珍しいタイトルの展覧会だ。この名称を最初に目にした時、少なからず驚いた。次に、一体どこの主催かと思った。

平安画廊に行った時、テーブルに図録が置いてあったので、中を見ると、主催はどうやら広島の宮島あたりが中心になり、それに京都や宮城県が参加しているようであった。つまり、日本三景サミットのデモンストレーション的な展覧会というわけだ。近年世界遺産の指定が日本の各地にあって、そういった場所は人集めにも余念がないが、そうした観光のブームにここで日本三景も参加しようというムードがまず伝わって来る。それに宮島の巌島神社は去年の台風で大被害を受け、今年もまた危うかったが、復興の一助のために今年に入ってすぐ奈良国立博物館で巌島神社国宝展が開催されたことは記憶に新しい。その展覧会は観に行ったが、その時の図録はまだ売れ残っているらしく、今回の展覧会の売店にも持って来られて何冊も積まれていた。宮島に観光で訪れる人が減少傾向にあるのかどうか知らないが、トラピックスやJTBから毎月送られて来る観光案内冊子には必ず宮島への旅は掲載されているから、近畿地方から訪れる人は一定の数を保っているのではないだろうか。それよりも問題なのは天橋立ではないだろうか。去年だったか、台風の影響で砂浜がかなり流出し、松も大きな被害を受けたとTVで放送されたのを覚えている。JRで天橋立あたりを通過して遠目に見たことはあるが、よい景色とは言っても観光バスのツアーでたくさんの人々が訪れるところではないようだ。大阪からは毎日高速バスも運行していて、天橋立は京都府下にあるにもかかわらず、京都市内からはかなり遠方の印象が強い。そのため京都にやって来る人は市内ばかりに目を向け、丹後地方に関心のある人も少ないのではないだろうか。天橋立に降り立ったことはないのでよくわからないが、さびれた感じを想像してしまい、実際そうであってもまたそれがかえってよいのかもしれない。天橋立の松並木以外に何か見物があるかとなれば、あまりそうとも思えず、今時の盛りたくさんな内容を求める観光客の誘致には魅力の欠ける場所になってはいまいか。その土地の人が別にそれでも全くかまわない生活をしているのであれば、大勢の観光客が押し寄せることなど迷惑なだけの話であるが、せっかくの景観遺産をもっと広く知ってもらおうと考えるには、何か文化的に売りになるものを開発すべきであろう。だが、天橋立以外に何もないとするのは早計で、筆者は特に蕪村に関係する地区という思いが強くあって、天橋立よりもむしろ蕪村が3年間滞在した宮津の見性寺に関心がある。また丹後地方からは蕪村だけではなく、若冲の珍しい作品が出現したり、宮津の丹後郷土資料館にはそうした名品の所蔵が少なくない。そんな文化遺産をもっと宣伝し、それを天橋立の特異な景観と併せれば、知名度はさらにアップして人もよく訪れるのではないだろうか。少なくとも筆者はそんな興味を持って出かけたいと考えている。
日本三景の言葉を知ったのは小学4年生の頃であったと思う。その当時毎週買ってもらっていた『週刊少年サンデー』の裏表紙などに記念切手の通信販売の広告があり、そこに日本三景の3枚の10円切手も並んで載っていた。記念切手を集め始めるようになったのは小学5年生で、近所の兄さんたちも夢中になっていた影響だ。モノクロで印刷された日本切手型録をよく見せてもらい、そのうち自分でも買ったが、そこには日本で発売された全記念切手と通常切手が掲載されていることにいつも感心したものだ。当時はまださほど記念切手の発行も多くない時代で、日本の郵便の歴史が始まって随分経つのに何と記念切手の種類が少ないものかとよく思った。今はやたらと発売されて、すっかりありがたみがなくなり、もう積極的なコレクションの熱はない。日本三景の3枚の特殊切手は1960年3月の発売だ。今の天皇陛下の結婚の翌年で、何ともそれから長い年月が経ってしまったが、その切手の発売から45年経って筆者が今までに訪れた日本三景は宮島のみで、これを思うと、人の一生の間には、いずれと思っていながらやり遂げられないことがいかに多いかを実感する。天橋立は京都府であるので、その気になれば日帰りで往復出来るが、宮城県の松島は関西からは遠く、今後も行くことはないだろう。日本三景の切手は、国立公園、国定公園、それに1951年から3年にかけて発行された観光切手のどれとも違ったデザインで、3枚だけ独立して発行された。このことが日本三景の特殊性をよく物語っている。日本三景は国立公園や国定公園の中には含まれていないし、また戦後しばらくして新聞紙上で全国からのはがき投票で決められた10部門の各1位ばかりを切手として採り上げた、述の観光切手における観光地とも重ならない。にもかかわらず、独立して日本三景の切手を発行するということは、それだけこの三か所が歴史的に有名で、別格の景勝地であることを示している。
