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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●天橋立を見に行く、その4
碑があることを自宅で散策マップをゆっくり見て知った。筆者は前知識なしに出かけたり、また読書したり、映画を見たりする。予め知っている方がよい場合もあるが、何も知らない方が驚きが大きい。



●天橋立を見に行く、その4_d0053294_1194415.jpg

それにたくさん遭遇するには前もって調べない方がよい。蕪村が「与謝蕪村」と名乗るところから、与謝の地に何となく遠い憧れのような思いを抱いている。また、蕪村は大阪生まれで、京都市内に住んだから、同じ大阪生まれの京都暮らしの筆者はまだ知らぬ土地の与謝に興味がある。与謝は昔は与謝郡であったが、今はどうかと調べと、与謝野町となっている。蕪村は40歳頃に与謝の地に旅し、3,4年暮らして洛中に戻る。見性寺に逗留し、有名な絵も描いている。見性寺がどこにあるかも今調べると、JR宮津駅から1キロほど西だ。そこから天橋立までの距離は直線で2キロで、毎日通うことも出来た。蕪村が天橋立を見たことは絶対と思っていたが、どんな句を詠んだのか知らない。それでまたネットで調べると、「はしたてや松は月日のこぼれ種」で、蕪村の書を模刻した石碑がある。その場所を散策マップで調べると、筆者らがもう5分ほど歩けば見られたようだ。明日踵を返した地点から撮った松林の写真を載せるが、同じような松林がそのままずっと先まで続いているようで、その変化のなさに早々に引き上げる気になった。話を戻して、与謝野町と宮津市は隣り合っていてその境は複雑で、天橋立はぎりぎり宮津市内にある。江戸時代では宮津市も与謝と呼ばれる地域に含まれていたのではないだろうか。ともかく、阿蘇海や宮津湾を臨むこの地方を蕪村は3,4年の間に堪能したはずで、芭蕉と同じく旅好きながら、俳句のみならず、絵画にも天才を発揮したその理由のひとつに、この地方での生活が圧倒的な何かをもたらしたと考えてよく、そのことが「与謝蕪村」の名に表われている。蕪村は謎が多く、「与謝」を名乗った理由もわかっていない。また20歳頃までの生活が不明で、本人は語りたがらなかったという。小林古径も10代半ばだったろうか、何をしていたのか本人が固く口を閉ざしている時期がある。誰でもあまり言いたがらない過去はあるし、そういうものを抱えている方が芸術家の場合は作品に深みが出るのではないか。
●天橋立を見に行く、その4_d0053294_1201320.jpg

 「その3」に載せた狛犬の写真と今日の2枚目の絵馬の写真は、3月27日に江名の諏訪神社で撮った狛犬と絵馬と対比させる意味で興味を持った。狛犬の台座には「大阪丹後人会」の文字が刻まれ、丹後と大阪の深い関係がありそうだ。京都市内ではかつて友禅染の生地が大量に必要で、それらはもっぱら丹後で織られた。そのため、もの台座が「京都丹後人会」であれば納得出来る気もするが、丹後は京都府内であるから、わざわざ「京都丹後人会」もないだろう。そこで商いの本場に丹後出身の人たちが行って成功したと考えられる。大阪は繊維問屋街が今もあり、丹後縮緬を扱う店も多かったはずだ。それらは京都で消費されるのではなく、東京を初め日本中に運ばれたのだろう。ともかく、大いに儲けた人たちの集まりがこの狛犬を寄進したはずで、それがいつかを知るために台座の裏に回って確認すると、人名が列挙してあるのみであった。それはさておき、智恩寺について書いておかねばならない。筆者はこの寺に数年前に関心を抱いていた。先日書いたように、京都文化博物館で『日本三景展』が開催され、その展示品を見てからだ。その時、まさかこの寺に行くとは想像しなかった。天橋立の際にあることを知らなかったからだ。展示品で面白かったのは、鰐口と釈迦三尊像だ。前者は朝鮮からもたらされたもので、その年号が刻まれている。後者は高麗仏画様式で、高麗で描かれたものではなく、おそらく日本で模写されたものだ。筆者が面白いと思ったのは、裏日本でそうした朝鮮半島と密接なつながりのある仏教関係の品物が保存されることで、それほど朝鮮半島から近いことがわかる。朝鮮半島から漂流すれば、なかには舞鶴あたりに着く舟があったはずで、古代は意識的に往来したであろう。「往来」ではなく、一方的に向こうからやって来るばかりであったかもしれない。先ごろ対馬の寺に韓国の僧侶が訪れ、土産に持参した土人形を対馬の僧が見て顔を赤くして怒っていた。「人を馬鹿にするのもほどがある」との思いからだ。対馬のその寺にある仏像が盗まれ、いつの間にか仏像に刻まれる韓国の寺に戻っていた。韓国は合法的に持ち出されたものであることが証明されない限り返還しないと主張し、対馬は朝鮮にあっては粗末にされていたもので、わざわざ日本が大切にするために持ち帰ったものであると一歩も譲らない。同じ仏教の僧侶であるのに、国同士の仲が悪いと、そのことが個人レベルにも表われてしまう。対馬の寺の僧が韓国のやり方が気に食わないのであれば、「韓国のものなど頼まれても置いてやらない」と考えてさっさと諦め、日本の仏師に新たに彫らせればいいと思うが、そこまでするとなおさら「同じ仏教の僧侶なのに」と傍からは見られてしまうか。それはともかく、筆者がそのニュースで連想したのは、都知事が先ごろ発言した「イスラムは喧嘩ばかりしている」だ。それを言うのであれば、仏教もではないか。日本という狭い国の中で見ても仏教がどれほど政治力を持ち、またお互いの宗派を牽制し合って来たことか。
●天橋立を見に行く、その4_d0053294_1201667.jpg

