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●「BE MY BABY」
三人組のザ・ロネッツのヒット曲がどれほどあるのか知らないが、今日取り上げる「あたしのベビー」は日本でも大ヒットした。日本のドーナツ盤のジャケット裏下に1963年のコピーライトのマークがある。この曲の晴れやかさは当時11,2歳であった筆者のPRE青春時代にとてもよく合っていた。



同じ頃、「ロコ・モーション」という、同じく女性ヴォーカルの曲も大ヒットしたが、それも似た雰囲気がある。今調べると、「ロコ・モーション」は1962年だ。ビートルズがEMIで録音を開始する頃にこうした明るくて楽しい曲がアメリカで売れていたことを知っておくとよい。イギリスではこれら2曲はまず書かれなかったのではないか。国土の違い、音楽の歴史の違いは大きい。一方、こうしたアメリカのポップスを早速輸入して日本語で歌わせた当時の日本の独創性が、たとえば他のどういう曲に発揮されたかを考えるのも面白いが、あまりに多岐にわたる問題提起であり、しかも流行歌は毎年どんどん生まれ続けるから、なかか60年代前半の日本とアメリカの流行歌の比較といったことは一筋縄では行かない。それは先行するジャズや四七抜きの演歌、さらにはラテンのダンス曲など、ロカビリーやロックンロール以外の音楽も混じってもてはやされていたからで、日本はアメリカ以上に何でもありの混沌坩堝状態であったと言えるかもしれない。それはさておき、10歳を越えたばかりの筆者は、ラジオから流れて来る音楽では、半ば無意識、半ば意識的にアメリカのロカビリーやロックンロールに最も魅せられた。当然歌謡曲のように歌詞はわからないが、メロディの独特さ、華麗なサウンドは聴けばわかる。そんな曲の代表はプレスリーの「監獄ロック」だ。1957年の発表というから筆者6歳だが、当時は大ヒット曲は数年にわたって頻繁にラジオから流れた。6歳の頃に初めて聴いたとは思うが、耳の奥にこびりついたのはもっと後だろう。日本盤がいつ発売されたかを調べる必要があるが、10歳前後ではないかと思う。「ビー・マイ・ベイビー」や「ロコ・モーション」よりかなり前という記憶はある。不思議なもので、大ヒット曲は世の中の空気を代表する。「監獄ロック」の暗さのようなものは、「ビー・マイ・ベイビー」にはない。5,6年で世界は大きく変わる。それを大ヒット曲が如実に物語る。「監獄ロック」はその題名からして当時の日本ではひんしゅくものだ。ビートルズが日本で紹介された頃から来日公演の66年に至るまで一貫して不良として見なされ、子どもは避けるべしとされたことの前例がプレスリーにあった。この見方はある意味ではごくまともなもので、ハンブルグ時代のビートルズの格好を見れば、まさに「監獄ロック」を演奏するにふさわしい不良ぶりだ。酒とセックスの巣窟のようなクラブで毎晩演奏するのであるからそれも当然で、ロックンロールは毎日退屈な会社勤めのうさを晴らしてくれるような、社会的な潤滑剤の役目を果たした。それは今も変わらないだろう。芸能全般がそういうものだ。芸術と高尚ぶっても根は同じことで、明日どうなってもかまわないと腹をくくったような連中が、今この瞬間を永遠とばかりに謳歌する。そういた連中ばかりでは世の中は成り立たないし、また皆無でも駄目で、一方で芸能に携わる者がわずかにいて、もう一方に大多数のいわゆる「まともで真面目」な人たちがいる。ロックンロールの世界で天才と呼ばれるのは、破滅的な度合いが尋常ではないのに、輝くような作品を少しばかり残した者だ。
●「BE MY BABY」_d0053294_014056.jpg