そんな日本三景を今一度美術品や文化資料などの展示で歴史を辿ろうとするのが今回の展覧会だ。分厚い図録が売られていたが、買わなかったのであまり詳しくはここに書けない。いつもの展覧会より作品はやや少なめであったが、前期と後期で一部の絵画の展示替えがあったから、全体としては多めになる。空いたスペースのところどころにアマチュア・カメラマンが撮影した三景地のカラー写真が10数点ずつかかっていた。これらは観光地の宣伝コーナーにある写真と同じで、それだけ見ていても大して面白くはないが、かつての三景地の絵画などと一緒に展示されると、それなりに三景地が人々にどのように捉えられて来たかや、見所などがよく伝わる。チケットにもあるように副題は『中世の絵巻から近現代の日本画まで、「日本三景」の絵画を一堂に』で、もうこれだけでどういう内容の展覧会かがわかるが、雪州から蕪村、蘆雪、そして現代では小野竹喬や児玉希望といった巨匠まで、意外な作品に出会える面白味があった。その意味で玄人向けの内容となっている。会場内があまりに閑散としていたのは企画倒れかもしれず、せっかくの展覧会が不発に終わるならばもったいない。さて、次は会場でのメモを頼りに気になった作品を簡単に書いておく。巌島神社を上空から見下ろした構図で描いた水墨中心の「暮れゆく巌島」という掛軸は、登内微笑という画家が大正13年に描いたもので、これは初めて目にする画家の名前であったが、絵の印象が宇田荻邨によく似ていて印象に強かった。荻邨の代表作のひとつ「清水寺」は昭和32年に描かれたが、ほとんどこの「暮れゆく巌島」を連想させる。その意味で登内は宇田の先を行っていたことになる。もっと知られてよい画家かもしれない。日本画ばかりではなく、高橋由一が描いた「松島五大堂図」は明治34年の油彩画で、これも忘れ難い濃さを持っていた。こうした日本三景に因む絵は発掘すればもっとたくさんあるかもしれない。土佐光文が紬地に水墨で松島を描いた襖絵は、かつて御所に使用されていたが、通常の紙ではない点で非常に珍しい。そのほか大名屋敷を飾っていた豪華な六曲屏風もたくさん並べられていたし、西洋画の影響を受けた版画、それに吉田初三郎が昭和初期に原画を緻密に描いた珍しい鳥瞰図法による三景地の観光地図といった資料も目を引いた。
日本三景という言葉で3か所の景勝地がひっくるめて言い表わされ始めたのは今から360年ほど前だと言うが、時代が下がるにつれてこれらの場所が絵師たちの筆などによってよく紹介され、版画の普及でさらにそれが加速化し、人々の間で一度は訪れてみたいといった場所にますますなって行った。ところが戦後は交通機関の発達もあって、日本三景だけではなく、もっとほかにも訪れて楽しい場所があるということになり、次第に日本三景の地位は低くなって来た。珍しい景色を見るのであれば、今は国内を巡るより海外の方が安上がりになる場合もあり、訪れにくい場所にある三景地となれば、なお今後も問題は多い。そして今回の展示でもよくわかったが、宮島、天橋立、松島の3か所は何の共通点も持たずにそれぞれが独自に今まで伝わって来ている。であるからこそ、こうした展覧会を通じて3か所を一緒に宣伝しようとすることに意義があるが、それでもやはり3か所はあまりに遠く離れ過ぎている。いや、どうせわざわざ訪れるのであれば、これがまたいいとう言う意見もあるだろう。それにしても自然災害で建物が壊れたり、砂浜が流出するなどという物理的被害を受けることが昔よりも増して来たように思えるのは、地球規模の環境の変化も原因としてあるのかもしれないが、何だか日本三景がさらに忘れ去られるような運命を辿っているように思える。そんな中で360年前どころではなく、もっと以前から各地がそれなりに歴史を蓄積しているという事実を示すためにも今回の展覧会は有意義であった。たとえば丹後地方だが、9世紀の平安時代の「海部氏系図」というものが出品されていた。これは国宝で、日本で現存する最も古い系図という。その末裔が今でも天橋立のつけ根に位置する籠神社の宮司をしてこれを保存しているというから、実に凄いことではないか。そのすぐ近くに展示されていたのは「釈迦三尊像」で、大きさは比較にならないほど小さいが、思わず若冲が描いて現在相国寺にある「釈迦如来像」や「文殊菩薩像」「普賢菩薩像」を連想した。ほとんどこれら3幅の図像を合成すれば「釈迦三尊像」になる。若冲が元にしたのは高麗仏画だが、丹後にあるこの「釈迦三尊像」は中国からの舶載仏画か、それを元にして南北朝時代に日本で描かれたものという。これまたすぐ近くに展示されていた重文指定の「金鼓」は大型の梵音具で、1322年の中国の銘が持つが、現在は北朝鮮の海州のとある寺のために鋳造されたものとあった。それがなぜ京都の寺のものとなっているかは不明だが、中世に丹後と朝鮮半島との間に交流があったことを示す資料となっている。これは当然と言うべきで、丹後の海をずっと北上すれば朝鮮半島に行き着くから、中世どころではなく、もっともっと大昔から人が行き来していたはずだ。今は裏日本という呼び方はふさわしくないとしてあまり使用しなくなっているが、丹後のあるその裏日本は昔は大陸文化流入の表日本であったわけで、天橋立はそんなところに位置している景勝地であることを再確認すれば、もっと別の観光資源になる何かが見出せるかもしれない。