史実にどれほど忠実なのか、この韓国ドラマの原作は日本の歴史上の人物を主人公にした小説と同じように、読んで面白いように架空の人物をたくさん登場させているだろう。韓国ドラマに欠かせない男女の恋愛がまずそれで、男ふたり、女ふたりという計4人はここでも用意されている。
だが、ほかのドラマにありがちの四角関係にはあまりならず、主人公が片方の女性と結婚しながらも、それ以前に相思相愛であった女性のことが忘れられず、相手の女性も結婚せずに身を引きながら、同じ商売の世界でまた活躍するという結末だ。見どころはそうした恋愛にあるのではなく、かなり教訓的ではあるが、正しい考えの師に就いてその教えを守って生きて行けば必ず最期は報われ、またその反対に悪は滅びるという筋立てにある。これは本作のように時代劇ではなくても、どの韓国ドラマでも同じだ。あるいは、本作は時代劇ではあるが、製作された2001年当時の人々の思いを反映したものであるから、現代劇とみなしてよい。つまり、現在の韓国における商いの道なるものの理想像が提示されている。当時の韓国経済をよく知る者が見ればなおのことこのドラマの意図がよくわかるに違いないが、12年を経て日本で見ることによって日韓の差は共通点が浮かび上がるはずで、毎回とても興味深く見た。筆者が見たのは全46話で、4話分が短縮されている。カットされたと思しき場面は見ていてわかる。ゆったりとしたノー・カットで見るに越したことはないが、筋を追うだけでよいのであれば倍速で鑑賞しても充分で、最近筆者は録画したものをそのようにして見ることもある。さて、このドラマは家内も気に入り、歴代視聴率の上位20位以内に入っていると確信したが、そうではなかった。それどころか、韓国で放送された時、同じ時間帯に放送されていた別のドラマに完敗した。その理由は、原作の小説がすでに世に出ていて、どういう内容かわかっていたこと、また見慣れた俳優を揃えて新鮮味があまりなかったためだ。原作は日本ではほとんど問題にならないのではないか。韓国の小説が日本語に訳されて爆発的な人気を博すことは今後もまず考えられないからだ。たぶん韓国の小説がノーベル賞をもらっても日本の読者の大半は韓国を見下げているので、相手にしない。それほどに日本が韓国文学に関心がないのは、学者が研究しても食えないからだ。学者も人気商売で、自分の名がよく売れ、収入がより多い道に進む。
このドラマは実在の人物を主人公にし、時代背景は18世紀末頃から19世紀半ばまでだ。李氏朝鮮は14世紀末から20世紀初めまで続いたが、日本ではあまりの情報の少なさもあって、その数百年の間に人々の暮らしや風俗がどのように変わったのかわからない。これは韓国人もある程度そうなのではないだろうか。韓国が自国の歴史の古さを誇りたいためか、李氏朝鮮以前の朝鮮半島の歴史を描いた韓国ドラマの方が圧倒的に多いように感じる。それは、朝鮮王朝時代は最期は日本によって王が廃されることもあって、あまりよい時代ではなかったと思っているためもあるのだろうか。このあたりの微妙な心理は韓国人でなければわからない。現在の韓国社会に最も影響を与えているのは朝鮮王朝時代であるのは確実で、であるからこそ今日取り上げるドラマも製作された。しかし影響を被っているとはいえ、いい面ばかりではなく、反省も多々ある。それは朝鮮時代が日本に統治される結果になったことで、そのような屈辱的な歴史を歩んだことは、朝鮮王朝の仕組みに問題があったという考えを抱く学者や人々は多いと想像する。その反省の意味から朝鮮時代を舞台にしたドラマでは必ず為政者を手放しで誉めず、日本の時代劇の悪代官と同じように、悪役人を登場させる。それは戦後の日本が昔の封建時代を反省する意味合いがあるのかもといった意味合いとは全く違って、数百年の間、眠ったような治世であったため、他国に植民地化されてしまったという無念さゆえだ。そのため、民主主義への期待度は韓国の方が日本の数倍高いように想像する。韓国から見れば天皇は国王で、韓国にもかつてあったそれが今はないのは、朝鮮時代が次第に弱体化し、日本に侵略された結果であって、そのことは悲しいことではあるが、王を廃して民衆が主人公の国を築き上げたのであるから、かえってよかったと考える向きもあるだろう。一方、王家の復活を望む声がなきにしもあらずで、そのこともまた韓国ドラマからわかることが面白い。話を戻して、数百年の長い歴史を持つ朝鮮王朝時代、初期と晩期では人々の衣装や風習もそうとうな開きがあると予想するが、そうでもないことは韓国ドラマからわかる。