 さて、「あたしのベビー」こと「ビー・マイ・ベイビー」だ。「BABY」を「ベイビー」と書くようになったのはここ2、30年ほどのことではないだろうか。昔すなわち60年代は「ベビー」と言っていた。筆者はすでにそれがおかしいことを知っていた。「イ」をなぜ発音しないのか。何でも短縮する日本のことであるから仕方がなかったのか。だがそれではいつまで経っても日本は英語が話せない代表国になる。それがようやくと言うか、「ベイビー」と綴ることの方が圧倒的に多くなった。また、外国の曲を日本で紹介する時、「あたしのベビー」のように直訳ではなく、独自の題をつけることがやはり圧倒的に多くなった。それはともかく、「ベビー」を訳さなかったのが面白い。「あたしのベビーになって」と訳す方が原題の意味が正確に伝わる。「あたしのベビー」では「あたしの赤ちゃん」と勘違いし、若い母親が乳飲み子をかわいがっている歌と思われるかもしれない。それで「BABY」をこの曲の意味するところにしたがって訳すと、「あたしの彼氏になって」がよい。これでは長いから「彼氏になって」か。だがこれではあまりに露骨と日本ではなおさらPTAがラジオ局に放送するなと抗議したかもしれない。で、結局「あたしのベビー」が一番よいことがわかる。昔の洋楽の邦題はなかなか考えられたものが多く、そういう伝統を残せばよかったのに、いつの間にか原題の片仮名表記になった。これはあたりさわりのないことを思うからで、悪く言えば無責任だ。自分に自信がないからとも言える。ネット社会になると誰でも意見出来るからなおさらこうした公になる事柄に関しては無難な方法を選ぶ。いささか脱線ついでに書いておくと、この曲の日本のシングル盤ジャケットは青一色刷りで金をかけずによく出来ている。アメリカからロネッツのカラー写真が届かなかったのか、届けられてもカラー印刷する経費がなかった。そこで1色か2色で印刷することが当時普通に行なわれた。日本の切手でも同じで、50年代は末期の一時期を除いて1色刷りであった。1色刷りであると、かえって強い印象をもたらすことが出来る。白地をどこにどの程度残すかで印象がまた違うし、文字のレタリングをどうするかでまた大きく違う。「あたしのベビー」の文字は、B面の曲名とは違って手書きだ。いかにも60年代前半の味わいが宿る。それは見事に「あたしのベビー」に合っている。こういう一連のグラフィック・デザインを、パソコンがない当時、印刷について熟知しながら、しかも切羽詰った納期を守って突貫でこなしたはずで、その職人性がよく出ている。今同じものをパソコンを使えば簡単に出来るとしても、それは模写に過ぎない。今は今を表現する新たな流行的グラフィック・デザインがある。
 この曲を書いたのはフィル・スペクターだ。筆者より若い世代は彼のことをビートルズの『レット・イット・ビー』やジョンの『ジョンの魂』、ジョージの『オール・シングス・マスト・パス』のプロデューサーとして初めて名前を聞いたのではないだろうか。ま、筆者もその部類だが、「ビー・マイ・ベイビー」や「トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラヴ・ヒム(会ったとたんに一目ぼれ)」のヒットを書いた人物として、フィルの名前はすでに知っていた。隣家にしまい込んで探せないが、フィルについて書いた本を10数年前かに読んで、そこにビートルズをプロデュースする以前の66年にアイク・アンド・ティナ・ターナーの「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」を録音するのに大きな労力と経費を使い、フィルは同曲を代表作のように気に入っていることが書かれていた。ところが同曲は日本ではヒットしなかったので、筆者は聴いた記憶がない。この黒人夫婦の代表作は「プラウド・メアリー」など、ほかにあると言ってよく、日本で知られるのはもう2,3年後ではなかったか。それはともかく、ロネッツは黒人でアイクとティナもそうで、フィルは黒人の声量が好きであったのかもしれない。それは言い代えればロックンロールの源であり、人種偏見がなく、むしろ敬意を抱いていたのであろう。フィルの最初の妻は「あたしのベビー」を歌ったロニーで、当時18歳、フィルは40年生まれであるから23であった。ロネッツの3人はふたりが姉妹でロニーは姉だ。もうひとりはロニーより1歳上で従姉だ。ネット時代になって彼女たちの当時TVに出演した歌う映像をYOUTUBEで見ることが出来る。これは当時の日本ではかなえられなかったことであり、ネットのありがたさを痛感する。彼女たちの髪は「ブーファン」と呼ばれる逆毛を思い切り盛ったもので、これは不良少女の代名詞的髪型であった。このスタイルは比較的小柄な女性が背を高く見せるためによく似合う。大柄の女性がこれをやると目立ち過ぎて圧倒される。ロネッツの3人はみな小柄で、それが「あたしのベビー」の「BABY」には似合っている。
