人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●当分の間、去年の空白日に投稿します。最新の投稿は右欄メニュー最上部「最新投稿を表示する」かここをクリックしてください。

●『時代の証言 MARC RIBOUD展 マルク・リブー』
祇園の何必館で18日に観た。この展覧会のチラシを最初に手に取った時、剣銃の群れに向かう一輪の花を捧げた女性の写真に見覚えがある気がした。



●『時代の証言 MARC RIBOUD展 マルク・リブー』_d0053294_23422688.jpg実際には見ていないかもしれないが、この写真、あるいはこの写真に写っている事実について読んだり、耳にしたりしたことはある。ヴェトナム反戦時の歌でも題材にされたのではないだろうか。だが、チラシにある写真家の名前MARC RIBOUDは初めて目にする。一瞬ギタリストのマーク・リボーかと思ったが、綴りが少し違う。フランス人であることはすぐにわかるが、アメリカのヴェトナム反戦運動を撮影するフランス人は、アメリカにとってはあまり面白くない存在ではなかったのではないだろうか。アメリカにもたくさんのフォト・ジャーナリストがいるし、アメリカの雑誌で採り上げられるのはそうした自国人の写真の方が優先されるように思う。とはいえ、リブーはアメリカを初め世界主要各国の新聞や雑誌に作品を提供して来た。その半世紀以上に及ぶ旅での業績が今回の展覧会で回顧されている。筆者は写真については詳しくはないため、リブーがどの程度有名なのかは知らない。たとえば1984年のシカゴ美術館のコレクションからの『芸術としての写真 その誕生から今日まで』と題する展覧会や、その翌年のつくば写真美術館で開催された『パリ・ニューヨーク・東京』といった写真展の図録にリブーの名前はなく、これでは2級クラスの写真家かと思ってしまいかねない。だが、日本での紹介が乏しいだけであるかもしれず、知らない写真家であるので観なくてもよいと思うのは早計だ。手元に保存しているチラシの中に1998年5月に京都の伊勢丹の美術館で開催された、京都・パリ友情盟約締結40周年記念の『パリ100年写真展』のものがある。そこに本展にも出品されたリブーの「エッフェル塔のペンキ塗り」の図版が掲載されている。筆者は同展を観ておらず、つまりは知識が乏しいゆえにリブーを知らないだけと言える。何必館は今までロベール・ドアノーやサラ・ムーンといったフランス人の写真家の展覧会を何度か開いて来た。そのことからして今回リブーの作品をまとめて購入し、会期中に作者も呼んでサイン会を開き、写真集も作るのは不思議なことではない。むしろ筋が通っている。
 ヴェトナム戦争と聞けばすぐにアメリカを思うが、この仏印の地に最初に入植したのはフランスだ。そこを巡って太平洋戦争が生じ、また戦後アメリカが介入して泥沼と化する戦争が始まる。そのため、ヴェトナム戦争にフランス人のフォト・ジャーナリストが取材に赴くことは不思議ではなく、前述の言葉をもう一度使用すれば、むしろ筋が通った話だ。本展で驚いたのは、リブーがヴェトナム戦争たけなわの1969年にホー・チ・ミンと会って話をし、写真を撮影していることだ。この時の写真が公になってホー・チ・ミンの生存が広く世界中で確認されたという。これはフランス人のリブーであったからこそ可能な取材であったろうが、彼が同時期にアメリカでヴェトナム反戦活動の様子を撮影していることからは、客観的に物事を見つめようとする写真家の姿が見え、世界を股にしたその行動力に感心する。カメラのシャッターを押せば誰でも写真が撮れる時代となって、アマチュア・カメラマンの作品発表の機会が急増しているが、誰でも写真が撮れるとなると、誰でもが出来ない経験を通じて得た写真がより価値があることになるだろう。報道写真は特にそうだ。そのため、たまたま現場に遭遇した幸運によって有名になる写真を撮る素人も今はよくある。だが、それは例外的なことで、職業として報道写真家を続ける場合は、そのようなシャッター・チャンスに恵まれる現場を予め察知し、ある時は同地に命を賭けて赴く必要がある。そんな経験を何年も続けているうちに、一生にそう何度もない機会が訪れる。それは素人が趣味で写真をやることでは決して得られないもので、写真家においてもプロとアマチュアの差は歴然とある。したがって、アマチュアの写真家が展覧会を開く時はよほどの覚悟、つまり恥晒しを承知のうえでやるがよい。
