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●内は外、外は内
下を脱ぐ時によく裏向けにしてしまう。パンツもそんなことがよくある。家内はそれをそのまま洗濯することがある。そして筆者が身につける時に裏返っていることに気づきながら、面倒なので裏向きのまま履くことがある。



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もっとも、靴下もパンツも裏表がほとんど変わらない場合のことだ。裏向きのまま履く時、心を過るのは、それを脱いだ時にまた裏返る、つまり今度は表向きに変わって、裏返して履く手間が省けることだ。このずぼら具合は他人に言うべきではない恥だが、筆者は合理的と思うことにしている。ところが、そうでない場合がある。たとえばこんなこと。わが家のトイレの扉は小さな窓が空いていないので、閉めた状態では内部に電気が灯っていることがわからない。トイレに入ろうとドアを開けた際、よく灯りがついたままになっている。筆者の消し忘れだ。だが、実際は「消し忘れ」ではなくその反対なのだ。全く漫画のような話だが、筆者は洗面台に立った時、ドアの1ミリほどの隙間からトイレの電気のスイッチがONになっていることに気づくことがよくある。「あ、消し忘れていたな。今消しておこう」と、スイッチを切る。これは電気の無駄使いとして誰でもやることで、特に合理的精神とは言えない。ところが問題はここからだ。OFFにした直後、トイレで用を足したくなる。その時、電気を消したばかりであるから、その合理精神が働いてスイッチをONにせず、ドアを開けた状態、つまり外の明かりを頼りに用を足す。水を流して外に出てドアを閉めた時、またトイレを出た時にはスイッチを切るという合理的精神が起動して、反射的にトイレのスイッチを反対側に向けてしまう。先ほどOFFにしたから今度はONになるが、そのことに気づかない。そうして数時間経って、また洗面台に立ってトイレのスイッチがONになっていることに気づいてOFFにし、トイレに入って出た後、またONにしてしまう。合理的な考えが進んだ結果、反対にとても電気を無駄にしているわけだ。認知症の始まりはこんなところから始まるのかと思わないでもない。それはさておき、今日からまた先月のいわき旅行について書く。その再開の初めの題名として「内は外、外は内」がふさわしいのかどうか、今も迷いながらとにかく書き始めた。「内は外、外は内」の題名を書いた直後、タイガー立石の作品を思い出した。彼の鉛筆描きの作品に、ある田舎の一軒家が煙突の穴から内部が外側にめくれ出し、ついには内装を含めた家具などが全部表に飛び出し、代わりに外壁が内部に収まるというものがある。数学のトポロジー(位相幾何学)を思わせる絵で、最初に書いた筆者の靴下を思い出させる。裏向きに脱いだものがそのまま洗濯、乾燥され、裏向きのまま履けば今度また裏向きに脱ぐとそれが表向きになっている。そのことは、表と裏は同等で、変わりがないことを意味する。
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 筆者は近隣をよく歩き回るから、ごくたまに旅行した時でも歩くのは好きだ。名所である必要はない。ごく普通の場所を歩いた方がかえってその土地の味がよくわかる。そうして歩きながら見る光景は、内と外で言えば、これは誰でも外と言うだろうが、そうとは言い切れない。まず見知らぬ土地を歩くとして、地図などで予め情報を持っている場合、その情報は「内と外」で言えば「外」に当たる。そして実際に現地に入った時に見える光景は「内」だ。だが、それもすぐに「外」になる場合がある。たとえば一軒の店に入って人と言葉を交わし、中で食事をする。そこで見える光景はGOOGLE EARTHのストリート・ヴューでも得られない「内」の情報だ。そしてそれを得た時から、現地を歩き回って眺めた景色は「外」になる。このように、「外」は「内」になり得る。言葉を変えれば、「外」であったものがどんどん「内」になって行く。そして、そのことに切りがない。「外」が「内」に変わるのは「馴染み」であって、肯定的に捉えることが出来るが、その「内」はより深い「内」の確認によって「外」になるから、永遠に何事においても真なる核心と呼べるものには到達出来ないとも言える。この、深く「内」に入ったと思ってはいても、相変わらず「外」を感じることは、どんな芸術家、研究者、あるいは夫婦にもある。これ以上うまく描けたことはないと思っていても、翌日にはどこかしらじらしい箇所が気になる。学者なら、これは世紀の発見だと自他ともに認められても、やがて必ず別の謎が顔を現わし、別の研究者がその解明に挑む。夫婦で言えば、たとえ半世紀一緒に暮らしても、お互いのすべてを知り尽くしているかと言えば、時にそうでないことによく気づく。「すべてを知る」ことなどそもそもあり得るか。そう確信した途端、対象が全く新たな様相で立ち現われていることを、人生を経て来た人なら誰でも感じることがある。つまり、実際は何もさしてわからぬまま人生が過ぎ去って行く。そのわからないことを見ないようにして、わかったつもりになるのが人生だ。これは「外」から「内」にいくら深く入り込んでも、新たな「外」がそこに立ちはだかっていることを意味する。
