キリコ展はもう何度観たかわからない。手元に1974年2月20日に京都国立近代美術館で観た際の図録がある。これは日本初のもので、大阪からわざわざ観に行った。大勢の人が来ていた。

キリコの名前を最初に知ったのは中学生になってすぐだ。教科書のほとんど最後に近いページに、数センチ角程度の小さなモノクロ図版が掲げてあった。タイトルは『街の神秘と憂愁』だ。この不思議な絵はムンクの『叫び』同様、忘れ難いものとなった。中学の美術の先生Fは400名近い学年全体を受け持っていたが、学校にはもうひとり美術の先生がいて、ふたりは対照的な人柄であった。中学に入ってすぐの美術の時間に校舎を絵具で写生する授業があった。筆者が画板を地面に置いて描いていると、背後に立ちはだかる人がある。振り返るとF先生とは違うもうひとりの美術の先生だった。バンカラのその先生は腕組をし、真剣を表情で筆者を見下ろし、ぽつりと言った。「上手いな」。中学の3年間はその先生には一度も学ばなかったが、中学生になってすぐの美術の授業でその先生にほめられたことは嬉しかった。結局F先生に美術を3年間学んだが、その最初の授業もよく記憶している。それは画用紙に鉛筆1本で自分の手首を描くという課題であった。ひとりずつ順に見回りながら、先生が筆者の描くものを覗き込んだ時の緊張感を今も思い出す。先生にすればその課題で誰が上手かをまず確認する意味があったのかもしれない。3年生になって将来の進路を決める段になった頃、F先生はわざわざ筆者にこんなことを伝えに来た。「この学年で先生が美術の世界に進んでほしいと思う者が3人います。君とN君とT君です。君なら先生と同じ京都の芸大に進んで、将来美術の先生になれます。君にはその道しか似合わないと思いますよ。N君は芸大に進むには成績がもうひとつで、T君はスポーツの道で生きたいと言っているし…」。嬉しいような、そして現実を思えば複雑な気になった。学力は別としても、中学を卒業してすぐに働かなければならないような貧しい母子家庭では、曲がりなりとも美術の世界で生きるなどとても贅沢な気がした。結果、先生が夢を託した3人とも、先生の望むような進路には進まなかった。だが、Tは知らないが、Nは地元で履物のデザインをして生きているという。そのNとは小学校3、4年に同じクラスになったことがある。似顔絵があまりにも上手く、筆者は大いに尊敬した。あのようにはとても描けないと思った。天性の才能だった。勉強がよく出来る人物などざらにいるが、絵がびっくりするほど上手な奴はめったにいない。しかし、Nは自分の才能には無頓着で、勉強に一生懸命だった。中学になって一度Nの家に行ったことがある。お父さんは作業服を来て旋盤に向かい仕事をしていて、Nが筆者を紹介すると、お父さんは帽子を取って笑顔でお辞儀しながら挨拶の言葉を言った。「君があの○○君ですか…」といったように語った、あるいはそのような目をした。筆者は勉学では学校ではトップ・クラスで目立っていたから、そんな筆者をNは父親に自慢していたのかもしれない。今もその時のお父さんの表情をよく思い出す。しがない家内工業ではなく、息子にはしっかり勉強してもっといい仕事に就いてほしいと思っていたのであろう。収入はさておき、Nが今は自分の才能を活かした仕事に携わっていることに安心感を覚える。F先生がいみじくも言ったように、美術好きな少年はどう回り回っても結局その腕を使う仕事に携わるのではないか。
F先生は美術のペーパー・テストでは面白い回答欄を用意することで知られていた。答えを書き込む方形の箱に下の欄から回答の字句を選び、その頭についている文字を記入する問題があるとする。それは通常ならば数字か、アイウエオ順に並んでいるが、先生の問題では片仮名の文字が出鱈目に並んでいた。回答欄に順に文字を記入して行くと、もし正解ならば、たとえば「アオイソラ」といったような採点をつける際に便利な文句になる仕組みになっている。そのことをよく知っているみんなは、「アオ○ソラ」まで解けると、途中の一文字は容易にイであると推察出来るのであったが、先生の方もそう簡単な問題にはしていないから、みんながころりと裏をかかれる。たとえば「マチノキ○○」まで解けたとする。そして次の2文字用として回答の選択欄にはコとリしか残っていない。みんなは当然キコリとやる。ところが問題をよく考えて正しい答えを得ると、それはキリコとしか入らない。だが、みんなはF先生がまさかこんなわけのわからない回答を用意するはずがないと考え、大抵は「マチノキコリ」とやった。そして、先生がみんなの前で回答を披露した時、「これはキリコが正解です。キリコはイタリアの20世紀に画家です」などと言って、みんなは呆気に取られた。当然筆者はキリコの『街の神秘と憂愁』をよく知っていたので正解だったが、ま、キリコと言えばそんな楽しい中学生活を思い起こしてしまう。先生がどのような画家が好きであったのかよく知らないが、京都の三条河原町の朝日会館の壁画を描いた数人のひとりというのが自慢であった。それは東郷青児の原画になるもので、今はもう現存しないが、東郷が向かい側の通りに立ち、メガフォンで指導しながら若い画学生たちに描かせたものだ。それでもF先生がたまに教室に持参する自作の油彩画は、鏡を見て描いた自画像や、ダルマ・ストーヴを迫真的に描いたもので、クールベのような写実が先生の目指す作風はキリコのような絵とは全然違っていた。さて、前置きが長くなった。