 では、誰もが訪れないような危険な土地に行けば素人でもいい写真が撮れるかだが、これもそうではない。写真は通常は四角い画面に画像を定着させる行為であるから、そこには絵画に似た画面構成の感覚が求められる。絵画から写真の歴史が始まったし、それを考えるならば、写真はインスタントな絵画であり、画家と同じような視覚の力を必要とする。言い換えれば造形感覚だ。しかし、ある意味では画家より大変な作業でもある。せっかくシャッター・チャンスに恵まれる状況に身を置いていても、相手は常に動いており、望みどおりの写真が撮れない場合は往々にしてある。絵画のように後で修正が利かないから、出会いの運があってもそれに万全に対応出来ない場合、いい写真は生まれない。そのため写真家のストレスは画家のそれとは著しく違って、もっと賭博的な、一か八かのスリルを常に伴ったものであるだろう。おそらく写真家は賭博師に似ているのではないか。銃弾が飛び交う戦地での報道カメラマンはさらにそう言える。命がかかっているから、それは究極の賭博師だ。そしてそのような戦場カメラマンは、カメラマンの地位の中では最も高く評されるべきものではないだろうか。そう考えた場合、戦争が多かった20世紀は報道カメラマンにとっては最も幸運な時代であった。リブーはたとえばユージン・スミスのように従軍して生々しい戦地を撮影しなかった。これはリブーが1923年の生まれで、カメラマンになった1950年にはすでに第2次世界大戦が終わっていたことにもよるが、すぐにマグナムに加わって、アフリカの独立戦争に取材したり、また前述のようにヴェトナム戦争に関係する地を旺盛に撮影して回ったから、戦争にはむしろ強く関係した仕事をして来ている。だが、たとえば沢田教一のようにヴェトナム戦争の悲惨なあり様を現地に分け入って撮影することはしなかったようだ。少なくとも本展にはそのような写真はなかった。リブーにはピカソやダリといった有名な芸術家や、毛沢東やチャーチル首相などの有名政治家の、日常のごくありふれた姿の一瞬を捉えた写真が少なくない。そのほかは平凡な市民をその街の中で捉える写真が中心で、被写体は生きた人間でしかも悲惨さを感じさせない、むしろにこやかさが伝わる写真がほとんどだ。これはリブーが悲惨な現実に目を向けたくなかったからか。そうではないだろう。むしろ逆で、世界中の悲惨な人々の現状をよく知っていたはずで、そうした人々を見るほどに、そうではない平和な人々の瞬間をこそ写真に収める必要を感じたのではないだろうか。この点はマティスと似ているかもしれない。つまりフランスのエスプリということかもしれない。戦地の無残な死体の山や悲しむ人々の写真を撮ることはリブーにも出来たはずだが、そうした仕事は他のカメラマンが大いにやっていることで、リブーは戦地を報道してもなお芸術にこだわった写真家でありたかったのではないだろうか。
 本展でも展示されていたが、リブーは1950年代の日本を積極的に取材している。そして彼はある国にそこそこ長期間滞在をして写真を撮ることをモットーにしているそうだが、そこにも人間というものをまず理解しようとする立場が現われている。単なる物珍しさでシャッターをやたら切るのは素人のやることで、それでは本当にいい写真は撮れないと言いたいかのようだ。日本の姿を少なからず実際に知っているリブーが近年何必館を訪れたのは2002年のことであったという。同年5月からおよそ2か月間はサラ・ムーン展の開催中で、それを観るために訪れたそうだ。リブーよりも世界的に有名になっているサラ・ムーンは、リブーより17年遅い生まれで、そのファッショナブルかつ幻想性に富む作風はリブーとは大いに異なるが、そんな彼女の写真をわざわざ観るために京都に訪れたところにリブーの人柄がわかる手立てがあるようにも思う。作風は異なっても同じフランス人であり、そこに共通する何かがあって、リブーは自分とは違うが共通する何かをサラ・ムーンの作品に感じ取っているのだろう。それはさておき、その時のリブーの何必館訪問が本展のきっかけになった。何必館はサラ・ムーンの写真を100点ほど所有しているようだが、リブーの作品も同程度購入し、それらが今回展示された。私設の美術館がこうしたまとまったコレクションを漸次増やすことはあまりないことと思うが、なかなか勇気がある行為だ。図録は買わなかったが、立ち見したところ、奥つけにリブーの言葉があった。そこには世界中どの街も似たりよったりになってしまった現在、京都のオアシスのような何必館云々と書かれていた。リブーにすれば自作がまとまって購入されることに対するお礼の言葉のつもりでもあろう。