拍子抜けしたと言えば、デイヴィッド・リンチ監督のファンから何もわかっていないと謗られる。何をどう書いていいのやら、4日前に見たこの映画の感想を今から述べるとして、まず最初に「拍子抜け」と書いたのは、映画の結末が良識的なもので、監督はいささか手を抜いたかと思ったからだ。
リンチの作品は以前『マルホランド・ドライブ』を見てこのブログに感想を書いた。ネットで買ったビデオで見たが、画質がDVDと変わらぬよさで、鮮やかでどぎつい色合いに驚嘆した。この『ブルーベルベット』もビデオで見たが、天地の開きがあるほどに画質が悪かった。レンタル落ちの格安を『マルホランド・ドライブ』などと一緒にまとめて買ったが、製作年代が古いので画質が劣り、また数百回ほどレンタルされたのでテープが劣化したのだろう。ともかく、画面は終始全体に微細な砂が混じったざらつき状態で、これが『マルホランド』並みによければ筆者の印象はもっと違ったと思う。先ほど調べると、ブルーレイやDVDの特別編集ものが発売されている。カットされた場面や俳優のインタヴューなどが含まれ、感想を書くにはそれを見るべきだが、二度見る気がしない。この点は『マルホランド』と大違いだが、それは作品の質が劣るのではなく、本作の方がわかりやすいからだ。『マルホランド』は何度見てもわからない部分があって、それが大きな魅力になっている。わかりにくい作品を名作とする風潮があるが、それは監督の技術がこなれていない場合と、すべてわかったうえであえてわかりにくくしている場合がある。リンチは後者だ。だが、いみじくも『マルホランド』で描かれたように、映画監督は一種の操り人形で、何から何まで自分がしたいようには出来ない。完成したフィルムを見た映画会社のお偉方が意見を述べ、それに沿って部分的に作り変える必要もある。2001年の『マルホランド』と本作とでは15年の開きがある。本作によって名声を大きくしたリンチであるから、『マルホランド』の方が意志をより貫くことが出来たであろう。そしてそれが成功している。本作は『マルホランド』とよく似た場所をたくさん用いていて、監督の好みがすでに完成していたことがわかる。それを言えば『イレイザーヘッド』からで、部屋、歌手が歌う舞台、倒錯したセックス、奇形や猟奇性といった要素は初期からリンチには欠かせないものであった。これらはすべて見世物という言葉で括られるように思うが、リンチは映画を現代の見世物小屋と考えているのではないだろうか。筆者が幼ない頃、神社の境内でそうした見世物小屋があった。背が届くところに直径数センチの穴が開いていて、そこから向こうを覗く。リンチの作品には覗き趣味があって、向こう側では、こちら側にはない異様な、それでいて向こう側に入って加わりたい欲求を喚起させる誘惑が漂っている。
本作を見たいと思ったのは、以前イングリッド・バーグマンの映画『ストロンボリ 神の土地』やロッセリーニ監督の作品を見てからだ。バーグマンはロッセリーニの作品に大感激し、アメリカでの固まっていた地位や家族を捨ててイタリアに行き、ロッセリーニと結ばれた。そして子を産んだが、そのひとりが本作のヒロインで、しかも彼女イザベラ・ロッセリーニはリンチを大いに尊敬している。そうした関連からたちまち本作はぜひ見ようと決めた。ところがいつの筆者の癖で、すぐに見られる状態になってから実際に見るまで何年もかかる場合が多い。CDでも同じであることは何度も書いた。ところが、先日ふとどういうわけか本作を見ようという気になった。家内が退屈していて、それならこれを見ればと差し出したのが本作で、家内は一気に見たものの、感想は「変なものを見せて」であった。それで翌日筆者は見た。確かに変なものだが、これはリンチの作品全部がそうであると言ってよい。リンチのファンでもないので、全作を見ていないし、また見る気もないが、先日『エレファント・マン』がリンチの作品であることを知って、なるほどと思った。