●「BE MY BABY」_d0053294_014561.jpg

 この曲をラジオから聴いて印象深かったのは、曲の覚えやすさのほかに、広いホールの中で録音したような重厚な響きだ。ドラムがドスンドスンと響き、オーケストラも入っており、「監獄ロック」の少人数のバンド演奏とは桁違いにスケールが大きい。こうした響きは通常はクラシック音楽の管弦楽曲にしかない。流行歌はほとんどは数週間で消えて行く運命にあるから、あまりお金をかけずに、簡単に録音した方が損をせずに済む。ところがフィルは凝り性というか、天才肌で、納得の行くサウンドを追求した。その頂点が「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」にあるが、原点は「あたしのベビーだ」。これがテディー・ベアーズという男ふたり女ひとりのバンドで録音した「会ったとたんに一目ぼれ」ではまだ素朴なフォーク・ソング・スタイルであった。重厚なサウンドを求めるようになった理由は何だろう。音を重ねて厚みをこれでもかと増す好みはザッパにも見られる。そこで思うのは、ロックンロール以外の音楽からの影響だ。フィルはロシア系で、そのことを本人はどこまで意識したかどうか知らないが、ロシアはクラシック音楽では大作曲家を何人も輩出した。そんな作曲家のレコードを20歳前に聴いて感動したことも考えられる。これはフィルが語ったのかどうか知らないが、フィルの咆えるような大音量のサウンドは、ワグネリアンのロックンロールと形容される。ワグナーの楽劇的な分厚い楽器の響きということで、そこから当初素朴な録音であった『レット・イット・ビー』の「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」がオーケストレーションの厚化粧を施された意味がわかる。「あたしのベビー」はフィル自身のマイナー・レーベルからの発売で、この大ヒットや他の曲のおかげで、20代にして億万長者になったから、録音に凝ることはさらに拍車がかかったであろう。「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」もウォール・オブ・サウンドの仕上がりで、それはジョージの『オール・シングス・マスト・パス』でも全開になる。ビートルズのメンバーではフィルと最も濃い関係を持ったのはジョンだろう。ポールは「ザ・ロング・アンド…」のこともあってフィルをよく思っていなかったのではないか。だが、その才能は認めていて、アルバム『ラム』は全体的にフィルっぽい音の仕上がりになっている。
 ジョン・レノンがフィルの作曲能力を高く買っていたことを示すのが、ハンブルグ時代に演奏した「会ったとたんに一目ぼれ」だ。これは「あたしのベビー」と同じく、原曲は女性が歌うので、「彼」とあるところはみな「彼女」と言い換えられているが、ジョンはよほどこの曲が好きであったらしく、『サム・タイム・イン・ニューヨーク』のアルバム・ジャケットではフィルの顔写真とともにこの曲名をそのそばに記している。メロディの感動的な盛り上げ方としては、「あたしのベビー」より「会ったとたんに一目ぼれ』が数段上であろう。特にサビは前半のBマイナーから逸脱した数音が後半に現われ、劇的な効果を上げている。それはジョンに作曲のヒントを多大に与えた気がする。たとえば『ジョンの魂』に収められる「ラヴ」で、そこにはブルースの3コードの学習だけでは絶対に獲得出来ない複雑なメロディの動きがある。「会ったとたん…」はペンタトニックが支配的で、民謡の味わいがあるが、それはフィルの出自に関係するのではないか。あるいは作曲を学んだ時の決定的な出会いがあったかだ。そうしたことも含めて、「会ったとたん…」はフィルの天才ぶりを示すもので、そこにジョンが密かに同調し、やがて出会いがあった。ビートルズは「会ったとたん…」をEMI時代になって録音しなかったが、73年秋から録音を始めた『ロックンロール』のアルバムでは収録する予定であった。