪しながら、また戦争拒否もした。そんな破天荒さが役者人生の大きな栄養になった。大学で演技を学び、真面目に努力することだけが俳優の道ではない。人間としてどれほどの深みを持っているか、作品にどれほどのめり込むことが出来るか。本当の役者と呼ばれる人の作品をたくさん見るとよい。
三國を追悼するプログラムが目下京都文化博物館のフィルム・シアターで組まれている。全部で9本が23日まで上映され、そのうち筆者が見たことのあるのは『飢餓海峡』のみだ。先日同館に立ち寄り、解説つきのプログラムをもらって来た。それによれば『にっぽん泥棒物語』が面白そうだ。20と23日の上映で、20日は自治会の会合があるので、23日しかない。『飢餓海峡』と同じ1965年の作で、三國の代表作のひとつのようだ。本作はそれより5年前で、『飢餓海峡』ほどの強烈さはないが、それは役柄上、仕方がない。ところが、その役柄上似ている点は若者から老け役まで演じることだ。本作では25から55歳までで、30年の開きがある。岩見は結婚して4人の子をもうける。長男は戦死し、同じく国鉄に入る次男を高倉健が演じる。高倉と三國は10歳ほどしか違わない。それが親子を演じて不自然でないほど、三國の老け顔は自然であった。前歯を抜いたためだ。そうそう、前歯を抜いたのは、共演相手の田中絹代と夫婦役を演じるためで、田中は三國より14歳上であった。田中は化粧で年齢より若く見せられるが、14の年齢差を埋めるには三國が老ける必要があった。俳優にとって残るのは作品のみだ。それに全精力を投入せずしてどうする。三國が歯を抜いたのは、田中の大女優ぶりに互角にわたり合うにはそれくらいのことは平気でなければならないと思ったからであろう。そういう潔さが映画界全体の気分を引き締める。中島貞夫が解説していた。本作の三國の老け顔は、晩年の彼の顔を同じであったということで、そう言われるとなるほどそうで、三國は自分の高齢を若くして知っていたか、あるいは本作の老け顔に近づくように年齢を重ねた。いずれにしても、そういうことは役者だけに許されることで、また本作の時点で三國はいつ死んでもよいと思っていたのだろう。80代まで生きてみて、『何だ、50年前の映画で演じた老け役と同じではないか』と感じ入ったかもしれない。そうだとすると、人生の醍醐味は若い時だけということになりそうだ。もっとも、三國は自分の長い人生の旅路をどう思っていたのかはわからない。
1960年当時の60代はこの映画をどう見たことだろう。筆者が感じるのと同じことを感じる一方、時代の差はある。1960年当時の60代は、これから日本がますます発展して行く薔薇色の世界を感じ取り、本作に対してハッピーエンドの温かみを覚えたであろう。昭和の後半期、そして平成も四半世紀を経験した筆者は、1960年の60代の思いを想像しながら、今の若者の思いにもなり、また自分の今後も考える。そういう時に本作が役立つか。それは考え方次第だが、1960年の60代とは違う、国の停滞ムードのようなものを感じないわけには行かない。東京ではまたオリンピックを開催し、自民党は60年代からの高度成長をふたたび起こすと意気込むが、無料化になるはずであった高速道路は修理費が莫大にかかり、永遠に無料にはならないことが確実になった。薔薇色どころか灰色だらけで、1960年にさっさと死んで行った人の方が幸福であったかもしれないとも思う。アメリカという大国相手に勝てるはずのない戦争を始め、結果ぼろ雑巾のような状態になったのに、今度は中国と大きく揉めそうで、しかも一部の人たちは戦争になっても勝てると思っている。話は脱線するが、先日野中広務が訪中した。帰国後に飛行場でインタヴュアーにつかまった。そのひとりが、日本の国益を損なう行為ではないですかと質問すると、ていねいな言葉で野中は自身の信念に基づいた行為であると語った。すると、隣りにいた若い男性が全く同じ質問をした。これには驚いた。記者のプロとは信じられない態度だ。だが、野中を立腹させるためにあえて同じ質問をぶつけたのかもしれない。そうだとすれば、狡猾だ。野中はそういう態度を最も嫌うだろう。野中が中国に行ったには、ただ戦争を起こしてはならず、隣人とは仲よくとの思いだ。それを今の自民党は野中は過去の人と無視しつつ、また国益を損ねる行為を謗るのであれば、日本は本当に憲法を変えて戦争を画策していると思われても仕方がない。