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 何だか上記のことは以前にも書いたような気がして来た。今から書くこともそうだ。ある女性が愛してくれる男性に言う。「わたしのどこがいいの?」「全部」「こんなに太っているのに」「それもかわいい」「わたしのことを全部好きだと言うけれど、内臓まで美しいと思う?」男が女性を美しいと思うのはまず外見だが、外見すなわち「外」には内面が反映しているから、「外」を見ながら「内」も見ている。その「内面」とは見えない心のことで、内臓ではない。だが、そうとも言い切れない。どんな食べ物が好きか、どういう生活をしているかは、内臓の動きと強く関係しているから、彼女の顔やそこに現われる内面を美しいと思うのであれば、内臓もきっとそうであろう。だが、通常人間は内臓をイメージしないし、またそれを思い浮かべて美しいとは思わない。これが人間を食べる習性があればまた別の話で、牛の内臓のように各部位をイメージして食欲をそそるかもしれない。それはともかく、旅をして景色を楽しみ、そこからその土地の「内」と言うべきものを人は想像する。これをもっと現実的なものにするには、現地の人と話をし、家の中を見せてもらうことだ。文字どおり「外」から「内」へと進むそうした行動は、隠れているものに分け入る一種の冒険で、旅の醍醐味は本当はそういうところにある。芸能人は役得でよくそうした旅をしてTV番組となるが、一般人ではせいぜい宿に泊まって女将と多少の話をする程度だ。それでも全く無言で旅をするよりかはよい。話が変わる。20年ほど前か、絵を描いているある女性と話をした時、彼女はよほどのことがない限り、アトリエを見せないと言った。製作の秘密を知られたくないというのが理由だ。その気持ちは筆者にもわかる。ただし、筆者の場合、あまりに家中が物に溢れ、また埃だらけであるからで、これがきれいに整理整頓されていればかまわない。それでもたとえば本棚をしげしげと見られると、自分の「内面」がどの程度であるかを値踏みされているようであまりいい気分ではない。先の彼女は、描く行為が自分の最も重要で神聖なことと思っている。であるから、その場所を人に見せることは、何かを汚されたように感じるのだろう。「内」にずかずかと踏み入れられたくないのだ。これは女性らしい思いとは言い切れない。筆者の他人には絶対に見せないような私的な場所を持っている方が、何となく自分が特別な人間であり続けられるように感じる。だが、実際はそんなことはしていない。これは、本棚その他、筆者が時間を最も多く過ごす部屋の内部を誰に見られたところで、「内」のすべてがわかるはずがないと思っているからだ。
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 この10日間、いわき行きの話題を中断した。再開するに当たって前置きが長くなったのは、昨日YOUTUBEで2年前の大震災の時、江名港を襲った津波の映像を見たからでもある。2年前の10月29日に投稿されたケータイで撮った映像だ。港をどのような津波が襲ったかをよく示していて、3月11日の午後3時半頃、その場にいなかったが、江名の波止場に立って、この映像で眼下に見える場所を遠くから見つめて写生したので、完全な「外」の人間としてではなく、多少は「内」の気分を共有出来る。そして映像は高台から撮られていることもあって、なおさら足がすくむ思いがする。この映像を見た後、GOOGLE EARTHのストリート・ヴューでこの映像の眼下に見える場所や、映像が撮影された場所を確認した。ストリート・ヴューからは地震から8か月後の現地の様子がわかる。その1年半後に筆者は江名港に立ったから、今はもっとあちこち修復されたり、また瓦礫の撤去も進んだが、土台だけの家がたくさんあったので、荒涼たる風景はあまり変わらない。その「外」の景色から、被害を被った人たちの「内」を想像すると、こんな暇潰しのブログ・ネタにすることがあまりに呑気過ぎることを思うが、人間はもともと他者の「外」を眺めるだけで「内」には入り込めないのではないかという気もする。話がまた変わる。筆者はこんな夢をたまに見る。和室というのでもないが、きらきらした文様が描かれる襖を両手で開けて向こうの部屋に入る。すると、また正面に同じような襖があり、それを開けるとその向こうにまた同じ襖が見える。そのようにどんどんと向こうの部屋に行くが、どこまでも何か物や人がいる部屋にたどり着けない。この夢は、「外」が「内」になることがあっても、その「内」はまた「外」的様相を帯びていると思う筆者の考えを反映しているかもしれない。人は表層部分のみさらっと見つめるだけでの人生で、深淵を覗くことがあっても、それに恐怖して後ずさりすると言えるのではないか。江名に丸1日も滞在しなかった筆者に、2年前の地震津波の何が実感出来るだろう。地図を眺め、ストリート・ヴューであちこちの様子をパソコン上で見つめることは「外」的行為で、丸1日に満たないとはいえ、現地に立ち、またMさん宅で話をし、一泊したことはそれなりに「内」と言えるが、襖の向こうにいくらでも知らない部屋があることを感じる。これは二度と行きたくないという意味ではない。また機会があれば行きたいが、何度行っても核心のようなものが得られるかと言えばそんな気はしない。これは筆者が、あるいは人間が漂泊するだけの存在であるからか。