この映画は昔家内と映画館の封切りで見たが、怖い物見たさで評判になっていて、スリラーものは苦手な筆者はあまり見る気もしなかったが、当時の評判ではスリラーではなく、ヒューマニズムを売りにしていて、ならば害はないかと思った。結果、印象はうすかった。奇形の頭を持った男が実は普通の人間と同じかそれ以上に賢く、芸術も理解するという話で、これは実話であったそうだが、何となく筆者は面白くなかった。肉体の奇形と精神のそれは関係がないか。そうとも言えるし、そうでないとも言える。これは難しい問題だ。であるからこそ映画や小説のテーマになる。リンチは最初画家を目指したから、芸術を理解する人を愛するだろう。だが、彼の映画に登場する人物はどれも芸術の世界とは無関係に見える。そんな人物を動かしながら、映画そのものを一種の芸術作品として完成させようというのは、『イレイザーヘッド』や『エレファント・マン』からも顕著だ。こういう立場にあるのは音楽で言えばザッパかもしれない。
ビザーな人物や行為を描きながら、つまりエログロでありながら、作品そのものは完成度がきわめて高い。そのため、良識派の人はその作品をどう評価していいのか戸惑う。「良識」と書いたが、リンチはそのことをどう思っているのだろう。本作を見ていささか拍子抜けしたのは、良識ある人が生き残って勝利するからだ。何となく『エレファント・マン』のヒューマニズムと似ている。それを言えば『マルホランド』にもそういうところがあった。だが、これは多くの人が見る娯楽映画であるから、良識の部分を描かないことには上映は無理だろう。その一方で私的に撮影されたもっと過激な映像が今までは仲間うちに鑑賞されて来たであろうし、そうした映像はネット社会では野放しになりつつある。つまり、エログロや倒錯の部分のみもっと過激なものを見たいのであれば、無料でいくらでも今はネットに氾濫していて、そうした映像と本作を照らすと、「拍子抜け」の意味はさらに誰にでもわかるはずだ。まさかそんなアマチュアが撮った映像が本作より凄いのかとなれば、見方によってはそうであるし、また全くそうではない。というのは、本作は用意周到に脚本が書かれ、撮影された一本の完結した映画であって、芸術と呼んでいいものであるからだ。ただし、扱っている内容のかなりの部分は、俳優の「演技」であって、趣味人が仲間に魅せるための本物そのものの記録ではない。となると、本作の味わいは、俳優がどううまく演技するか、その点に大きな比重があることになる。いつものように前知識なしで見たが、すぐにデニス・ホッパーの顔はわかり、そしてどういう役柄を演じるのか興味を持った。結果を言えば、彼フランクと彼の情婦ドロシーを演じるイザベラあっての本作だ。麻薬で頭がいかれたフランクが子持ちでクラブ歌手のドロシーを支配下に置き、ドロシーは彼から逃れたがっているにもかかわらず、マゾヒスティックなセックスに溺れている。そこに大学生の男子ジェフリーがドロシーの部屋に忍び込んでやがてドロシーと肉体関係を持ち、一方でジェフリーを高校生の女性サンディが恋をする三角関係がひとつの柱となる。たとえは悪いかもしれないが、ダスティン・ホフマンの『卒業』を思い出した。同作では、ホフマン演じる主人公が彼女の母親と肉体関係を持ちながら、やがて結婚式の真っ最中の彼女を強奪して一緒に教会から逃げる結末となっていたが、男が若い娘と肉体関係を持つ前に年配の女性に遊ばれる、遊んでもらうという点では本作は『卒業』を踏襲している。本作がより不健康であるのは、その年配の女性が暴力的な男に支配されていて、しかもその男とのセックスで覚えたのか、殴られたりする行為によって興奮するマゾヒストとなっていることで、ジェフリーはドロシーから「Hit me!」と何度もせがまれて困惑する場面がある。フランクの暴力的セックスから救い出してあげたいと思っているのに、ドロシーはそれを望みながらも、暴力を振るってほしい。そして、映画では詳しく描かれないが、ジェフリーはその求めに応じて彼女を虐げ、そのことでドロシーはジェフリーを信頼するようになる。