たとえば本作だ。主人公の幼い頃から始まって、最終回では老人の役を演じるが、18世紀も19世紀も変わらない。15世紀の朝鮮王朝を描いたドラマがあったと思うが、その頃でも人々の服装は同じで、朝鮮王朝時代は大きな変化がなかったのではないか。それは社会が安定し、変革の必要がなかったと肯定的に捉えることも出来るが、外国文化を入れずに頑迷に凝り固まっていたと言うことも出来る。江戸時代も同じように長く、また人々の暮らしはどの時期を取っても大差はなかったと言えるところがあるので、朝鮮王朝のみ、停滞を続けたとは言いにくい。それでも日本のように維新を迎えることがなかったのは、悪い意味での儒教精神があまりに民衆に深く浸透し、上に対する抵抗を奪ったからではないかと穿った見方をしてしまう。
朝鮮王朝時代、最高の出世は役人になることであったろう。そのことが端的にわかるのが本作だ。主人公イム・サンオクは清の言葉を幼くして学び、訳官(通訳)になることを夢見る。父親は何度も科挙を受けるが、役人への袖の下が横行していて、貧しい家柄では成績がよくても試験に合格しない。そういう現実を知りながらも、息子を役人にしたいのが学者の家系ということなのだが、それは訳官になれば商人になるより儲かるうえ、尊敬も得られるからだ。商人になるより儲かるのは、つまりは政治を司る者は税金を自由に出来たり、また賄賂を当然のごとく受け取るからだ。金儲けの手段としては商人になるのが手っ取り早いようでも、その商売を規制したり、ある特定の商人に便宜を図るのは役人であるから、商人は役人に手も足も出ない。またそれをいいことに役人は威張る。これは日本の江戸時代でも同じであった。ところが大坂の商人は莫大な資金を動かし、地方の藩の財政を立て直す采配をふるうほどになり、武士にとっては目の上のたんこぶのような存在になる。同じことが朝鮮時代にもあったことは本作からわかる。また日本では士農工商として商人は最下位に置かれたが、朝鮮でも同じで、その理由がドラマで説明される。これは誰しも考えるように、金儲けのために手段を択ばないことのあくどさを糾弾してのことだ。そこで本作で強調される商人の守るべき道理とは、サンオクの師の言葉「商人は人を作らねばならない」で、金を残すことより、人を残すことが大切と説く。これは日本でもよく言われることだが、現実問題として、会社は経営が悪化するとすぐに人を辞めさせるし、また社長もいとも簡単に別人に交代する。アベノミクスで騒ぐ様子を見ていても、主役は金であって人では決してない。企業は人など残さず金さえ残せば自ずと人はどこからも寄って来る。そのように考える企業家ばかりではないだろうか。21世紀を迎えたばかりの韓国も同じ状態であったので、本作を制作して人のつながりの重要性を強調したかったのかもしれない。だが前述のように視聴率は貧しい数値で、人々はもっと別のドラマを欲した。そこに韓国経済と、人々の意識の現実が見え透いているように思える。
ドラマとして見た場合、金を大切にするより、部下を信じ、むしろ人々に金を分け与えようとしたサンオクが最後は国王から役人の大きな地位を与えられ、しかも朝鮮第一の金持ちになったというハッピー・エンドはとても楽しい。毎回このカテゴリーに書くようだが、TVドラマを見る人はみな庶民で、金にはあまり縁がない。そういう心優しい人に同調されるには、同じように心優しい人物を主人公にし、それが幾多の迫害や困難に遭遇しながらも、やがて成功を克ち得るという物語にするしかない。今は最低でもいつか豊かになる。そんな庶民の前向きの願いを後押しするドラマが必要で、本作も紛れなくその手のものとなっている。最終回の前の話でサンオクが獄中に捕えられ、もうすぐ首をはねられるという最大の危機を迎える。これはドラマの作り方としては、最後の最後まで手に汗握らすことであって、途中で間延びすることを断固拒否し、毎回視聴率を稼ごうという意図が強く見えている。そのように活劇としても楽しみ、またサンオクのロマンスをはさみながら、浮かび上がるのはサンオクが師に気に入られ、また兄弟子であった人たちをやがて弟子としてしたがえて行く、その人格の大きさだ。最初はサンオクの強敵であった人物は、最初の頃からずるいことを陰で行ない、やがて師を裏切って商売敵に寝返るも、最終回では何もかも失って自殺に追い込まれる。勧善懲悪の最たる対比ながら、サンオクのような人物が実際はこのドラマのように成功するのだという真実味が溢れている。