話を戻すと、1960年は戦争から15年、戦争の悪夢はまだ完全には覚めておらず、国土を懸命に復興しようという思いが強かった。それが高度成長によってひとまず実現すると、何を勘違いしているのか、戦前に逆戻りしたような国優先の考えが政治家から提出される。そういう時代の遠近法を知っている現在生きている60代以上の人は、この『大いなる旅路』をとても時代遅れの作品と見るかと言えば、案外そうではなく、昭和前期に限らない、ごく平均的な家族の像というものに人生の普遍性を思う。それはどういうことかと言えば、国鉄讃歌の部分を取り除いても充分見ごたえがある内容であることだ。
本作を見始めてすぐに思い出したのは昨日取り上げた『みんな元気』だ。同作は『東京物語』のオマージュのリメイクだが、本作も『東京物語』に似たところがある。家族を描く作はみなそうなると言ってよいかもしれない。岩見夫婦には4人の子がある。長男は戦争の犠牲、次男は父の仕事を継ぐが、本作でも語られるように、当時の国鉄は親子代々で勤めることが普通であった。田舎ほどそうであったかもしれない。だが、岩見の父のことは描かれない。助手の仕事にあまり気が乗らない岩見は、ある日汽車の脱線事故に遭遇する。雪の中を機関車が突っ込む場面はとても模型とは思えず、かといって本物の汽車を脱線することどあまりに無茶だ。解説で知ったが、その脱線は本物の機関車で行なった。国鉄の全面的な支援があったというのは、特にそういう場面だ。三男は予科練に志願し、前線に行ってしまうが、戦争が終わって無事に帰国する。ところが予科練は想像したような場所ではなく、喧嘩をいとわない青年となり、ひとりで東京に出てしまう。バーで働くなどして体を壊し、ついには岩手の実家に戻って病死する。また4人のうちひとりだけ女で、彼女はやくざ物に恋をし、棄てられた後実家に戻るが、岩見は娘を受け入れず、すぐに家の外に放り出す。今の親で同じことをするのがどれほどあろうか。当時は岩見のような態度はごく普通であった。無一文で放り出された娘はすごすごと駅に向かう。岩見はそんな娘を思って妻にお金を持ってやらせる。音信不通の娘はある日懸命に働いているという手紙を寄越す。次の手紙は名古屋で男と暮らしているというものだ。娘に岩見は妻を伴って会いに行く。次男は東海道線に勤務していて、こだまの特急を運転している。それに乗る岩見夫婦。名古屋は港に近いところか。バラック小屋が娘の住まいだ。ともに暮らすのは材木を河から引き揚げる仕事をしている。貧しい生活ぶりを見て岩見は何とも言えない顔をするが、働き者のような旦那を見てやがて妻と安心する。当時の日本はまだまだそんなバラック小屋のような家があった。岩見も若い頃は若い女が経営する酒屋に浸り切りで、その女と結婚していたかもしれない。機関車の運転助手を本職と思えたのは、脱線事故に遭って運転手がプロとはどういうことかを身で示したからだ。人の命を預かる尊い仕事ということを初めてその時に知った。そんな岩見が4人の子をもうけ、ふたりが死に、ひとりは自分の後を立派に継ぎ、ひとり娘もどうにか優しくて逞しい男に出会えた。55で定年は今からすれば若過ぎるが、それまでにいくつもの悼みを経験し、また喜びもあった。線路の上を行くようなサラリーマン人生でも、時には脱線もあり、人身事故も経験する。それこそが旅路だ。それを線路に重ね合わせることが出来た岩見は幸運であったろう。当時は知らないが、国鉄に入るのはその後難しくなったと思う。岩見のようにクラスで下の方の成績であった級友は、電車の運転手になるのが夢であった。ところが、とてもそれがかなうほど世の中は甘くなくなっていた。昭和の後期、すなわち本作の後の国鉄の花は新幹線だ。それが今ではリニア新幹線が登場しようとしている。人の命を預かることに変わりはないが、リニア新幹線には運転手は乗らない。遠隔操作で動く。ロボットに命を預ける時代が来ている。それもそれなりの大いなる旅路の物語を生むだろう。
by uuuzen | 2013-06-16 18:43 | ●その他の映画など
●『みんな元気』 >> << ●嵐山駅前の変化、その274(...

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