本作は冒頭からきわめて象徴的な場面がある。ボビー・ビントンが歌う「ブルー・ベルベット」という50年代のヒット曲が流れて来るが、やがてクラブでドロシーが繰り返し歌のはその曲で、しかも歌詞のとおり、青い別珍のドレスを着ている。最初に舞台の幕のようにその青い布が垂れている様子が映るが、その深い青は快晴の青空のそれではなく、夜の闇だ。「ブルー・ベルベット」は原曲は明るく、それは映画冒頭でジェフリーの父が芝生に水やりをする場面とよく似合っている。垣根には赤い薔薇が咲き、快晴の空だ。典型的なアメリカの幸福といった感じで、絵で言えばノーマン・ロックウェルを思い出せばよい。ロックウェルは絶大な人気を誇ったが、筆者には嘘っぽく見えて大画家とは全く思えない。現実はロックウェルが描くように、ただただアメリカ人はみな明るくていつも笑顔を絶やさないというのではなく、ドロドロした事柄に満ちてもいた。その点で50年代は特に欺瞞的な時代であったとも言えるかもしれない。そのことをリンチは本作で言いたかったのか。映画の舞台は、ランバートンという、材木で潤っている地方の小さな町だ。そういうところにも、いやそういうところであるからかもしれないが、ロックウェルが描くような人物とは正反対の人もいる。その代表がフランクで、またドロシーだ。映画はフランクがジェフリーによって撃ち殺され、ドロシーはわが子を無事に手元に引き寄せ、そしてジェフリーとサンディは将来結婚するであろうというめでたしめでたしで終わる。そのような結末にしなければ映画は上映出来なかったであろう。そうでなくても良識派の神経を逆撫でするような場面が溢れ過ぎている。筆者が見たビデオでははっきりわからなかったが、ドロシーは素っ裸で通りに出て来て、そこでサンディの目の前でジェフリーに抱かれる場面がある。裸で通りを歩くことは、今では素人の投稿動画でもある。本作のセックスの場面だけを採り上げれば、妄想をかき立てるような描き方をしていて、露骨なのは言葉だけだ。それがかえって卑猥とも言えるが、ポルノが著しく氾濫した今の日本では、本作の倒錯的なセックスはそれほどでもないと思う人がほとんどではないか。
本作の冒頭の話に戻る。庭に水撒きしていたジェフリーの父は急に倒れる。その直前にTV画面が映る。そこには銃を持った腕が大写しになっていた。そのため、倒れ込んだのは誰かに繁みから撃たれたのかと思うが、そうではない。場面が変わってジェフリーは家の付近を歩いていて、雑草の中から切り取られた片耳を見つける。それを警察に持参すると、刑事はふたつの事件が関係しているようだが、今はこれ以上何も言えないと話す。納得したジェフリーだが、刑事の娘がサンディで、彼女はその事件には歌手のドロシーが関係しているとジェフリーに話す。そこでジェフリーはドロシーのことをまず調べようとし、サンディの協力のもと、アパートに入り込むことに成功する。ところがドロシーに見つかり、計画は挫折しそうになるが、ドロシーはジェフリーと肉体関係を結び、次第にジェフリーはドロシー周辺の人物に巻き込まれて行く。さて、水やりをしていたジェフリーの父が倒れ込んだ直後、カメラは芝生を這うように捉えながら、やがてその下に潜る。そこは暗く、そして真っ黒な虫がたくさんうごめいている。これは50年代のアメリカ文化がとても陽気で明るいことに対して、一歩中に入ると、暗黒世界が広がっているとの読み解きで、また映画がこれからどのように進んで行くかも暗示している。この明暗の対比は映画や絵画の原理だ。光と影と言ってもよい。