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 今日の写真はストリート・ヴューから取った。1枚目は江名のバス停だ。津波以前は赤いテントの覆いがベンチの上にあった。それが亡くなって今はテントを支えていたコンクリートの土台が3本見える。この土台は以前のバス停の姿を知らない人には「トマソン」に見える。いずれまたテントで覆われるのであれば、これが再利用されるかもしれないが、今は取り壊すのも費用がかかるし、またさして邪魔でもないのでそのままにされている。筆者の投稿『バス停「江名」』のパノラマ写真にもわずかにこれが写っている。2枚目の写真は、そのパノラマには見えない建物が左に大きく写っている。これは漁業協同組合であった。写真右端には建物の修理用のセメントの袋が積まれている。経済力のある家はそのように震災から半年後には修理に手をつけたことがわかる。筆者が江名の波止場で写生した2枚のうち1枚は、海に向かって左手の岬の山を臨む構図だ。その岬を合磯岬と呼ぶことを昨夜地図で知った。岬の麓にあった家はみな津波で流され、死者がたくさん出た。先のYOUTUBEの映像は、この岬の山の中腹に立ってのもので、波止場から上る階段があることがわかる。また、同映像では、津波によって紺色のタンク・ローリー車が階段の下まで流されて来るのが見えるが、その車はストリート・ヴューでは同じ位置に横たわっていて、地震から半年経ってもそのままにされていたことがわかる。同映像で筆者がまず目に留めたのは、海に面する銅像と、その隣りに立つ石碑だ。これは写生のために見つめた方向のど真ん中にあるものだが、筆者は気づかなかった。その銅像を間近で見るためにまた江名の波止場に立ってもいいなと思う。そう思うもうひとつの理由として、土井商店がある。この店は地元では有名であったことをMさんから聞いて知っていた。津波のために同じ場所では営業出来ず、少し場所を移したらしい。写生の間、大きく「土井」と書かれた紙が茶色の石貼りの建物の1階に見えていて、土井商店であることがわかったが、そこまで行かなかった。ちょっとしたコンビニのようであることは、昨夜のストリート・ヴューでわかった。この店の前を右手に進むと岬の突端に着く。そこをぐるりと北に回ると合磯の海水浴場がある。江名に行けばこの砂浜に立ってやりたいことがあったが、新常磐バスを合磯のバス停で降りながら、左手にわずかに見える浜辺には行かなかった。津波で流された家が多いことを知っていたからでもある。そこで昨夜はストリート・ヴューで江名の波止場からどのように進むとその砂浜に着くかを調べた。海水浴場まで道があるかと思えば、ストリート・ヴューでは途切れていて、「関係者以外立ち入り禁止」の札が見える。津波で家が流され、また岸辺が脆くなってもいるのだろう。だが、もともと岬を取り巻く道路はなかったようだ。波止場から岬の向こうに出るには、岸辺ではなく別の道から入らねばならない。合磯海水浴場は正式には海に注ぐ川の北側のより砂浜が広い区域のみ指すのかもしれないが、川より南側でも同様の砂浜が広がることはストリート・ヴューからわかる。住宅地から砂浜までは遮るものがなく、なだらかな坂になっているかと思えば、さすがそうではない。アスファルトの道があって、砂浜に降りるには堤防に設けられた石段を利用する。その段数がストリート・ヴューから15段ほどであることがわかる。下の写真がそうだ。遠くに見える山は合磯岬で、その向こうに江名港がある。石段は1段当たり10センチほどのようで、高さ1.5メートルの堤防だ。先のYOUTUBEの映像に書かれることには、津波の高さは7メートル、道路からは2.5メートルであったとのこと、堤防に近い家並みはひとたまりもなかった。この海水浴場で泳げば、砂浜の背後に家が並んでいたのが見えたはずだ。それがなくなり、また放射能の心配もあって、今では泳ぐ人があるのかどうか。ストリート・ヴューの映像は現地に立つことからすれば「外」だが、少しでも現地に立ったことのある者には、「内」としての馴染みのような感情を湧き起こさせる。
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by uuuzen | 2013-04-17 12:58 | ●新・嵐山だより
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