手元の図録の中には今まで開催されたキリコ展のチラシが何枚か挟んである。それを順に記すと、まず1974年の最初のもの、次に何年か不明だが、おそらく1980年代前半のある年の11月に八尾の西武百貨店で開催されたもの、そして生誕100年記念とあるから、1988年か翌年2月開催の梅田大丸でのもの、次は1993年8月の大阪梅田ナビオ美術館(現存せず)、2001年9月の京都伊勢丹となっている。伊勢丹以外は全部観ているので、今回の展覧会はまたかという印象が強かった。それに梅田大丸では2度目で、これは以前のブログの投稿にも書いたように、前回の展覧会での実績を得て主催者はコネが出来上がっているからかもしれない。これら数回の展覧会の中では最大規模で、印象が最も強かったのは1974年のものであったのは言うまでもない。キリコが86歳の時のものだ。その4年後に亡くなるが、その意味でもキリコ自身にとっても大きな感慨があったものだろう。そのことは今回の展覧会のパネルの説明にもあった。キリコは日本初の大回顧展によって、また心を新たに制作に励んだようだが、キリコの絵は1920年代に最もよいものが集まり、その後はそれらを再現なく焼き直ししたに過ぎないように見える。はっきりとした制作年代が不明な作品も少なくなく、今回も絵にしたためられた制作年度と、キャプションのそれが4、50年も開いているものがあった。それは未完成にしておいたものに半世紀近くなって手を加えたということもあるのかもしれないが、ほとんど同じような作品を量産したというのが実際のところだ。つまり、オリジナルは1920年代で、それが好評なため、制作年度まで同じように描いた別の作品を半世紀近く後になってまた描いた。これはキリコ自身が描いているのであれば文句もあまりないが、弟子とは言わないが、下準備などにかなり携わった別人がいるのではと思わせる。そのようなどこか胡散臭い、そして謎めいていて、どこか人を食ってもいるところなど、全部ひっくるめてキリコの魅力となっているので、さほど目くじら立てることではない。キリコの50歳頃以降の後半生はそれ以前に比べてがらりと作風が変わることはなく、新古典主義の作風も1930年代半ばにすでに描いており、キリコの手の内はみんな前半期に登場していると言ってよい。だが、後半になって新たに登場したイメージもないではない。陰陽の太陽をセットで描くのはそうしたものの代表ではないだろうか。この太陽を描いた作品は1974年の展覧会でも強く印象に残った。キリコにあっては何を描くかはもう前半期に全部決まっており、後はそれをどう組み合わせるかに終始しただけとしても、それでも後半期の絵画は、その孤立して時代遅れになった感が強い点において、キリコの謎めいた魅力がさらに深まったと見ることが出来る。1920年代のキリコは時代によく即応していたのに、その後は回顧的作風となり、その回顧の情が絵そのものの無限な夢幻性とないまぜになって、本物のキリコになったというわけだ。したがってキリコが若死にせず、90まで生きたのはかえってよかった。90まで生きればもう永遠に生きているのも同じだ。今もキリコがローマのどこかの一室で黙々と絵筆を動かしているイメージを容易に描くことが出来る。筆者は夭折よりは高齢で死んだ作家の方に興味がある。夭折はつまらない。早々と舞台から降りるのは卑怯だ。