それは役者の演技のうまさや監督の力量だが、このドラマのサンオクのような人物であったからこそ、現実のサンオクは歴史上に名を遺したという人々の絶対的信頼のようなものがあるからだ。それは大人物の価値を理解しない小人物には生涯縁のないことであって、人間はそのような小人物的な皮肉の眼差しで何事も見ることが許されはするが、人間として生まれて来たからには、自分より大きい絶対的存在の人格者を思い描くことで心の平静を日夜保つ方が楽しい。「ドラマでの話であって、現実のサンオクはもっと違って浅ましい人物であった」といった見方をする人がきっといるだろう。そういう人は死ぬまで大人物に出会えないということだ。本作に話を戻すと、筆者が面白かったのはそういう作り手の高い意識を感じるからだ。また、これはやはりと感じるのは、サンオクが訳官の夢を捨てた後、父が手がけ始めてすぐに失敗してあげくの果てに殺されしまった商人の道に踏み込みながら、最後は役人になることだ。これは遠回りしながらも夢をかなえたことであって、それほどに商人になるより、役人の方が上と見る意識が根強くあった。絶対的な身分社会の中では、蔑まれる商人より、役人になる方がいいに決まっているという意見はあるだろう。
少し本作の登場人物について書いておくと、サンオクの父ボンヘクは何度受けても科挙に通らないので、友人から大金を借りて商売を始める。清国に珍しいものを持って行って売ろうというのだ。金を貸してくれたのは、同じように科挙を目指しながら、早々にその腐敗を知って商売人に転身した男ホン・ドクチュだ。彼は港商(マンサン)という商団の頭首だ。ミグムという娘がひとりいて、チョン・チスというやり手の男と恋仲になっている。ボンヘクは商売を始めるためにドクチュに金を借りに行くと、ドクチュは大金を差し出す。かつてドクチュはボンヘクから奪った金で商売を始め、今の成功はボンヘクのお陰でもあるからだ。慣れない商売に手を染めたボンヘクは国境で役人に商品を咎められ、やがて死刑判決を受ける。その原因は港商とは敵対する松商(ソンサン)の頭首パク・チュミョンの冷たい否定の言葉にあった。つまり、役人の前で見捨てられたため、死に追い込まれた。その様子を一部始終目の当たりにしたサンオクは、一生かけてチュミョンに復讐することを誓う。ところが、チュミョンには跡取りのひとり娘タニョンがいて、彼女は父の行為を否定し、サンオクに同情する。最初チュミョンの娘とは知らなかったサンオクは、次第にタニョンに魅せられ、娘とわかってからはさらに苦悩する。そして山の禅寺に籠って修行し、そこで禅僧から心を見透かされ、謎めいた言葉を投げかけられる。殺気立っているサンオクに、人を殺す剣ではなく、活かす剣を1000本持てと言われ、その後サンオクは折に触れてその言葉を思い出す。ここで面白いのは、本作は師弟愛という儒教色が濃厚ながら、一方で仏教思想が大きな影響を与えていることだ。それは李朝時代の現実であったはずで、娯楽のドラマでありながら、うまく歴史の重要点は押さえている。禅僧を演じる役者は笠智衆そっくりで、初めて見た顔だが、韓国の俳優の層の厚さを思う。マンサンにいたチョン・チスは、サンオクがドクチュにかわいがられるにしたがって敵愾心を燃やし、ついにソンサン側に雇われる。そして強引な手法で金儲けをし、マンサンを圧倒する。これがドラマ中盤の見どころで、サンオクとチスの知恵比べが展開される。最初はまだ人間的温かみがあったチスが、同僚のそそのかしもあって悪事に次々に手を染め、破滅の道をまっしぐらに進むのに対し、ドクチュが殺された後、サンオクは地道ながら他の商団とそれなりの提携を結び、支え合うことを目指し、朝鮮全土に商売網を広げて行く。今の企業人にそのまま通じるようなよい話が満載で、商人は金儲けではなく、人に喜んでもらうことを第一義とすべきであることがしみじみ伝わる。金をたくさん得ても、真に心を開いて話せる相手がいなければ何の人生だろう。欲を捨てたところに本当の富が集まって来るのではないか。世間が金、金とぎすぎすしているからこそ、このようなドラマをたまに見る価値がある。書き忘れるところであった。サダンペという日本の白拍子や傀儡師のような旅芸人一座が登場し、サンオク側について重要な役割を演じる。商売が全土に展開出来たのは、彼らが故郷を持たず、どこへでも自由に動いてよいとされていたからだ。サンオクが社会の最下層にいたサダンペから慕われたことの意味は大きい。偉そうにする普通の役人ではそれはあり得ない。