これはまた、リブーが自分の子どもたちと言ってよい自作の写真が、末長くしかるべき場所での保管の実現の機会を得たことに対する素直な喜びで、今年82歳になるリブーとしてはもうほとんど最後の自作収蔵への巡礼の旅と思っているふしも見える。時代とともに生きた間に自分が見てシャッターを押した写真が一定のある場所に保存公開されることは、写真家としては画家と同じように望外の喜びであるだろう。報道写真家ならば新聞や雑誌にたちまち掲載されることで大半の目的は達するが、ほとんど使い捨てにされる雑誌にではなく、きちんと額に収めて、しかもある程度まとまった数が美術館に掲げられることを期待する点でも、リブーは画家に近い写真家と言える。
 会場では運よくリブーを紹介する15分ほどのフィルムが上映された。そこで初めてリブーの現在の顔をしっかりと把握することが出来た。温厚そうな人柄がよく伝わる彼の顔を見てから写真を見つめ直すと、さらに写真の意味がよくわかる気がした。繰り返すと、リブーは人間に興味のある写真家だ。しかも不幸を抉るのではなく、そこはかとない幸福感を信じている。それがどの写真からも伝わった。代表作であるチラシやチケットに印刷された写真がそのことを最大限に伝えている。チケットに使用された写真はワシントンの国会議事堂前で撮影された。カメラに残っていた数枚のフィルムによってたまたま遭遇出来た瞬間を捉えたもので、当時20歳ほどののジャン・ローズの名前が写真のタイトルになっている。銃剣をかまえる警備隊も反戦デモに参加したジャン・ローズも、どちらも悲しそうに見える。それを見つめるリーブ自身もそんな目をしてこの写真を撮ったのではないだろうか。それは不幸な時代の不幸な現場を目撃する報道写真家の宿命だが、人々に人間であることを今一度思い起こさせるには、こうした写真が最も威力がある。銃と花という対比はあまりにも出来過ぎた設定だが、実際に花は当時の反戦思想の若者たちの掲げる象徴であり、リブーはモデルを使って撮ったのではない。この写真が奇縁となって、リーブはその後長くローズとかかわり続ける。ローズは結婚して今はジャン・カスミールと名乗っているが、彼女へのインタヴューが会場で上映されたフィルムにあった。彼女はこの有名な写真が撮影された後、マリファアなどの薬物中毒になり、それを克服して今は娘と暮らしている。その娘と一緒にワシントンの議事堂前で撮影された写真が、先の1967年撮影の「ジャン・ローズ」の写真のすぐ隣にかかっていた。時代は変わるし、その変わりようを見つめて行こうとするリブーの意欲がその連作とも言える写真からうかがえる。ホー・チ・ミンを撮影した時、ホー・チ・ミンはリブーに戦争のことは何ら語らず、シャンソンやワインなどパリでの思い出を懐かしげに話したという。そうした世間話をホー・チ・ミンがしたところからも、リブーの人柄がわかる気がする。紅衛兵が登場する以前の北京で撮影した写真が何枚かあった。その中の1枚の毛皮コートに身を包んだ誇らしげな初老の女性はいかにも金持ちの尊大さを伝えていたが、彼女のような金持ちはその後糾弾されて追放された。同様に歴史を推移を感じさせるのは、火力発電所の大きな筒型ドームが空を向いて設置されているイギリスの郊外の労働者階級が密集して住む地区を写した写真で、道行くいかにもありふれた人々は巨大な社会機構に圧迫されていることが伝わった。同じことは今や世界中どこにでも見られ、この何でもないような1枚の写真が20世紀社会の街に住む底辺の人々の生活を普遍的に表現していることに気づく。一方、日本を撮影した写真はどれも平和そのもので、現在と何ら変わらない人々の姿がそこにはある。たとえばアマチュア・カメラマンたちが女性モデルに蟻のように群がっている様子や、孫を大仏の前に立たせて写真を撮っているおじいさんを背後から撮影したものなど、どこにも戦争の跡やその影響を感じさせない。平和も戦争も世界には同時に起こっていて、リブーはそうしたあらゆる場所を回って取材した。旅はまだ終わらない。回顧にはまだ早い。戦争や平和もいつまでも同じように続く。
by uuuzen | 2005-09-24 23:43 | ●展覧会SOON評SO ON
●『手をつなぐ子等』 >> << ●『日本三景展』

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2025 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?