キリコはローマに没したが、生まれはギリシアだ。17までそこに住み、父が死んでイタリアに引き上げた。そしてすぐにルネサンスの巨匠の絵画の模写に専念したが、これは後の新古典主義時代への転向を考えるうえでの鍵となっている。20歳頃にベックリンやクリンガーの強い影響を受けたが、すぐに22歳で持ち味となる作風をものにしている。ここでとても重要な何かがキリコの内部で起こたと言え、今までに全くなかった絵を一気に生み出したその才能は天与のものだったとしか言いようがない。それはギリシア・ローマの歴史風土の中から20世紀に突如登場した途轍もない絵画で、誰の絵にも似ておらず、圧倒的な存在感がある。このような衝撃はもうヨーロッパ絵画では二度と起こらないだろう。キリコは文章もよくし、図録によれば『クールベ論』も書いたことがわかるが、キリコの新古典主義時代の写実は、ルネサンスやあるいはクールベのそれとは違ってかなり稚拙に見える。写真のような迫真さで描くことはキリコには無理であった。だが、キリコの写実はそれなりに独特の味があって、形而上絵画と断絶なくつながっている。そこが重要な点で、また魅力になっている。キリコの形而上絵画の横にクールベのような現実をありのまま描いた写実技法の絵を並べてみればよい。ただただ違和感があるのみで、キリコの写実は現実的と言うより、過去のすでに廃墟となったものの記憶を呼び起こすところがある。キリコの新古典主義は音楽で言えばストラヴィンスキーのそれと同じで、作家独自の解釈によるものであって、昔の時代に作品を置いて時代の区別が出来ないような、パロディ精神で目論んだものではない。また、キリコの新古典主義絵画を見ると、不思議なことに古典主義以前のもっと古い、つまりギリシア・ローマ時代の世界を垣間見ている気になる。これはクールベ張りの写実によっては決して達成出来ないものであったと思う。その意味で、キリコの新古典主義は前古典主義、あるいは汎古典主義とも呼べるものではないか。
今回の展覧会で目を引いたのは、『エブドメロス 画家と、作家における画家の才』という1929年12月にパリにてピエール・レヴィの出版社から世に出た小説の挿絵を、1972年にローマの別の出版社が刊行し直した24枚のリトグラフだ。1929年のものを新たに大きく描き直したものだと思うが、図録を買わなかったので詳細はわからない。このリトグラフのシリーズが面白かったのは、モノクロ画面ながら、キリコの代表的モチーフがいろいろと揃って登場していることだ。つまり、キリコを手っ取り早くコンパクトに知るにはこのリトグラフだけでも充分だ。1974年の図録の冒頭には土方定一の文章に続いて『デ・キリコの著作より』と題し、まずこうある。「デ・キリコの広範な文学作品は、小説、詩、評論、論争、回想録を含むものである。こうしたカテゴリーのそれぞれに関して、異なった時期の例をいくつかあげることにより、彼の絵画のファンタジーと常にかたく結びつき、かつそれに付随している詩的創造と批判的瞑想の特異な調子と特質を、証明することが出来るのである」。全体でかなりの量の文章が翻訳掲載されているが、その中に『ヘブドメーロス』がある。これは筆者のこのブログの夢千夜日記さながら、夢をほとんどそのまま描写したような内容と言ってよい。ヘブドメーロスはキリコ自身で、彼が経験した現実や夢想したイメージがあれこれパッチワークされていて、物語の始めも終わりも定かではなく、途中の順序も変えても大勢は変わらない内容となっている。また、先のリトグラフには登場しない事物がふんだんに描写されるので、ある意味ではキリコの絵よりももっとファンタジーに富み、キリコの絵の大きな源泉と言ってよい。今回の展覧会では24点のリトグラフは順序がばらばらにされて展示されていた。これは『ヘブドメーロス』の小説自体が物語の順序がどうあってもいいような内容であることからして許されることだ。会場でメモして来たので、24点を順序立ててタイトルだけ書いておく。「エブドメロス」「剣闘士」「地霊の小人たち」「海神(ネプチューン)」「砂漠の雨」「天使」「おんどり」「ユリシーズの帰還」「戦勝記念トロフィー」「ケンタウロスの家族」「グレーハウンド・ドッグ」「巨人像」「歴史の寓意」「怪物」「メルクリウス」「双子座と他の黄道十二宮」「ヘラクレス」「部屋の中の剣闘士」「帆船/神秘的な舟」「不死」「時と永遠」「謎めいた多くの手」「馬の群れ」「慰める人」。この中で「おんどり」は油彩画にもなっていないようなので珍しいモチーフだと思うが、小説『ヘブドメーロス』にはちゃんと登場する。その部分を1974年の図録から少し引用する。『…様式化された雄鶏をあらわしていた塔の風車がかすかに動いていた。ヘブドメーロスは、”春の終り”の諸々の様相、いわゆる暑い月々の到来を執拗に予告するあのものうい重苦しさ、云いかえれば、ある大詩人が”非道な”と定義したある季節に近づいていることを、憎悪していたのである。(中略)…今や雄鶏の両足は地表に、とさかは天に触れた。白い文字、石碑銘のような厳粛な文字は、あらゆる側面から少しずつ伸びてゆき、躊躇し、大気中の流行遅れのある種の四組舞踏の形を荒ごしらえし、ついにはある神秘的な力の望みに従って、一団となることに決まったのである。地表から少し高いところでこの奇妙な銘文を形づくっていたのである。Scio detarnagol barta letztafra…』。