明るさが正義で、暗さが悪とは言い切れないが、本作は表向きそのように描いている。倒錯した性行為をまだ知らないサンディは、やがてジェフリーと結婚するだろうが、それは本作ではひとまず明るい正義と位置づけられている。であるからこそ、悪の代表のようなフランクはジェフリーによって射殺された。だが、リンチが言いたいのは、そんな簡単なことではないはずで、光と影は一対のもので、どちらも片方だけでは成立しない。そして光が正義で影が悪とも言い切れない。つまり、倒錯したセックスが他者から謗られるものとは断言出来ない。ドロシーがそうだ。彼女はフランクから逃れたいのか、それとも常に性行為において満足を与えてくれてありがたいのか、そこが明白ではない。そういうドロシーと肉体関係を持ったジェフリーは、やがてサンディに同じようなSMセックスを強要し、サンディはそのことで喜びを見出すかもしれない。そこまでは本作は描かないが、そういう含みがあることは明らかで、人殺しをしたフランクが、結局ジェフリーによって殺されるという因果応報を描きつつ、ひょっとすればジェフリーが将来フランクのようにならないとも限らないという不気味な後味を残す。またそのように読み解かねば、冒頭に書いたように拍子抜けだ。
正直に言えば、筆者はSMセックスの醍醐味などというものはよくわからない。従姉はよく「女性は受け身やから」と言うが、それはセックスに対してのことだ。男性器を体内に入れるということでそう言っているのだが、女が能動的に男に迫ることはいくらでもあるから、「女性が受け身」とはきわめて限定的に使うべきだ。その限定した女性の「受け身」は、雌雄がある動物はすべてそうだ。その「受け身」を純粋に突き詰めると、たとえば男が女を縛り上げて身動き出来ないような状態で犯す、またそういうセックスを女が本能のどこかで歓迎するということもあるのではないか。以前何かで読んだが、ある若い女性は全身をロープでぐるぐる巻きにして犯されることが最も気持ちよいと書いていた。男性にもそんな「受け身」的な人があるから、女ばかりが受け身とは言えないが、概してそうであるのは想像がつく。また、「受け身」であるから「憐れ」というのは見当外れだ。女はそのように男に縛らせながら、気持ちよくなり、また受精もするから、性行為において何が倒錯的でそうではないかは決めにくい。つまり、抱き合う男女ともによければ、傍がとやかく言うべきことではないし、実際そのように世の中は動いている。この映画でフランクが異様に見えるのは、麻薬中毒であり、また人の耳を平気で切り落とすほどの暴力を振るうからだ。セックスにおける暴力も、相手の肉体に致命的なダメージを与えないという前提があってのことだ。ドロシーが「ヒット・ミー!」と何度も叫ぶのは、殴ってほしいからとしても、半殺しにされるまでではないだろう。だが、セックスはそういう境地まで至る場合があり、そのことを他の監督が映画にしている。たとえばパゾリーニの『ソドムの市』では、目玉をえぐり取られながら犯される女性を見て射精する男が登場する。本作はそこまでは描かないが、大きな権力を持つ者は、得てして言いなりになる女性を支配下に置く。そこには、遺伝子的に本能に刻まれた「受け身」を受容する女性というものがあってこそで、女性は弱者のように思われるが、前述したように、本当はそうではない。本作でも描かれたように、フランクはドロシーに向かって「Spread your legs!」と怒鳴り、自分の顔を見させずに彼女の股の間を覗く。そして言う言葉が、「Mammy」だ。その間のフランクはドロシーの性器に母親をイメージし、しかも幼児に返ったような甘えぶりだ。それも倒錯だが、「受け身」であるはずのドロシーは完全にフランクを支配している。先日から「青い光」やマゾのことなどを話題にして来たのは、本作が頭にあったからだ。