 智恩寺には寺宝館がない。また文殊堂に本尊は開帳しておらず、鑑賞するものと言えば主にその境内だ。多宝塔が最も古いらしい。松の陰になるその姿を「その3」の最後に載せた。もっとも、筆者の眼差しは手前の松の枝に結ばれた扇型のおみくじだ。これは初めて見た。普通の紙製のものもあったし、ほかの形をしたものもあったと記憶する。石畳に扇型がひとつ落ちていたが、他人が買ったおみくじは拾う気になれない。これがおみくじでなければ「小さな扇が落ちている」とばかりに記念に持ち帰るのだが。多宝塔から遠ざかるように境内の東に向かうとすぐに海が見える。そこが天橋立観光船乗り場になっていることは先日書いた。今日載せる写真からは、乗り場の際に智恵の輪灯篭が立っていることがわかる。灯篭であるから目立たねばならず、また大きな穴を持つのでなおのこと目立つ。ここでまた散策マップを見ると、智恵の輪灯篭のイラストのすぐ隣りに「与謝野寛・晶子ご夫妻歌碑」の文字が見える。与謝野寛は本名で、先祖は与謝郡の出であり、また晶子は堺の出であるから、先の「大阪丹後人会」は実感が湧く。ふたりの歌碑の場所は蕪村の句碑より少し南で、筆者らはその前を通り過ぎたはずだ。とはいえ、天橋立の松林は、中央に道があって東西に分離している。東は砂浜が広がり、また広い宮津湾に面するので、どうしても足はそっちに向く。ところが蕪村の句碑と与謝野寛・晶子の歌碑も西側にある。そこは日陰の印象が強く、筆者らは一歩も踏み入れなかった。したがって、蕪村の句碑がある辺りまで歩んでも、目にしなかった可能性が大だ。さて、天橋立の松林はこれまで何度もTVで見ていたが、どのようにしてそこに至るのかイメージ出来なかった。それが智恩寺を抜ければ自然とそこに至るように出来ていたので驚いた。「いつの間にか」と言うにふさわしい。門前の石畳の道から山門をすぐ目の前にして右手に折れる狭い道が一本だけある。両側は旅館や料亭だ。それを抜けるとすぐに橋がある。長さ50メートルほどか。それをわたれば天橋立が始まる。明日書くが、帰りに知ったことがある。その橋は船の運航のたびに時計回りに旋回する。もちろん江戸時代はなかった。蕪村はどのようにして向こうにわたったのか。渡し舟が運行していたのだろう。この廻旋橋から阿蘇海を見た写真を今日は最後に掲げる。
●天橋立を見に行く、その4_d0053294_1204066.jpg

by uuuzen | 2013-05-23 23:59 | ●新・嵐山だより
●嵐山駅前の変化、その267(... >> << ●天橋立を見に行く、その5

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