それはフィルをプロデューサーに迎えてのことで、当時ジョンの私生活の乱れやまたフィルのやっかいな生活ぶりから録音は中断し、アルバムが世に出たのは2年後、しかもフィルの曲は収められなかった。86年になって『メンローヴ・アヴェニュー』というアルバムが発売され、そこでようやく「会ったとたん…」が陽の目を見た。海賊盤では知られていたものの、正式にはそれが初めてで、当時筆者はそのLPをE君から借りて聴き入った。ジョンはもう1曲「ビー・マイ・ベイビー」も録音しており、これが正式に発売されたのは98年のジョンのボックス・セットであった。『ロックンロール』にこの2曲が入っていたならば、筆者はもっと同アルバムを買ったのに、現在までそういう形のCDは発売されていない。これはヨーコの考えがあってのことだろうか。
●「BE MY BABY」_d0053294_0143756.jpg

 さて、ジョンの歌う「ビー・マイ・ベイビー」はロネッツの歌からおよそ10年経つが、両者の隔たりと共通性が面白い。10年など歴史的長さから見れば隔たりに相当しない。だが、前述のように、わずか数年でも世界の空気が違い、そのことをちょっとしたヒット曲でも知らせてくれる。したがって、63年と73年とでは大違いということになる。その見方からすれば、63年のオリジナル曲をわざわざ70年代になって回顧的に演奏するのはいかがなものかという意見がある。筆者も当時は『ロックンロール』を聴いて、時代錯誤を感じてあまり好きになれなかった。同じロックンロールならば、『ライヴ・イン・トロント』の方を何倍か高く買う。だが、いくつか強烈な感動を湧き起こさせる曲があり、ジョンの歌手としての天才ぶりを示す代表作とも言えるのは確かで、なぜジョンがこうしたアルバムを作ったかを常に聴き手に突きつけて来る。ジョンは無名のハンブルグ時代を忘れてはいなかったのだ。ところがその頃の熱気とは違うものを獲得し、ここではそれこそ魂と呼ぶしかない裸のジョンの叫びがある。内面をすっかり吐露するにはロックンロールしかなかったのだ。YOUTUBEで聴くことが出来るが、ジョンの「ビー・マイ・ベイビー」には別ヴァージョンがある。イントロにジョンの酩酊したような呼びかけがしばらく続く。その部分は饒舌とばかりにボックス・セットの1枚に収録される時にはカットされたが、実はそのイントロにこそジョンのこの時期の心の状態があり、しかもこの曲の歌詞がいわんとするところに見事に合っている。ロネッツのヴァージョンは、若い娘が出会ったばかりの男に恋焦がれる様子を歌うにふさわしい、これを30半ばのジョンが歌えば、当時はヨーコとの関係悪化もあって、もっと切実なものに響く。大の男がひとりの女のことを思って、嘆息しながら、また絶叫しながらこの曲を歌う。ロネッツのかわいさとは全く違うその一種の格好悪さが反対にとてつもなく格好よい。ジョンの神髄が何かを知るためには、この曲の別ヴァージョンのイントロを聴くだけで充分だ。そして、それはロックンロールの神髄でもある。男が女に恋する、女が男に恋する。そんなことはどうでもいいと思っている人にはロックンロールは必要ない。いろんなものを捨てて行って最後に残るものが何か。それが恋する相手の微笑みと信じることの出来る者には、もうひとつの曲「トゥ・ノウ・ハー・イズ・ラヴ・トゥ・ハー」とともに、ジョンの歌いっぷりに胸が締めつけられるだろう。10年後にジョンに自作曲を歌わせたフィルはどんな思いであったか。フィルの重厚で広々とした音響は健在で、録音技術が進歩した部分、よりフィルらしく華麗になっているとも言える。フィルは古い自作曲の焼き直しとは思わなかったのではないか。それほどにジョンの歌い方は今後も誰も真似の出来ない圧倒的真実ぶりを示しているし、フィルのサウンドも60年代前半特有のものと言うことが出来ないほどに永遠性がある。フィルはその後、妻を銃殺した罪で逮捕され、また近年はジョージについてのインタヴュー映像に老いた姿を見せていたが、仕事をしなくなった。ということは、二度とこの曲はこれほどには蘇らない。
by uuuzen | 2013-05-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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